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9月15日 敬老の日(2003年から9月第3月曜日に変更)
お菓子の日(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
サネカズラ 好機をつかむ・再会 ○
ススキ 隠退・悔いなき青春・心が通じる・勢力
生命力・憂い・なびく心 ○
ダリア 華麗・移り気・不安定・優雅・威厳・感謝・気紛れ○
∞…∞ 9月15日・今日という日 ∞…∞
佐藤和也 (1993) タレント
ヘンリー王子 (1984) イギリス王族
平田裕香 (1983) タレント
山本 聡 (1981) ガガガSP、G.
堀口元気 (1978) プロレス
玉乃島新 (1977) 相撲
佳山由美 (1975) 女優
城 麻美 (1975) タレント
藤谷美紀 (1973) 女優
チャパリータASARI (1973) プロレス
深作健太 (1972) 映画監督
前田浩二 (1969) サッカー
武田真一 (1967) アナウンサー
橋本志穂 (1967) タレント
深沢邦之 (1966) タレント、Take2
酒井順子 (1966) 作家、コラムニスト
彦摩呂 (1966) タレント
小宮山悟 (1965) 野球
駒不動大助 (1965) 相撲
野沢道生 (1963) 美容師
信藤健仁 (1960) サッカー
清水善三 (1959) タレント
竹下景子 (1953) 女優
勅使川原三郎 (1953) 舞踏家
中島久之 (1952) 俳優
大石 静 (1951) 脚本家
デーブ・ヒルトン (1950) 野球
大信田礼子 (1948) 女優
トミー・リー・ジョーンズ (1946) 俳優
池辺晋一郎 (1943) 作曲家
ジム・バビリエ (1941) 野球
小田部羊一 (1936) アニメーター
丘さとみ (1935) 女優
今村昌平 (1926) 映画監督
村山槐多 (1896) 洋画家
土光敏夫 (1896) 経営者、財政指導者
アガサ・クリスティー (1890) 作家
勝田主計 (1868) 政治家
尾形月耕 (1859) 画家
岩倉具視 (1825) 政治家
朱子 (1130) 儒学者
○ 徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との関ヶ原の戦い(1600)
○ 初の戦車「マーク1号」登場(1916)
○ ハワード・ヒューズ、世界一周新記録を達成(1938)
○ 日独共同声明(1943)
○ 「日米会話手帖」発刊 。ポケット版で、32ページ。1冊80銭。3カ月間で360万部という驚異的な売れ行き(1945)
○ 初の「としよりの日」実施。1966年の国民祝日法改正で敬老の日となり祝日に(1951)
○ 国鉄中央線にシルバーシートを指定(1973)
スカウトの日
1974(昭和49)年に5月5日を含む日を「スカウト週間」として制定。
1990(平成2)年に「スカウト奉仕の日」に改称して9月15日に変更し、翌1991年に「スカウトの日」に再度改称した。
ボーイスカウトではこの日から新しい年度。
シャウプ勧告の日
1949(昭和24)年、アメリカ・コロンビア大学のカール・シャウプ博士を団長とする税制調査団による税制改革案、「シャウプ勧告」が公表された。
この勧告が戦後の税制の基礎となった。
ヒジキの日
栄養豊富なヒジキをもっと食べて健康長寿につなげてもらおうと三重県ヒジキ協同組合が制定した日。
同窓会の日
懐かしい再会と感動の場である同窓会により多くの人々に参加してもらおうと、Web同窓会「この指とまれ!」などを運営する「株式会社ゆびとま」が制定。
日付は連休になる確率の高いことから毎月第3土曜日とした。
関ヶ原の戦い(1600)
慶長5年(1600)9月15日、928年前に天武天皇が天下分け目の戦い(壬申の乱)を制したゆかりの土地・関ヶ原において、再び天下分け目の合戦が行われ、徳川家康が勝って江戸時代の幕を開けました。
天武天皇が天下を取った時は双方の戦力は約3万同士だったといいます。
その当時の人口は全国で600万人程度。
この関ヶ原の戦いの時の全国人口は恐らく2000万人弱。約3倍になっています。
そしてこの時の勢力も双方8万人程度。
やはり約3倍になっていました。
秀吉が織田信長の死後天下を取ることが出来たのは賤ヶ岳七本槍の加藤清正・福島正則らの、いわゆる武功派の大名達の働きによるものでした。
しかし世の中が安定してきますと、彼らは政治の中心から外され代わって事務能力に優れる石田三成らの奉行派の官僚武士たちが幅を利かせるようになってきます。
これに不満を持つ武功派大名たちは秀吉存命中は大恩ある秀吉の配下にいたものの、慶長3年(1598)秀吉が亡くなり、後継者の秀頼は幼く奉行派たちが我が物顔で活動し始めると我慢ができなくなり、天下統一への道のりを信長・秀吉と共に戦ってきた家康の元に急速に接近していきます。
慶長4年には両派が衝突するのを抑えていた重鎮前田利家も亡くなり歯止めが利かなくなります。
かくして不穏な空気が次第に濃くなり、決戦は避けられない情勢になってきました。
慶長5年6月18日、京都伏見城にいた徳川家康は会津の上杉景勝を討つと称して大軍を率い、東海道を降りていきます。
ここで安国寺恵瓊(秀吉が信長の死の直前毛利攻めをしていた時和平の交渉役をした人)はこの機会に家康を背後から襲い、上杉と呼応して挟み撃ちにして倒そうと提案、石田三成らも7月17日家康追討を天下に宣言して毛利輝元を総大将に指名、まず伏見城を攻め8月1日には城を落として留守番をしていた鳥居元忠を戦死させました。
その知らせを聞いた家康も急ぎ軍を帰します。
まずは福島正則・黒田長政らを急ぎ清洲城まで走らせるとともに、江戸城に入って軍備を整え、結城秀康・松平康元らに上杉を牽制するための軍を預けた上で自らが率いる本隊も9月1日には江戸を出立しました。
一方の石田三成も9月10日には大垣城に入ります。
時間的に見て家康の到着は15日頃であろうと考えていました。
集まった兵力は8万2千。決戦までには大阪で控えている総大将毛利の軍も合流する筈です。
対して徳川の軍は7万くらいと見積もれました。
十分勝てる計算です。
ところが予想に反して家康は9月11日に大垣までやってきて城に迫る気配を見せました。
その速度に驚く三成ですが、大垣城は堅牢な城、簡単に落ちるとは思えません。
小競り合いが起きますが緒戦は石田側が勝利を納めムードは盛り上がります。
ところが突然家康は14日大垣城を無視して、三成の本来の居城である佐和山城を攻める気配を見せました。
予想外の行動にまたまた驚く三成ですが、家康の進行方向には関ヶ原がありました。
その近くには長宗我部盛親・安国寺恵瓊・小早川秀秋らの西軍の武将が陣を張っています。
三成は急遽決戦の場所を関が原に変更、自らも大垣城を出て関ヶ原に急ぎました。
家康らの東軍は15日明け方に関ヶ原に入ります。
そして午前7時頃、戦端が切って落とされました。
まずは家康の親衛隊の井伊直政らが30騎ほどで宇喜多秀家の軍に突入、これに福島正則の軍が続きます。
そして東軍の藤堂高虎・京極高知らの軍と西軍の大谷吉継の軍が激突、そして東軍の黒田長政・細川忠興らの軍は石田三成の本隊に迫ります。
わずか8平方キロの狭い土地で物凄い密度の兵士が入り乱れ、戦況は一進一退を続けました。
ところがその状況の下で小早川秀秋・毛利秀元・吉川広家らの隊はまだ戦況を眺めていました。
三成が早く参戦するよう指示を送りましたが、動こうとはしません。
そもそも小早川秀秋は豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたります。
ねねは秀吉が死んで淀君が権勢を振るうようになった時点で隠居し、武功派の大名たちや徳川家康らが彼女の回りに集まっていました。
この関ヶ原の戦いの裏には、実はねね対淀君という女の戦いもあったのです。
小早川秀秋は秀吉には義理があっても淀君に別に義理はありません。
むしろねね様を守るべき立場にあります。
そこで最初西軍に付くように見せて実際には東軍に回って西軍を攪乱させる役割を果たすことで、家康とも話が出来ていたようなのですが、どの時点で反転すればよいのか状況を見極めかねていました。
家康側からも早く東軍に参加するよう伝令が来ていました。
秀秋は東西両軍からの指令を前に悩んでいました。
そしてとうとうしびれを切らした家康は小早川の軍へ鉄砲を打ち込みます。
これで決断が付いた秀秋はただちに軍を指揮して山を降り、西軍の大谷吉継の軍を襲いました。
これに反応して小川祐忠・脇坂安治らの西軍の武将も東軍に寝返り、西軍は突如としてガタガタになります。
まず大谷隊が壊滅、続いて小西行長の隊もバラバラになります。
その様子を見ていた毛利・吉川両軍は結局戦闘に参加せずにそのまま退却します。
結局西軍の部隊は次々に潰され、やがて宇喜多秀家の隊も敗走、三成も退却を余儀なくされて勝負は付きました。
西軍で最後まで撤退しなかったのは島津義広の部隊でした。
島津も戦闘には参加せずに様子を見ていたのですが、気が付いてみると回りはみな東軍で、他には全く西軍の兵がいません。
ここで島津は戦闘を完全放棄。全滅を避けるため、全員武器を捨てて、丸く集団となり、万一敵が斬りかかってきても一切抵抗せずに、外側の者はだまって斬られる、という歴史上類を見ない戦略を用いて東軍の中を通過。
義弘自身を含む80名が生還することに成功しました。
この戦いを後から見てみると、最初は西軍が8万2千、東軍が7万5千だったとはいえ、小早川の1万5千をはじめ2万が東軍に付き、毛利・吉川の1万6千を含めて2万6千は最後まで戦闘に参加しませんでしたので、結局西軍は4万1千、東軍は9万5千で戦ったことになります。
これでは西軍は全く歯が立ちませんでした。
この後、三成は21日に岩窟に身を潜めている所を東軍に発見され逮捕、小西行長・安国寺恵瓊とともに10月1日六条河原で斬首されます。
老人の日
1964(昭和39)年から1965(昭和40)年までの名称。
1966(昭和41)年からは国民の祝日「敬老の日」となった(2003から、国民の祝日としての敬老の日は9月第3月曜日となった)。
9月15日が敬老の日なのは2002年までです。2003年からは体育の日・成人の日と同様の移動祝日になり、9月の第3月曜に設定されます。
そして9月15日は「老人の日」となり、15〜21日は「老人週間」となります。
元々は1954年に「としよりの日」という名前で制定されたのですが、この名前はちょっとひどいのではないかということになり、1964年に「敬老の日」に改められました。
そして1966年に国民の祝日となりました。
この記念日は本当によく変化しています。なおこの記念日のいわれについては下記99年の記事を参照して下さい。
さて、老人というのはだいたい何歳以上か?
という意識調査がしばしば行われていますが、1993年の総理府調査では「70歳以上」という意見が57%であったそうです。
老人福祉法の規定も70歳以上となっています。これに対して国民年金は現在は65歳が受給開始の規準ですが、60歳からの繰上受給、70歳までの繰下受給も可能になっています。
しかし国民年金は非常に厳しい運営状態ですので、近い将来70歳開始が標準になるのは確実でしょう。
微妙なのは税金の計算。本人の老年者控除は65歳以上ですが、老人扶養親族は70歳以上ということになっています。
しかしこの年齢になってくると、歴史的な年齢と生理的な年齢が随分差が出てくるものです。
60歳でかなり老け込んでいる人もありますし、80歳でまだ50代並みの肉体を維持している人もいます。
これは主として本人の生活習慣による差といわれています。
最初昭和29年に「としよりの日」という名前で制定されたのですが、この名前はちょっとひどいのではないかということになり、昭和39年に「敬老の日」に改められました。
そして昭和41年に国民の祝日となりました。
さて、この敬老の日の由来なのですが、どうも2つの説があるようです。
(1)聖徳太子説
聖徳太子が大阪に四天王寺を建てた時、ここに四天王にあわせて、敬田院・悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置したといわれています。
その内の悲田院というのが今でいえば老人ホームで、この悲田院ができたのが9月15日であったため、この日が選ばれたというものです。
(何年のことなのかは確認できなかった。四天王寺創建と同時という説もあるようだが、その論拠が確認できなかった)
悲田院というのは元々中国にあったもので、中国文化の直輸入に熱心であった太子が、一流の国家は福祉も一流でなければならないという理想に燃えて設立したもののようです。
なお、悲田院・施薬院はのちに光明皇后も奈良の興福寺内に設置しています。
こちらは年代が分かりました。養老7年(723)のことのようです。
河出書房の日本史年表にも掲載されています。
更には天平2年(730)には皇后官職に施薬院、左京・右京にも1ヶ所ずつ悲田院が設置されたようです。
(養老7年はまだ聖武天皇は即位していない。つまり光明子が皇太子妃の時代である。故にひょっとしたらこれは光明皇后ではなく元正天皇の事績かも知れない)
(2)養老の滝説
これは上記にも出てきた「養老」の年号が制定された経緯に絡む話です。
美濃の国にお酒の好きなおじいさんと、孝行な息子がいました。
しかし、びんぼうなので、息子はおじいさんにあまりお酒を飲ませてあげることができませんでした。
この息子はきこりをしていたのですが、ある時足を滑らせて谷間に落ちたところ、そこに酒の流れる滝があるのを見つけました。
息子は喜んでこの酒を持ち帰り、おじいさんにたくさんお酒を飲ませてあげました。
そのことを聞いた元正天皇は霊亀3年(717)9月その地に行幸、そのきこりを役職に取り立ててやるとともに、これを瑞兆として11月17日元号を養老と改めたとのことです。
この故事にもとづき、全国的に9月中旬頃に地域のお年寄りを招待して敬老会を開くということが以前から行われており、そこで9月15日を敬老の日に定めたというもの。
さて、そこで上記の元正天皇の行幸が9月15日なら、とても面白いのですが続日本紀を開いて確認したところ、該当しそうなものは残念ながら9月20日でした。
ただし天皇が美濃に向けて出発したのは9月11日。
15日はその途中なので、あながち外れてもいないことになります。
続日本紀の記録はこうなっています。
・9月11日、天皇は美濃に向けて出発した。
・9月18日、天皇は美濃に到着した。
・9月20日、天皇は多度山の美泉をご覧になった。
・天皇は行幸に同行した者に者を賜った。行幸に協力した地元の人の税金を免除した。下級役人を1階級昇進させた。
・11月17日次のように詔した。
9月に美濃の美泉に行った。
手や顔を洗うと肌がなめらかになるようであった。
痛いところを洗うと痛みが取れた。
聞くところによればこれを飲んだ者は白髪が黒く戻ったり、目の見えないのが見えるようになったり、病気が治ったりしたという。
昔後漢の光武帝の時にも似たような話があったそうである。
これは瑞兆である。
よって改元して養老とする。
という訳で、元の話は滝ではなく泉だったようです。
またお酒という訳ではなく、一種の鉱泉のようで、かなり濃いことから種々の薬効があったのでしょう。
この続日本紀では親孝行のきこり、などという話は出てきていません。
またきこりを役人に取り立てたなどという話もありません。
下級役人を昇進(昇給?)させたとは書いてありますので、その話が変形したものでしょうか。
この親孝行のきこりの話は多分、古今著聞集あたりから出てきたのではないかと思います。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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