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9月 9日 救急の日(厚生省、消防庁)、チョロQの日、重陽の節句、福祉デー

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ウラキク      追憶               ○
オミナエシ     永久・親切・美人         ○
シオン       ご機嫌よう・追憶         ○
へクソカズラ    人嫌い              ○

∞…∞ 9月 9日・今日という日 ∞…∞

山内奈々   (1997)  タレント
井端珠里   (1987)  マルチタレント
大塚 愛   (1982)  歌手
鶴田達也   (1982)  サッカー
テライユキ   (?)  CGアイドル
酒井若菜   (1980)  タレント
内山敬太   (1980)  ミュージシャン、ケイタク
星屑輝矢   (?)  微熱DANJI
吉岡和也   (1978)  スキー
松風雅也   (1977)  俳優、タレント
堤下 敦   (1977)  タレント、インパルス
SILVA   (1975)  歌手
宇田麻衣子   (1974)  アナウンサー
石井一久   (1973)  野球
横山知枝   (1973)  歌手、元やまだかつてないWink
TAKUYA   (1971)  元 JUDY AND MARY、G.
ロビンソン・チェコ   (1971)  野球
ダン・ミセリ   (1970)  野球
ブレーメン大島   (1968)  タレント、放送作家
菊田早苗   (1967)  プロレス
坂本慎太郎   (1967)  ゆらゆら帝国、Vo. G.
有賀照人   (1967)  漫画家
くつぎけんいち   (1967)  漫画家 「ガード・ドッグ」
有賀さつき   (1965)  アナウンサー
藤井亜紀   (1964)  女優
田代まねし   (1964)  ものまねタレント
高杢禎彦   (1962)  元チェッカーズ
黒岩よしひろ   (1962)  漫画家
ヒュー・グラント   (1960)  俳優
千沢 仁   (1959)  作曲家
長江英和   (1958)  俳優
倉本昌弘   (1955)  ゴルフ
難波弘之   (1953)  RED WARRIORS、Key.
村西とおる   (1948)  AV監督
弘兼憲史   (1947)  漫画家 「課長島耕作」
谷 隼人   (1946)  俳優
福岡政行   (1945)  政治学者
安田祥子   (1941)  歌手
結城哲也   (1941)  タレント、元チャンバラトリオ
ジェイ・ワード   (1938)  野球
北村総一朗   (1937)  俳優 (戸籍上は9/25)
料治直矢   (1935)  ジャーナリスト
井澤 健   (1935)  イザワオフィス社長
平井道子   (1935)  声優
小中陽太郎   (1934)  作家、大学教授
高橋圭三   (1918)  アナウンサー
吉村公三郎   (1911)  映画監督
小熊秀雄   (1901)  詩人
カーネル・サンダース   (1890)  ケンタッキー創業
副島種臣   (1828)   政治家
谷 文晃   (1763)  画家
ルイジ・ガルバーニ   (1737)  生理学者

 ○ ベートーベン、生涯最後の公演(1825)
 ○ 江戸城旧日本丸で、この日初めて昼12時に大砲を一発。世間ではドンと呼ばれ、これが正午の告知として普及。正確な時刻に縁のなかった庶民の、時刻の象徴的存在に(1871)
 ○ 日本最初の女性ゴルフ競技会。しかし出場者はすべて外国人(1905)
 ○ ファクシミリ事始め。毎日新聞がフランスのペラン式の電送を実用化(1928)
 ○ 生活保護法公布(1936)
 ○ 朝鮮民主主義人民共和国が成立(1948
 ○ チェコスロバキアのマルティナ・ナブラチロワ、アメリカに亡命(1975)
 ○ 毛沢東没(1976)
 ○ 東北自動車道、首都高速に乗り入れ(1987)

重陽の節句(菊の節句)
五節句の一つ。奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なることから「重陽」と呼ばれます。
陽の極が2つ重なることからたいへんめでたい日とされ、邪気を払い長寿を願って、菊の花をかざったり酒を酌み交わして祝った。

温泉の日
大分県九重町が制定。
町内に数多くの温泉が点在し、「九重九湯」と言われることから。

男色の日
重陽・菊の節句であることから。

チョロQの日
玩具メーカーのタカラが自社商品「チョロQ」のPRのために制定。

吹き戻しの日
兵庫県東浦町の日本吹き戻し保存協会が制定。 子供の玩具である吹き戻しをPRする日。

救急の日
9月9日でキューキューの語呂合せから、救急医療の大切さを理解してもらうために設けられた日。
1982年(昭和57年)に厚生省が制定したもので、救急処置の講習会などが開かれる。

世界占いの日
日本占術協会が1999(平成11)年に制定。
この日が「重陽の節句」であること、ノストラダムスの終末の予言の日は1999年9月9日とされていること、この日の数字を全部合計すると46で、46の2つの数を足せば10になり完成を物語る数であること、明治4年9月9日に時間の数え方を西洋式に改めたこと、この日が「救急の日」で占いは運命の救急であるとのことから。



重陽の節句(9.9)
9月9日は重陽の節句です。

中国の陰陽思想では、偶数を陰、奇数を陽とします。
9は奇数の数字の中で最大のものですので、9は陽が極まった数字と考えます。
そして9月9日はその極まった9が重なっているので「重陽」といいめでたい日としました。

日本では平安時代から行われるようになり、宮中では杯に菊の花を浮かべて酒を飲み詩歌を読んで楽しみました。
「菊の節句」ともいいます。

民間では「お九日」と呼ばれ、これが後に音便変化して「おくんち」と呼ばれるようになります。
現在「おくんち」は新暦になったことにより必ずしも陰暦9月9日には行われず、その地区により10〜11月の適当な時期に行われていますが、収穫を祝う秋祭りとして実施されています。



カーネルサンダース(1890-1980)
1890年9月9日、ケンタッキー・フライド・チキンの創始者カーネル・サンダース(Colonel Harland Sanders)がアメリカのインディアナ州で生まれました。

6歳の時に父が亡くなり母が働きに出るようになりました。
すると彼は3歳の弟とまだ赤ん坊の妹の面倒を見なければならないようになり、このため、料理が非常にうまくなりました。

彼が仕事をし始めたのは15歳の時で、最初は電車の車掌でした。
その後軍人、消防士、保険の外交、船の仕事、タイヤ売り、ガソリンスタンドなどなど幾つもの職業を転々としますが、やがて40歳の時にケンタッキー州のコービンで、ガソリンスタンドの一角にテーブルを置いて食堂コーナーを始めました。

これはガソリンスタンドに寄った人がついでにちょっと食べていくということで非常に繁盛します。
やがて彼はガソリンスタンドの向かいに142席のレストランを作り、ほんの数年の内に州内でも評判の店になります。
「うまいものの店」の本などにも取り上げられ、州知事からも表彰されました。

ところが店を始めてから20年ちょっとたった1950年代の初め、高速道路が作られて車の流れが変わり、コービンの町にはあまり車がやってこないようになってしまいました。
もう年は60すぎ。
年金ももらえる年齢に達しています。
カーネルは商売も潮時だなと感じ、店をたたむ決意をします。

しかしその時、奥さんが「人が来なくなったのなら、人のいる所に売りに行けば?」と言ったのがきっかけであったとも言われます。
彼は64歳の時、そのレストランで最も評判の高かったメニューであるフライド・チキンをワゴン車につんであちこちの町を回り、各地のレストランで試食してもらって気に入ってくれた店にフランチャイズになってもらい、製法を教えてチキン1本に付き5セントのマージンをもらう契約をするという商売を始めます。

この新しいアイデア商法はうまく行きました。
1952年ユタ州で第一号の契約店を得た後、約10年間に全米で600のレストランと契約を結ぶことに成功しました。

このビジネスが評判になり始めた頃、彼はテレビ局から、このフランチャイズのオーナーとしてテレビに出て欲しいという依頼を受けます。
彼はそういう改まった場所に出ていくにはモーニングを着て行かねばと思いましたが、その時冬であったのに彼は夏用の白いモーニングしか持っていませんでした。
しかし無いよりはましであろうとそれを着て出ていきますが、やはりテレビ局に入るなり、大爆笑をとってしまいました。

「いや、これしか持っていなかったものですから」と言い訳するカーネルでしたが、結果的にはこの時の、白いモーニングを着て老眼鏡を掛けた白髪のおじさん、というのが彼のトレードマークになってしまいました。

74歳の時、1964年、彼はこの商売の権利をジョン・ブラウン2世に売却、自らは一線から退いたものの、役員としてブラウンの会社に残りました。
ブラウンはまた商才のある人で、このチェーンを急成長させ海外にも進出。
1969年までに全世界に3500のフランチャイズ店をつくりました。

その後、ケンタッキー・テライド・チキン(KFC)は1971年Heubleinに買収されますが、そのHeubleinが1982年RJRナビスコに買収されてその傘下に入り、1986年には今度はペプシコーラに買収されます。
この時の値段は8億4千万ドル(900億円)。
サンダースがブラウンに売却した時の値段は200万ドル(7億円)でした。

(その後1997年にKFCはペプシコ本体から分離され別会社とされた。なお日本KFCは三菱商事との合弁である)

カーネル・サンダースは1980年に白血病のため死去しました。
彼がフランチャイズの仕事を始めてから営業のために走破した距離は40万キロ。
世界を10周する距離でした。
享年90歳。
2度ビジネスを成功させた偉大な人物でした。
今は彼の像が世界中のKFCの店頭で微笑んでいます。
その老眼鏡は一般には本物を使うため、しばしばファン?に取られてしまうのだそうです。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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