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9月10日 全国下水道促進デー(建設省,1961)、車点検の日、寝具の日
屋外広告の日(全日本屋外広告業団体連合会1974)、カラーテレビ放送記念日
LPガス消費者保安デー(毎月)、二百二十日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アスター(白) 追憶 ×
エゾキク(白) 結果論・信ずる心・追想・変化 ○
シュウカイドウ 自然を愛す・片思い ○
ダリア(赤) 栄華・華麗 ○
マルメロ(セイヨウカリン) 魅力・誘惑 ×
∞…∞ 9月10日・今日という日 ∞…∞
内 博貴 (1986) タレント、NEWS、関ジャニ∞
上山竜司 (1986) RUN&GUN
ティモシー・ゲーブル (1980) フィギュアスケート
永谷喬夫 (1976) サーフィス、G.
加納孝政 (1976) RAG FAIR、ベース
眞野裕子 (1976) 女優
山田暢久 (1975) サッカー
ミルコ・クロコップ (1974) キックボクシング、警察官
イザベラ・マッシーナ (1974) レイクエンジェル
杉本なつみ (1974) アナウンサー
遊佐雅美 (1973) ライフセイバー
崔 龍珠 (チェ・ヨンス) (1973) サッカー
三井優理 (1973) タレント、元ピンクサターン
有沢妃呂子 (1972) 女優
渡辺 毅 (1972) サッカー
進藤晶子 (1971) アナウンサー
桜井 智 (1971) 声優
旭豊勝照 (1968) 相撲
斉藤由貴 (1966) 女優、タレント
アフリク・ツベイバ (1966) サッカー
久米村直子 (1966) ラジオパーソナリティー
水島武蔵 (1964) サッカー
ランディ・ジョンソン (1963) 野球
本城聡章 (1963) 筋肉少女帯、G.
雨蘭咲木子 (1963) 声優
クリス・コロンバス (1958) 映画監督
綾戸智絵 (1957) ジャズシンガー
小林光一 (1952) 囲碁棋士
清水クーコ (1952) タレント
倉本裕基 (1951) ピアニスト
欧陽菲菲 (1949) 歌手
内館牧子 (1948) 脚本家
片本 通 (1946) サミー社長
松岡佑子 (1943) 翻訳家、元静山社社長
横井軍平 (1941) ゲームデザイナー
真田健一郎 (1948) 俳優
南州太郎 (1935) タレント
ロジャー・マリス (1934) 野球
山田康雄 (1932) 俳優、声優
アーノルド・パーマー (1929) ゴルフ
木村政彦 (1917) 柔道
熊谷一弥 (1890) テニス
木村 栄 (1870) 天文学者
順徳天皇 (1197) 天皇
○ 上杉謙信、武田信玄の川中島の戦い(1561)
○ 初代竹本義太夫、没(1714)
○ 英吉利法律学校開校(中央大学の前身)(1885)
○ 映画「羅生門」(黒澤明監督)ベネチア国際映画祭でグランプリ受賞(1951)
○ エド・サリバン・ショーにエルビス・プレスリー、出演。アメリカだけで44万人、約82%の人がテレビの前に。振付がティーンには刺激的だと、監視委員会がエルビスの上半身しか放送してはならないと制限(1956)
○ 日本、ガット(関税及び貿易に関する一般協定)に正式加盟(1955)
○ 炭鉱失業者救済の黒い羽根募金運動開始(1959)
○ カラーテレビ放送開始。カラーが白黒を上回ったのは11年後(1960)
○ 室戸岬で日本の観測史上最大の風速毎秒69.8m(時速250km以上)を記録(1965)
全国下水道促進デー
1961年(昭和36年)に建設省が下水道の整備促進の理解と協力をと制定。
知的障害者愛護デー
知的障害者への支援対策の強化をねらい、日本知的障害福祉連盟が1964年(昭和39年)に制定。
カラーテレビ放送記念日
1960(昭和35)年、NHK・日本テレビ・ラジオ東京テレビ(現在のTBS)・読売テレビ・朝日放送の5局がカラーテレビの本放送を開始した。
車点検の日
兵庫県自動車整備振興会が自動車整備の大切さをアピールし、交通安全につなげようと設けた日。
9月10日としたのはクルマの9(ク)と点検の10(テン)を合わせたもの。
屋外広告の日
1973年(昭和48年)のこの日、屋外広告法が国会を通過したことを記念して、関東地区屋外広告組合連合会が1974年(昭和49年)に設けた日。
セント・ジョージ・キー・デー(ベリーズ)
教師節(中華人民共和国)
模範教師の表彰等が行われます。
教育家でもあった孔子の誕生日をきねんしている。
台湾では9月28日が「教師節」となっている。
去來忌
俳人・向井去來の1704(宝永元)年の忌日。
カラーテレビ本放送開始(1960)
昭和35年(1960)9月10日、カラーテレビの本放送が開始されました。
テレビ放送技術は戦前から研究が進められていましたが、戦後一時中断。
その後再開されて1953年にNHKと日本テレビが本放送を開始しますが、当時はもちろんモノクロでした。
カラーテレビというのは原理的にはモノクロのテレビに比べて特に難しいことをする訳ではありません。
カラーのフィルタを掛けて3原色に分解し、それぞれを光電素子によって電気に変換、これをブラウン管では3原色に対応するビームを撃って再現します。
この時普通は3本のガンを使いますが1本のガンで済ませることにより色ズレを防止するのがトリニトロンです。
(正確に言うと電波上は変換して2要素になっている。これはアナログ放送の宿命的な画質の悪さとなる)
しかしカラー放送を始めるにあたっては、ひとつ重要な問題がありました。
第一にカラー放送ができるようになったといっても費用的な問題からすぐに全ての番組をカラーカメラで撮影して放送できる体勢にはなかった。
第二にまだモノクロのテレビでさえ、放送が始まって7年。受像器はそんなに普及している訳ではなく、しかも結構高価なものであった。
(さらに前年の1959年に皇太子ご成婚の放送を見るため無理して買った人が多数いた)。
カラー放送になったら、その受像器では放送が受信できないというのは困る。
そこで、カラー放送の実際の開始に当たっては、次の2点を死守するべく、技術開発が進められたのです。
・カラーテレビでも白黒の放送が受信できる。(むろん白黒で映る)
・白黒テレビでもカラーの放送が受信できる。(むろん白黒で映る)
これは白黒放送とカラー放送の相互互換性と呼ばれます。実現しているので誰も不思議に思っていませんが、これはたいへんなことで、仮にこれがどちらもできていなかったとしたらどうか、考えてみると不便さが分かります。
もしカラー放送が従来の白黒放送の規格と全く違う規格で放送され、白黒テレビとカラーテレビを2台並べておかなければならないということだったら、カラー放送の事業は間違いなく挫折していたことでしょう。
当時はカラー放送には画面の隅に「カラー」という文字が入っており新聞にもそういう表示が付いていました。
また初期のカラーテレビには、カラーで見るのが嫌な人の為に?カラーと白黒の切替ボタンというのが付いていました。
(むろん白黒放送の時にこのボタンを操作してもカラーにはなりません)
カラーテレビは1964年の東京オリンピックを契機に普及しはじめますが、当初はやはり白黒テレビに比べてかなり高価であるため、裕福な家庭に限られた普及でした。
日本国内のほとんどの家庭のテレビがカラー化されるのは、だいたい1975年前後と思われます。
そしてそのころには放送の方も全てカラー化されます。
(1971年にNHK総合のカラー化が完了しています。教育テレビの方はもう少し後まで白黒放送が残っていたと思うのですが、いつ全てカラーになったかは年代が確認できませんでした)
私が最後に白黒テレビの映像を見たのは1981年の3月でした。親戚の家で見たものですが、その家の住人は「そのうち博物館から譲ってくれと言ってくるかも知れないから取ってるんだ」と冗談か本気か区別のつかないことを言っておりました。
そこでちょうど相撲の放送があっていたのですが、当時は勝負が色分けで表示される方式に変わっていたため、その放送を見ていても、どちらが勝った力士なのか、さっぱり分かりませんでした。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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