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9月22日 日本救世軍創立記念日、夫婦の日(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
ススキ 活力 ○
アカネ 私を思って・媚び・誹謗・傷 ○
コバン草 興奮・白熱した議論 ○
センニチコウ 安全・変わらぬ愛情・不変の愛・無事○
∞…∞ 9月22日・今日という日 ∞…∞
吉村綾花 (1990) SweetS
成田童夢 (1985) スノーボード
トム・フェルトン (1987) 俳優
今井絵理子 (1983) 歌手、元SPEED
北島康介 (1982) 水泳
渋谷すばる (1981) タレント、俳優、関ジャニ∞
山瀬功治 (1981) サッカー
苫米地鉄人 (1981) 野球
有楽彰展 (?) 漫画家 「東京アンダーグラウンド」
羽田実加 (1978) タレント
小尾元政 (1978) 声優
三瓶京子 (1977) タレント
角田ともみ (1977) タレント
ロナウド (1976) サッカー
三上大和 (1976) タレント、俳優
永井みゆき (1975) 歌手
ボブ・サップ (1974) 格闘家
別所悠二 (1973) Bluem of Youth、Vo.
岩永雅子 (1973) 歌手
ホンボ・ツァオ (趙 宏博) (1973) フィギュアスケート
徳永暁人 (1971) 作曲家、ベーシスト
浅利純子 (1969) マラソン
渡辺真美 (1969) タレント、元 Mi-ke
工藤めぐみ (1969) プロレス
ダビド・ビスコンティ (1968) サッカー
しゅう (1968) シャ乱Q、Bass
緒形直人 (1967) 俳優
スペル・デルフィン (1967) プロレス
紗夢猫 (1967) 漫画家
豊ノ海真二 (1965) 相撲
ルビー・モレノ (1965) 女優
橋本 潮 (1965) 歌手
樋口真嗣 (1965) 特技監督
丸田祥三 (1964) 写真家
出口雅之 (1963) 歌手、元REV
ギターウルフ (セイジ) (1963) ギターウルフ、Vo. G.
ふせえり (布施絵理) (1962) タレント、ビシバシステム
TAKU (1960) 横浜銀蝿、Bass
秋里和国 (1960) 漫画家
石井竜也 (1959) 歌手、芸術家
鈴木雅之 (1956) 歌手、シャネルズ
五大路子 (1952) 女優
志垣太郎 (1951) 俳優
藤沢和雄 (1951) 競走馬調教師
瞳みのる (1948) 元ザ・タイガース、Dr.
谷沢健一 (1947) 野球
田部井淳子 (1939) 登山家
岡田眞澄 (1935) 俳優
オジー・ティモンズ (1970) 野球
三遊亭歌笑 (三代目) (1917) 落語家
清水 崑 (1912) 漫画家
エリック・グンナール・アスプルンド (1885) 建築家
牧野省三 (1878) 映画監督
吉田 茂 (1878) 政治家
幸徳秋水 (1871) 評論家、社会主義者
明治天皇 (1791) 天皇
○ オランダ国王ウィリアム2世が将軍に送った開国を忠告する国書が長崎到着から80日もかかって江戸に届く(1844)
○ リンカーン、奴隷解放宣言(1862)
○ 会津若松城落城(1868)
○ 来日中の救世軍士官14人が神田の基督教青年館で宣戦式を行い、伝導活動を開始(1895)
○ 米政府が「降伏後における米国の初期の対日方針」を発表(1945)
○ イラン・イラク戦争突入(1980)
○ 昭和天皇、手術を受ける。天皇の体にメスが入ったのは、史上初めてのこと。病名は慢性すい炎と発表(1987)
○ 横綱千代の富士、本場所通算965勝の最多記録達成(1989)
救世軍日本伝道記念日
1895(明治28)年、救世軍日本支部が設立された。救世軍は、1878年にイギリスで創設されたプロテスタント系のキリスト教の一派。
軍隊的な組織のもとに、民衆への伝道と社会事業を行っている。
孤児院の日
1887(明治20)年、岡山の医師・石井十次が日本初の孤児院「孤児教育会」を創設した。
国際ビーチクリーンアップデー
アメリカ・サンフランシスコに本部のある海洋自然保護センターが1985(昭和60)年から実施。
この日に近い週末に、世界各地で一斉に海岸のごみを拾い集め、その数量・種類等を調べることによって、海洋のゴミの発生元や、地球環境への影響を調査している。
夫婦の日
毎月の22日。「22」を「フーフ」にかけた語呂合わせによる。
夫婦対話で明るいマイホーム作りをと1987年に毎日新聞が提唱し、制定。
インテリアの日(毎月第4土曜日)
独立記念日(マリ共和国)
1960(昭和35)年6月20日に西隣のセネガルとともにマリ連邦としてフランスから独立したが、同年8月20日にセネガルが連邦から離脱し、この日マリ共和国として単独で独立した。
明治天皇(1852-1912)
明治天皇の誕生日は11月3日ではないかと思う方も多いと思うのですが、それは太陽暦での話。
その当時の暦でいくと嘉永5年9月22日未下刻(14時半頃)ということになります。
はじめ祐宮(さちのみや)と名付けられました。
明治天皇の御生母は中山慶子権典侍(権大納言中山忠能の次女,のち従三位・大典侍)です。
良家の娘ばかりの当時の後宮において、身分も低く田舎育ちであったものの、孝明天皇は逆にそれが新鮮な魅力にうつって御子誕生ということになったとも言われています。
時代的背景もあり、宮中で純粋培養するよりも自然に育てた方が良いとの方針で8歳になるまで中山家で養育され万延元年(1860)9月28日親王宣下、睦仁(むつひと)の名を賜ります。
そして慶応2年(1866)12月25日孝明天皇が急死すると年明けの同3年1月9日弱冠15歳で践祚。
天皇となりました(即位は翌4年8月27日)。
なお睦仁親王の上には3人の皇子がいましたがいづれも夭折しており、孝明天皇の子で大きく育ったのは結局明治天皇だけでした。
(准后九条夙子も内親王を一人産んでいるがやはり夭折している。当時の天皇家の血統は危機的状況であった。これは五摂家の娘でなければ女御になれない当時のしきたりに問題があったともいわれている)
世が世であれば天皇は学問や文芸だけをしていれば良かったのですが時代はそのようなことを許してはくれませんでした。
まだ即位式もあげていない慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を請い24日には将軍職の辞職を建白。
これをうけて朝廷では12月9日王政復古の号令を発して将軍職を廃止しました。
明治維新です。
明けて慶応4年3月14日には五箇条の御誓文が発表され、4月11日江戸城開城。
7月17日江戸を東京と改名、8月27日に即位式をあげると9月8日明治改元、同20日には日本の分裂を避けるため天皇は京都を発って東京に向かい10月13日江戸城に入って東京城と改名しました。
更に天皇が東京に移動したことに動揺した京都の人々のために天皇は12月にはいったん京都に戻り12月28日一条勝子入内(結婚にあたって美子と改名)。
美子は天皇より2つ年上で、17歳と19歳のとてもお若いカップルでした。
ちなみに美子(はるこ,昭憲皇太后)は明治天皇の子供は産んでいません。
体質が弱く子供が産める身体ではなかったとも。
この非常に困った状況を改善すべく明治4年と5年に後宮の大改革が行われ、当時の上級女官のほとんどが罷免され、以後の女官は家柄に関係なく登用されることとなり、やがて柳原愛子(なるこ)が大正天皇となる明宮(はるのみや)を産みます。
明治天皇の成人した子供は5人ですが皇子は明宮のみでした。
さて、話を戻して天皇は明治元年12月に京都に戻ったものの翌年3月には再び東京へ移動。
「天皇が東京に滞在中は太政官もそちらに置く」という玉虫色の遷都?宣言を行います。
そしてこの年各藩が相次いで版籍を奉還し、日本は天皇を中心とする新しい国家として生まれ変わりました。
さてこの激動の時代に国を動かしていたのはいったい誰でしょう??
慶応3年1月9日に二条斉敬が摂政となっていますが同12月9日には罷免されています。
(彼は結局藤原家最後の摂政となった)
代わってトップに立ったのは和宮の元婚約者としても知られる有栖川熾仁親王で、同月明治政府の初代総裁に任命され東征大総督となって官軍を率いて江戸城入城を果たしますが、その後は三条実美がはじめ輔相(1868-69)、ついで右大臣(69-71)、太政大臣(71-85)となって実権を握っています。
有栖川親王も三条も幕末から朝廷側で色々と動いていた人でいづれも1863年に公武合体派のクーデターにより中枢から追い出されています。
それが恐らくは孝明天皇の死去によって公武合体派が挫折したことにより彼らのグループが復権。薩長の幹部と合わせた集団指導体制で急速な改革を進めて行ったのでしょう。
明治時代は同10年(1877)の西南戦争を最後に全体がひとつにまとまり、22年の大日本帝国憲法発布、翌年帝国議会の創設により政治体制も整備され、また富国強兵に務めて明治27〜28年(1894-95)の日清戦争、37〜38年(1904-05)の日露戦争を戦ってその実力を世界に誇示しました。
ひとつ間違えば西洋諸国のどこかの植民地にもされかねなかったこの時代に江戸時代の平和に慣れきっていてまさに黒船数隻にも何も抵抗できなかった武士たちに代わり国民皆兵による新しい軍隊を創設して大国と対等に戦える実力を育てていく一方で、どんどん西洋の技術を移入して工業の発展を促し繊維製品の輸出で利益を出せるようになり、また民主主義的な政治体制を少しずつ整備し、近代国家としての基礎を作っていった。
これがうまくいったのはほとんど奇跡ともいうべきものです。
中国や朝鮮半島への干渉、女工哀史のような過度の社会的歪み、また後のシナ事変・太平洋戦争へとつながる軍部の暴走などの問題点はあったもののこの時代に事実上の国の統合の象徴として君臨したこの天皇はやはり名君であったのでしょう。
天皇は帝国憲法でも主権者とされ法制的には政治体制のトップにありますが実際には行政の責任は大臣にあり、また軍の指揮権も各軍のトップにあってその地位は実際には形式的なものでした。
しかし明治天皇は20歳になられた1872年から1881年まで10年をかけて全国各地を行脚し、そのほとんどの地で民家に宿泊。
各地域で頑張っている人達を表彰して国民の志気を高揚しました。
そのため私達は今でもあちこちで睦仁の署名のある額を見ることができます。
昭和天皇が戦後行った全国行脚も、ある意味ではこの時の明治天皇の全国行脚の焼き直しでしょう。
また天皇は実際に戦争が始まると前線近くまで自ら赴いて兵士たちを激励してはいますが、日清日露の両戦争自体には一貫して反対の御立場であったとされ、山形有朋らの軍閥や伊藤博文らの好戦派政治家とは次第に距離を置いていったといわれます。
そのため伊勢神宮への戦勝祈願・戦勝報告も拒否したりしており、そういった意志もまた昭和天皇に受け継がれていったのでしょう。
吉田茂(1878-1967)
明治11年(1878)9月22日東京神田駿河台の竹内綱東京別邸で綱の五男・茂が生まれました。
(母は竹内の2度目の妻瀧(たき)。瀧にとっては最初の子供)
茂は生まれてすぐに親同士の以前からの約束により横浜の貿易商吉田健三の養子になります。
戦後の日本復興に力を尽くした名宰相・吉田茂の誕生でした。
彼の活動は外交官時代、戦時中の和平活動家としての時代、そして戦後の宰相としての時代の3つに大別できます。
以下それを順次追いかけていきます。
竹内家は土佐藩家老伊賀氏に代々仕えて来た家柄です。
伊賀氏は秀吉の重臣、山内一豊(奥さんのへそくりで名馬を買ったことで有名な人)の姉通(つう)の子・伊賀可氏の子孫で、山内一豊が関ヶ原の戦いで家康側についたことから土佐24万石を与えられて四国に来た時に付き従い、家老として宿毛城に入りました。
竹内家はその伊賀氏に重んじられていたのですが幕末頃には落ちぶれていて、綱の時代にはすっかり貧乏侍になっていました。
しかし綱は持ち前の見通しの良さと誠実さで、最初樟脳の販売で土佐藩の財政を潤し、維新後は後藤象二郎に重んじられて財界で活躍しました。
しかし茂が生まれた時はつまらぬ事件に連座して刑務所に入ったりしていた頃でした。
茂は11才の時に養父を亡くし、若くして莫大な財産を受け継ぎます。
その後、小笠原東陽の耕余義塾に学んだ後、高等商業学校(後の一橋大学)、東京物理学校(後の東京理科大)などいくつもの学校を短期間ずつ転々としてから明治30年10月学習院に入り、ここで7年間学びます。
学習院は華族の子弟ばかり集まっていましたが吉田茂も十分な「お坊っちゃま」。
ここで彼は自分の人生の進路を見出しました。それは外交官として生きる道です。
明治37年東京帝大に移り、同39年7月卒業して外交官試験を受けて合格。
この時の同期に彼に後々まで深く関わることになる広田弘毅もいました。
明治40年奉天領事館に赴任、すぐに実質的な領事代行になります。
翌年帰国してロンドン赴任を命じられ出発前の明治42年3月、牧野伸顕(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚します。
これは実父竹内綱が積極的に進めた縁談でした。夫婦そろってイギリスへ赴任して1年ほど務めた後、イタリアへ移り、イタリア万博の事務に携わります。
そして明治45年帰国。
元号が改まって大正元年、安東領事兼朝鮮総監府書記官に任命。このとき、大熊重信内閣の対華21ヶ条要求に彼はただ一人反対しました。
むろん内閣は一介の領事の意見など聞かずゴリ押しをしてこれを中国に押しつけ、国際世論の反発を招きます。
この反抗が災いして大正5年帰国してから資料整理の仕事に左遷。この時の吉田はふてくされており、外務次官だった幣原喜重郎から呼び出しがあっても聞こえないふりをして仕事をサボタージュしていたといいます。
大正7年済南領事を半年ほど務めた後、義父・牧野伸顕のパリ講和会議出席に随行して渡欧、そのままイギリス大使館一等書記官としてヨーロッパに残りますが、この時重要な出会いがありました。
皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のヨーロッパ歴訪をロンドンでお迎えします。
この時吉田は裕仁親王の人柄に感動し、また自分が持っている英国観・英国皇室観を熱く皇太子に語りました。
大正11年実父竹内綱が亡くなったのに伴い帰国、そのまま天津総領事、奉天総領事をつとめ、昭和3年には田中義一首相兼外相に抜擢されて外務次官になりました。
その後イタリア大使を短期間務めたあと、広田弘毅外相のもとで海外の大使館を巡回する特命を受け、それを数年間続けました。
そして昭和10年11月定年退官。
広田弘毅は吉田の同期生ですが、吉田と違ってエリトーコースを歩んでいました。
彼はこのままではいづれアメリカと戦争になると考え、それを回避するための必死の作業を続けていました。
当時この広田弘毅の対外政策が成功して、もし日本が平和な国家に戻っていたら、吉田の社会活動はこれで終わって、反骨精神旺盛で、筋の通らないことを嫌う、気骨のある外交官としてだけ吉田茂は一部の人の記憶の中に残ったものと思われます。
しかし時代はそれを許してくれませんでした。
広田弘毅の外交活動も内部に軍部という爆弾を抱えたままではどうにも実を結びませんでした。
昭和11年、とうとう226事件が起きて岡田内閣がひっくり返ります。
その後任として白羽の矢が立ったのはその広田でした。広田は自分はただの外交官だとして首相就任要請を頑固に拒否しますが、その説得役として吉田が駆り出されました。
広田は口説き落とされて首相になりますが、結果的にはこれは彼に絞首台への道を歩ませることになります。
広田はその自分を口説き落とした吉田を組閣参謀にして新内閣を作り吉田を自分の後任の外務大臣に指名します。
この内閣がこのまま発足していたら、日本はひょっとすると悲惨な戦争への道を歩まずに済んだかも知れません。
しかしここに軍部から横やりが入り、戦争拡大に否定的な吉田は外務大臣に就任することができませんでした。
広田弘毅は手足をもがれたような状態で苦しい内閣運営をしなければなりませんでした。
吉田は外務大臣にできなかったお詫びとしてイギリス大使に任命され英国へ赴きますが、やがて日英関係の悪化により帰国。
この時彼は英国首相に何とか戦争をやめさせるよう工作してみるから日本を見捨てないで欲しいと言い残しました。
しかし既に外務省を定年退官してただの市井の人である吉田には工作を実らせるだけの充分な影響力は発揮できませんでした。
そんな中、長年連れ添った妻の雪子が乳癌で死亡。意気消沈している間にとうとう日本は対米開戦してしまいます。
そんな吉田を尋ねてきた人物がいました。鳩山一郎と岩淵辰雄です。彼らは無謀な戦争を続ける東条英機を退けて和平志向の内閣を作るべく相談を進めます。
吉田邸にはその路線の人々が多数集まり、過激な細川護貞などは東条を暗殺しようとまで言いましたが、さすがにこれはたしなめられます。
東条に代わる首相候補として穏健な宇垣一郎元陸軍大将や小林躋造海軍大将などの名前が検討されました。
しかし当局も彼らの動きをいつしかつかんでいました。特高は吉田邸内に2人の女性スパイをお手伝いとして潜入させ、彼らの動静を念入りに調べました。
そして昭和20年4月15日、吉田は突然特高に連行され投獄されます。
岩淵らも同様に拘束されており、刑務所が火事になった時に再会しました。
結局彼らは5月いっぱいまで拘束された後、仮釈放されました。
終戦。
天皇の肉声による放送があると聞いた時、吉田は天皇の性格からしてその内容が何であるか、きちんと分かっていました。
昭和20年8月17日発足した東久邇宮内閣は英米にうけのいい人物を中心に閣僚を揃えようとし、イギリスに3度にわたって外交官として赴任していた吉田茂を外務大臣に迎えようとします。
しかしこの時は木戸幸一が反対して実現せず、重光葵が外相になり、ミズーリ号での降伏文書調印を行います。
しかし重光は首相にも米軍にも非協力的であったため解任され、昭和20年9月17日代わって吉田茂が外務大臣に任命されました。
この時66歳。
政治家としての非常に遅いスタートでした。
外務大臣に就任した吉田は早速マッカーサー元帥と会談します。
この席で彼は昭和天皇の人柄をよく説き、これからの日本にぜひとも必要な人物であることを主張、そしてイギリス風に天皇を国の象徴として扱うことを提案しました。
マッカーサーは即答を避けますが、すぐに27日天皇との会談を行い、吉田が言った昭和天皇の性格というものを確認します。
この天皇とマッカーサーの会談時の記念写真は、平服のマッカーサーに対して正装の昭和天皇、背の高いマッカーサーと低い天皇、がみごとに対比されており、国民に「日本は負けたんだ」という意識を強烈に植え付けます。
この写真の流布を恐れた山崎内務大臣は写真報道を差し止めようとしますがGHQが差し止めをすることを禁じ、結局これがきっかけの一つとなって東久邇宮内閣は退陣しました。
後任の首相には吉田が外務省時代の先輩であり当時隠居していた幣原喜重郎を担ぎ出しました。
この辺りから吉田はもう実質日本のリーダーとして活動し始めています。がこの時はまだ外務大臣のままです。
早速、幣原は吉田を伴ってマッカーサーに会いに行きますが、ここで日本の民主化に関する五ヶ条の要求を渡されました。
そこには女性に参政権を認めること、労働組合の結成を奨励すること、基本的人権の保障をすること、などがうたわれていました。
吉田にはそれは予想の範囲でしたが保守的な幣原にはショックでした。
幣原は憲法改正の必要性を感じ、その素案をまとめますが、マッカーサーに見せると即座に拒否されます。
この結果マッカーサー自身が憲法素案を書く羽目になりますが、そこにうたわれた精神はマッカーサーと吉田が共に理想と考えることでした。
昭和21年、幣原内閣は厳しい食料不足や激しいインフレなどで社会不安が高まる中、国民の不満を収めることができずに退陣に追い込まれます。
その後任は鳩山一郎になるものと思われました。
ところが、ここで鳩山は以前ファッショ的な著作を書いたことがあったとして、公職追放の憂き目にあってしまいます。
そこで急遽鳩山は吉田自身に首相になってくれるよう要請、やむを得ない状況なので受諾。
ここに昭和21年5月22日、とうとう第一次吉田内閣が発足しました。
この吉田内閣のもとで新しい憲法の制定作業が進められます。吉田はマッカーサーに負けないくらいの理想家でした。
憲法9条についても彼は「過去の戦争というものはみな自衛の為といって始められたものだ」といって明確に軍備を否定します。
そして新しい憲法が成立し発効を待つ中、一足早く施行された改正選挙法により昭和22年4月25日、女性も参加した総選挙が行われました。
新しい憲法の元では首相は国会議員でなくてはならないので、吉田は郷里の高知全県区から出馬、トップ当選します。
しかし皮肉にも当時の社会不安を背景にしてこの選挙では社会党が大躍進、第一党になってしまったため、吉田内閣は退陣。
社会党政権の片山内閣が発足します。
しかしこの片山内閣は50年後の村山内閣と同様で、社会党政権であるのに保守政権と全く同じ政策しか取ることができませんでした。
人を批判するのと実際にやるのとの違いは甚だしいものです。
実際に自分がやることになるわけがないと思っている人だけが無責任な批判をすることができます。
片山内閣に人々は失望し、党内外からの批判がつのって片山内閣は7ヶ月半で瓦解、芦田均が引き継ぎますが、昭和電工疑惑が起き、閣僚が逮捕されるに至って芦田内閣も退陣に追い込まれました。
そしてその後を受けて昭和23年10月15日第二次吉田内閣が発足します。
しかしこの時点では少数与党。
政権は不安定で内閣不信任案が通ってしまい、国会解散。
総選挙に入りこれに圧勝して、昭和24年2月16日第三次吉田内閣へと移行しました。
しかしこの選挙の最中A級戦犯7名が巣鴨で処刑。
その中で東条の処刑は当然としても、日米関係安定の為に尽力するも果たせなかった広田弘毅も含まれていたことに吉田は涙します。
この頃吉田は佐藤栄作・池田勇人ら次世代を担うべき政治家を積極的に登用しました。
そして昭和24年内閣が発足するとすぐに「インフレ終息宣言」を出し「終戦の終了」をアピールし始めます。
このころ吉田が最も手を掛けたのが正式に戦争の終結となる講和条約の締結問題です。
それに際してアメリカ大使ダレスは日本が独立を回復するに当たっては軍隊を持つことが必要であると主張しました。
これに対して吉田はこれからの時代の安全保障はそれぞれの国が軍隊を持って自分の国を守るのではなく、国連の軍隊により全ての国の安全を守るべきだと考えていました。
会談は平行線をたどります。吉田はその理想を分かち合える相手であるマッカーサー元帥を頼みとしましたが、そのマッカーサーが朝鮮戦争における発言の責任を問われて突如解任されてしまいます。
マッカーサーは吉田に「日本をいい国にしてください」という言葉をのこして去っていきます。
ここで吉田もとうとう妥協を余儀なくされました。昭和26年9月8日サンフランシスコで太平洋戦争を完全に終結させる講和条約が結ばれて日本は独立を回復しましたが、この時吉田以外にはほとんどの日本人がその内容を知らされていなかった日米安保条約も同時に調印されました。
吉田は国連の機能が米ソ対立によって形骸化している現状では、日本の安全保障をアメリカにゆだねる以外ないと判断したのです。そして同時に日本自体の防衛力も整備する必要性を感じていました。
翌昭和27年10月には警察予備隊を保安隊に改組します。(昭和29年7月さらに自衛隊に改組)
さて、吉田を首相に押し上げた鳩山一郎は昭和26年やっと公職追放がとけて政治の世界に戻ってきます。
そして吉田に首相の座を譲るように言ってきますが吉田はまだ自分の仕事は完成してないという思いがあり、これを拒否します。
拒否された鳩山はあの手この手で吉田の回りから圧力をかけてきます。
これに対抗するため、吉田は奇策を用いました。昭和27年8月28日、国会が開幕したと同時に国会を解散してしまいます。
『抜き打ち解散』です。
ここで行われた総選挙により、自由党内の吉田支持勢力は吉田が日本の独立を回復させたことに対する世論の圧倒的な支持により、鳩山の分派勢力を大きく上回って、これによって第4次吉田内閣が発足しました。
ところがこの内閣は思わぬところでケチがついてしまいます。
それは昭和28年2月28日のことでした。
その日、衆議院予算委員会で右派社会党の西村栄一が質問に立っていました。
西村:首相は国際情勢を極めて楽観しているようですが、どのような根拠にもとづいてのことなのでしょう?
吉田:アメリカのアイゼンハワー大統領もイギリスのチャーチル首相も同様の見解を持っています。
西村:私は欧米の政治家の意見を聞いているのではない。日本国首相として答弁されたい。
吉田:私は日本国総理大臣として答弁したのである。(明らかに西村が喧嘩を売っていることが分かってきたため、やや語尾が震える)
西村:首相は興奮せずに答弁されたい。
吉田:無礼なことを言うな。
西村:何が無礼だ。
吉田:無礼じゃないか。
西村:質問しているのに何が無礼だ。日本の総理大臣として答弁できないのか。
吉田:バカヤロー!
この失言はさすがに問題とされ、総理大臣への譴責決議案という前代未聞の決議案が国会に上程され、しかも鳩山一郎に近い広川農相の一派が欠席したため可決されてしまいます。
吉田はこの閣僚として不実な広川をとがめて罷免します。
閣僚の罷免というのは戦後3度しか起きていませんが、この時がその内のひとつです。
勢いに乗った野党は続けて内閣不信任案を提出。鳩山一派が自由党を正式離党、不信任案は通過して、吉田は国会を解散しました。
『バカヤロー解散』です。
この選挙ではさすがに吉田も苦戦しました。結局自由党だけでは単独過半数を確保できず改進党と連立の上で昭和28年5月21日第5次吉田内閣を発足させます。
しかしこの内閣は連立政権という基盤の弱さに加えて、汚職事件によって打撃を受けます。
造船疑獄です。
やがてその取り調べの手が吉田の懐刀である佐藤栄作幹事長まで及ぼうとすると、吉田は犬養法相に命じて指揮権を発動させ、検察庁に捜査の中止を命じました。
この強引な措置はさすがに各方面からの批判をあび、とうとう昭和29年12月7日、吉田茂は内閣総辞職の道を選びます。
そして吉田の理想はやがて、彼がその政治生命と交換に守った佐藤栄作に受け継がれ、10年後に総理大臣に就任した佐藤は平和的な交渉による沖縄返還という大事業を成し遂げます。
吉田はその佐藤が首相として活躍し始めたのを見守るように昭和42年10月20日11時50分、心筋梗塞の為死去。
享年89歳。
マッカーサーと、昭和天皇と3人で日本の戦後復興に力を尽くした大政治家は逝きました。
彼が総計約7年間の首相任期中に任命した大臣の数は79人。
彼らは後に「吉田学校の生徒」と言われます。
彼のような政治家が戦争が終わった時に日本に存在したというのは非常に幸運なことであったといえるでしょう。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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