戻る ▲トップページ
9月28日 パソコン記念日、にわとりの日(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
エリカ(白) 孤独・裏切り・寂寞・幸福な愛・博愛×
シオン ご機嫌よう・追憶 ○
ハゲイトウ 情愛・不老不死・見栄坊・気取り屋 ○
ヒモゲイトウ 心配御無用・不死・不滅 ×
フジバカマ あの日を思い出す・遅延・躊躇 ○
∞…∞ 9月28日・今日という日 ∞…∞
ヒラリー・ダフ (1987) 歌手
吹石一恵 (1982) タレント
NAKAKO (中村弘二) (1977) スーパーカー、G. Vo.
朴 セリ (1977) ゴルフ
葛城育郎 (1977) 野球
木村 剛 (1977) 俳優
堀美矢子 (1974) タレント
矢島 学 (1971) アナウンサー
伊達公子 (1970) テニス
岸 祐二 (1970) 俳優
渡辺美奈代 (1969) タレント
ミカ・ハッキネン (1969) レーサー
渡辺一平 (1969) サッカー
和泉淳子 (1969) 狂言師
仙道敦子 (1969) アナウンサー
藪 恵壹 (1968) 野球
邪道 (1968) プロレス
ナオミ・ワッツ (1968) 女優
霜村英昭 (1968) 野球
レーナ・マリア (1968) 歌手
貴闘力忠茂 (1967) 相撲
松浦季里 (1961) CGアーティスト
根岸孝旨 (1961) Dr. Strange Love、Vo. G. 音楽プロデューサー
徳井 優 (1959) 俳優
小西博之 (1959) 俳優
野崎 進 (1959) 野球
えんどコイチ (1956) 漫画家
バカボン鈴木 (鈴木正之) (1956) パール兄弟、Bass
シルビア・クリステル (1952) 女優、画家、エマニエル夫人
陳 志明 (1952) ゴルフ
内藤やす子 (1950) 歌手
周 富輝 (1950) 料理人
大塚範一 (1948) アナウンサー
鈴木啓示 (1947) 野球
千藤三樹男 (1947) 野球
ロミー・シュナイダー (1938) 女優
江上栄子 (1935) 料理研究家
ブリジット・バルドー (1934) 俳優
湯浅憲明 (1933) 映画監督
森谷司郎 (1931) 映画監督
三船 浩 (1929) 歌手
晴乃ピーチク (1925) 漫才師
マルチェロ・マストロヤンニ (1924) 俳優
大原富枝 (1912) 作家
平沼騏一郎 (1867) 政治家
長野宇平治 (1867) 建築家
横河民輔 (1864) 建築家
ジョサイア・コンドル (1852) 建築家
ミケランジェロ・ダ・カラバッジョ (1573) 画家
孔子 (BC551) 思想家
○ 江戸小石川の水戸藩邸に、黄門さまこと水戸光圀らが作らせた庭園、後楽園が完成(1629)
○ 日本エスペラント協会の第1回大会(1906)
○ 京浜線で自動ドアの電車が登場(1926)
○ 国鉄上越線の新清水トンネル開通(1967)
○ ボンベイ離陸直後の日航機が日本赤軍にハイジャックされ、ダッカ空港へ強行着陸。犯人は日本政府に日本で服役中の同志9人の釈放などを要求。政府は「超法規的措置」で釈放、人質と交換(1977)
○ 日本テレビが、最初のテレビ音声多重放送を行う(1978)
○ 1969年から17年間続いたドリフターズの「8時だよ!全員集合」(TBS)の放送が終了(1985)
○ 冷夏のため9月15日の時点での米の作況指数が戦後最悪の80となったことが公表される(最終的には74となる)(1993)
プライバシーデー
1964(昭和39)年、三島由紀夫の小説『宴のあと』でプライバシーを侵害されたとして有田八郎元外務大臣が作者と発行元の新潮社を訴えていた裁判で、東京地裁がプライバシー侵害を認め、三島由紀夫に損害賠償を命じる判決を出した。
日本でプライバシーが争点となった初めての裁判。
パソコン記念日
1979(昭和54)年、日本電気(NEC)がパーソナルコンピュータPC-8000シリーズを発売し、パソコンブームの火附け役となった。
教師節
(台湾) 模範教師の表彰等が行われます。
教育家でもあった孔子の誕生日であることから。
中華人民共和国では9月10日が「教師節」となっている。
パソコンの日(9.28)
「パソコンの日」は1979年9月28日に日本電気がPC-8001を発売したのを記念するものです。
無論これが日本で初めてのパソコンというわけではありませんが、これが日本におけるパソコンブームの火付け役になったことは確かで、そこからこの日付が選ばれたものと思われます。
どこが定めた記念日なのかは確認できませんでした。
(日本でパソコンが最初に発売されたのは多分1972年か1973年頃だったのではないかと思います。)
パソコンの歴史はマイクロプロセッサの誕生とともに始まります。
1969年に日本のビジコンの嶋正利がアメリカのインテルに赴き、電卓用の小型プロセッサの発注について説明しました。
この時、インテルの若き技術者テッド・ホフがマイクロプロセッサという構想を披露しました。
指の上に乗る超小型コンピュータの概念が生まれた瞬間でした。
それまでのコンピュータというのは、制御装置・記憶装置・演算装置というのがそれぞれ多数の真空管もしくはトランジスタの組合せで制作された巨大なものでした。
しかしホフはこのコンピュータの中核部分をたった1個のICの中に閉じこめてしまおうという、とんでもないことを考えたのです。
この構想を元に1971年世界初のマイクロプロセッサi4004が誕生しました。
この名前はこのプロセッサの中に4004個のトランジスタが組み込まれていたからです。
このシリーズがやがて、8008, 8080, 8086, 80286,80386,i486,Pentium, PentiumII, PentiumIII…… と発達してきて、多くのメーカーのパソコンに組み込まれてCPUとして使用されてきました。
1974年12月、MITS社はALTAIRというパソコンを発表しますが、ハネウェル社のポール・アレンは友人の大学生ビル・ゲーツとともにこのALTAIR上にそれまでは大型機でしか動いていなかったBASICを移植することを考えます。
アレンはこの作業を半月ほどでやり遂げ、発売しますと、ものすごい売れ行きになりました。
このお陰で業績不振に陥っていたMITS社は大幅に業績を回復。
二人はこのBASICをMITS社に30万ドル(3000万円)で売却、この資金を元手にしてMicrosoft社を設立しました。
1975年夏、ヒューレット・パッカード社の技術者スティーブ・ウォズニアックはビジネスショーで見かけた6502というモステクノロジー社のCPUに魅せられます。
彼はこのCPUを購入して、友人のスティーブ・ジョブスの父親の家のガレージでパソコンを組み立て Apple と名付けて売り出しました。
これは大ヒットとなり、二人はこのパソコンを売る会社アップルを設立します。
(6502は後に任天堂のファミコンに採用されました。)
1973年頃、日本電気の半導体部門はインテル社のCPUの互換CPUを製造していました。
しかし当時はまだ家電にマイクロプロセッサは搭載されていません。
半導体部門は折角作ったCPUの販路に困っていました。
この時その販路開拓について相談された渡辺和也(後に日本電気支配人,日本ノベル社長)はそのCPUに配線器具やキーボードなどを組み合わせたパソコン自作キットを作ることを思いつき、1976年8月TK-80の名前で発売します。
これは当時コンピュータに興味は持ってはいるものの、近くに自由に使えるコンピュータのないマニアたちに大いにうけました。
この成功に気をよくした渡辺は続いてアメリカに渡り、当時はまだ海のものとも山のものともつかなかったMicrosoft社にビル・ゲイツを訪ね、彼らの作ったBASICを今度日本電気から発売するパソコンに搭載させて欲しいと頼みました。
ゲーツはこれを承諾。
ここにPC-8001の仕様が固まりました。
しかし当時日本電気はこういう製品を販売するルートを持っていませんでした。
むろん大型コンピュータを売っている部門はありますが、それは何千万円もする商品。
一方のPC-8001は結局16万8千円で販売されています。
渡辺らのグループはこれを家電の販売ルートにのせることを考えます。
このため、日本電気のパソコンの製造販売は現在でも、日本電気ホームエレクトロニクス(当時は新日本電気)の管轄になっています。
1979年9月28日に発売されたPC-8001 はCPUがμPD780・メモリ16K で、カセット、フロッピー、ディスプレイ、プリンタが接続可能になっていました。
むろん16Kというのは当時としては広大すぎるくらいの巨大メモリでした。
カセットは当時の主力の補助記憶装置です。
その後、このシリーズは PC-2001, PC-6001, PC-8001, PC-8801 という4つの枝に分かれますが、結局ソフト環境が整備された 8801 のみが生き残ります。
そして、この日本電気のPC開発はその後、情報処理事業部に移管され名機 PC-9801(MS-DOS) が生まれることになります。
なお、遅れて来た巨人IBMは1981年にやっとIBM-PCを発売します。
その時にIBMは従来パソコンに使われてきたBASIC以外に、もっと本格的なOSを搭載しようと考えました。
そしてBASICの元締めともいうべきMicrosoftに新しいOSの制作を依頼します。
しかしMicrosoftはすぐにそれを作ることができなかったため、シアトル・コンピュータ・プロダクツのSCP-DOSを買収。
これを改造してIBMに提供しました。
これがMS-DOSです。
その後IBMのこのシリーズは PC/XT, PC/AT と発達していきました。
PC/ATは現在の世界のパソコンのほとんどを占めている Windowsマシンの原型です。
この IBM-PC にシェアを奪われて業績を悪化させたのがアップルでした。
ここでアップルの経営陣及び技術陣はゼロックス社でアラン・ケイという若い技術者が1973年に作り上げていた画期的なパソコン試作品を見学に行きます。
そしてその素晴らしさに感動して、IBMに対抗するにはこういうパソコンを作るしかないと結論。
そこで生まれたのが1983年のLisa, そして1984年の Macintosh でした。
Macintoshを見て、恐らく最もその精神に共感したのはビル・ゲイツだったと思います。
彼はこれが近い将来のパソコンの進むべき方向であると直感。
ただちにそれを追いかけるべく Windows の開発に取りかかります。
そして極めて使い勝手が悪かった Windows1.0 を経て1988年には実用的なWindows 2.0が発売。
しかしIBMのMS-DOSでは、アルファベットには良いのですが漢字やひらがな・韓国語……は、使用できませんでした。
そこで、日本語用に開発したMS-DOSを全世界用に変更をかけた、DOS/Vを乗せWindows 3.0、更には1995年の Windows 95 で世界標準OSの地位を獲得しました。
(PC-98ではWindows 3.1から)
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
▲このページの先頭へ戻る
戻る ▲トップページ