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8月29日 焼き肉の日、秋田県の記念日、文化財保護法施行記念日、肉の日(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
クローバー 堅実・幸福・約束・私を想ってください○
ケイトウ おしゃれ・感情的・奇妙・情愛・色褪せぬ恋○
ニコチアナ(花タバコ) ふれあい・君あれば淋しからず○
ハナタバコ ふれあい・私は孤独が好き ×
∞…∞ 8月29日・今日という日 ∞…∞
横須賀まりこ (1981) タレント
ニコラス・ツェー (1980) 俳優
阿部智則 (1979) タレント、POISON GIRL BAND
岩瀬敬吾 (1978) 19、Vo.
大柴邦彦 (1976) 俳優
ヨン・ダール・トマソン (1976) サッカー
高橋かおり (1975) 女優
辛酸なめ子 (1974) 漫画家
入山 学 (1973) タレント、カンカラ
林健太郎 (1972) サッカー
ペ・ヨンジュン (1972) 俳優
鈴木つかさ (1972) タレント、ザ・プラン9
車谷浩司 (1971) AIR、元BAKU
谷口宗一 (1971) 元BAKU、Vo.
椎名あゆみ (1969) 漫画家 「ベイビィ★LOVE」
ドラムウルフ (トオル) (1968) ギターウルフ、Dr.
坂上洋子 (1968) 柔道
小川輝晃 (1968) 俳優
岡崎武士 (1967) 漫画家
二階堂かおり (1967) 元BaBe
島田 大 (1967) アナウンサー
中野麻里子 (1966) タレント、おきゃんぴー
後藤マスヒロ (1965) 人間椅子、Dr. Vo.
YOU (1964) タレント、元 FAIR CHILD、Vo.
香西かおり (1963) 歌手
伊東 勤 (1962) 野球
ラモン・ディアス (1959) サッカー
マイケル・ジャクソン (1958) 歌手
垂水藤太 (1958) 俳優
鷺巣詩郎 (1957) 作曲家
真梨邑ケイ (1957) ジャズ歌手、タレント
谷山浩子 (1956) 歌手
八代亜紀 (1950) 歌手
スタン・ハンセン (1949) プロレス
ジョン・シピン (1946) 野球
谷岡ヤスジ (1942) 漫画家
ウィリエム・ルスカ (1940) 柔道、プロレス
山口敏夫 (1940) 政治家
田畑光永 (1935) キャスター、大学教授
栃光正之 (1933) 相撲
市川雷蔵 (1931) 俳優
出江 寛 (1931) 建築家
イングリッド・バーグマン (1915) 女優
大内兵衛 (1888) 経済学者
中村順平 (1887) 建築家
エドムンド・プレストン・スタージェス (1898) 劇作家、脚本家、映画監督
モーリス・メーテルリンク (1862) 作家
ジョン・ロック (1632) 思想家
○ ファラデーの電力実験(1831)
○ 韓国併合で朝鮮に改名(1910)
○ 初のケーブルカー、奈良に登場(1918)
○ ドイツの飛行船ツェッペリン号が22日間の世界一周に成功(1929)
○ プロ野球、テレビ本放送開始。巨人VS阪神(1951)
○ 宝塚歌劇「ベルサイユのばら」初演(1974)
○ 電電公社(現在のNTT)は、電話加入数が3千万を越えたことを発表。アメリカ合衆国に次いで世界第2位(1975)
○ 角川書店社長の角川春樹がコカイン疑惑で逮捕(1993)
洗礼者ヨハネの祝日
聖ヨハネがヨルダン河で洗礼を受けて間もない頃、弟の妻を奪い、自らの妻としたユダヤの国王ヘロデを批判した。
これが原因でヨハネは捕らえられ処刑されることとなった。
文化財保護法施行記念日
1950年(昭和25年)の8月29日、国宝・重要文化財などを保護するための基本となる法律・文化財保護法が施行された。
これを記念して1951年(昭和26年)に制定された。
ケーブルカーの日
1918(大正7)年、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道(近鉄))が、奈良県生駒山の鳥居前〜宝山寺間で日本初のケーブルカー(現在の生駒ケーブル)を開業させた。
焼肉の日
8月29日の語呂合せで焼肉。この季節、夏バテ気味の人々に焼肉を食べて、スタミナを付け、残暑を乗り切ろうと、焼肉店などが提唱している日。
ベルばらの日
1974(昭和49)年、宝塚歌劇で「ベルサイユのばら」が初演されました。
池田理代子原作の劇画を脚色したもので、1976(昭和51)年の上演打ち切りまでに延べ140万人の観客動員を記録した。
秋田県の日
1871年(明治4年)の廃藩置県の際に初めて「秋田県」の名称が使われた日が太陽暦であらわすと8月29日にあたるため、1965年(昭和40年)に秋田県が制定。
ベルバラの日
1974年8月29日に大ヒットとなった「ベルサイユのバラ」が宝塚歌劇月組で初演されたのを記念したものです。
池田理代子が1972年(当時25歳)から「マーガレット」に連載した力作を舞台化したもので、演出はなんと長谷川一夫!! 出演は初風諄(マリー・アントワネット)・大滝子(フェルゼン)・榛名由梨(オスカル)・麻生薫(アンドレ)などでした。
この物語は1789年のフランス革命を背景にしたものですが、初期の上演では実はフランス王妃マリー・アントワネットとスペイン貴族フェルゼンとの愛が主たるテーマとなっていました。
しかし何と言っても観客の人気を集めたのが男装の麗人(?)オスカルという存在で、後の公演ではむしろオスカルとアンドレの愛が中心になっていきます。
初演以来、月組以外の雪、星、花といった各組でも取り上げられ、雪組では汀夏子、星組では鳳蘭、花組では安奈淳が初期のオスカルを演じています。
現在でもしばしば上演されており、総観客動員数は最初の3年間だけで140万人を越えたそうです。
テレビ中継やビデオで見た人まで入れたらものすごい数になるのではないかと思います。
オスカルというのは男装はしていても女性な訳ですから、女役の人が演じても良かったのでしょうが、男役の人に演じさせたのが、このシリーズの成功の要因のひとつではないかという意見もあるようです。
普段男性の動きばかり演じている人故に自然にオスカルの動きが表現できる一方で、その男装の下に見え隠れする女らしい情感をやや破綻気味に演じさせた所が、非常に真に迫ったものになったという意見です。
面白い分析だと思います。
築山殿事件(1579)
天正7年(1579)8月29日。
徳川家康の正妻築山殿(瀬名姫)が家康の命令により、殺害されました。
またこれに続いて9月15日には築山殿と家康の間の長男信康も切腹を命じられました。
この事件の経緯は通説によると次のようになっています。
築山殿はもともと今川義元の妹の娘です。
二人はまだ家康が今川家の人質であった時代の弘治3年(1557)に結婚し、3年後に信康が生まれました。
時代は激動し今川は織田に桶狭間で倒され、いつしか今川に縁のある築山殿は家康と別居。
信康は信長の娘の徳姫と結婚します。
築山殿としてはこの処遇が面白くなく、甲斐の武田と内通して夫の家康を倒しわが子信康をたてて徳姫を排除、武田と連合で仇敵織田を倒さんと図りました。
ここでその動きを察知した徳姫はわが父信長に十二ヶ条の書状を書き、ちょうど信長に会いに行く予定のあった酒井忠次に託して届けさせます。
その書状を読んだ信長は激怒し、家康に、築山殿だけでなく、その子である信康も殺害するよう酒井を通して命じました。
織田に逆らうことのできない家康は泣く泣く腹心の家臣に二人の殺害を命じます。
まず築山殿の元には野中重政ら3人を派遣しました。
野中らは築山殿に家康殿がお会いしたいと言っているので来て下さいといって連れだし、舟で佐鳴湖を渡っていた時に野中が突然後ろから「殿の命によりお命頂戴致します」と言って斬り殺しました。
報告を受けた家康は一応頷いたあと小声で「体だけ大きくて頭の回らない奴よなぁ。
女なのだから尼にでもして逃がしてやればよいものを」と言いました。
それを知った野中は自分のいたらなさを恥じ、故郷の堀口に隠居しました。
一方信康の方には服部半蔵と天方通綱を派遣しました。半蔵ははっきりと「殿からの命です。切腹して下さい。」と信康に告げます。
信康は身に覚えがないため「なぜだ。父に会わせてくれ」と言いますが半蔵は「それは許されてないのです」と拒否。
納得のいかない信康でしたが父の命令は絶対。やむなく形見の品などを託した上で半蔵に介錯を命じて念仏を唱え腹をきれいに十字に切りました。
しかし半蔵もこの若君が哀れで哀れで首を切ることができません。
そこで天方通綱が代わって介錯を務めました。享年21歳でした。
この事件に関しては実にいろいろな人から疑問の声があがっています。
つまりどうにも疑問の点が多いのです。
・なぜ徳姫が築山殿の内通を知ることが出来たのか?
築山殿は別居している訳だし、徳姫は徳川家内ではいわばよそ者で行動の自由も余り無いはずなのに。
・徳姫のそのような内容の書状をなぜ酒井ともあろうものがわざわざ信長に届けたのか。
徳川に極めて忠実な酒井であれば当然信長の所には持っていかずに家康に届けるのではないか?
・なぜ信長ほどの人が娘の書状見たくらいで家康に確認もせずにその妻子の殺害を命じたのか?
そもそも徳川は織田に従属するものではなく、両者はむしろ同盟関係にあったはずである。
信長は常々「家康殿は織田家にとって最も大事な人」と言っていた。
・家康にしてもなぜ自分で築山殿を取り調べなかったのか?
そもそも築山殿は本当に武田と内通していたのか?
もしそうであったら家康としては築山殿だけでなく関係するもの全員を処置する必要があった筈である。
これらの疑問点を全部否定的に見てみると、この事件は次のように解釈することも可能になってしまいます。
・築山殿は武田と内通したりしてなかった。
・徳姫の織田信長への十二ヶ条の書状なるものは存在しなかった。
・信長が築山殿と信康の殺害を命じたようなことはない。
ここまで否定してしまえばこの事件は結局家康が自分の判断で自分の正妻と息子を殺害させたことになってしまいます。
しかしそうするとその理由が分かりません。
ということで結局この事件はどうもよく分からないのです。
この問題に関して司馬遼太郎氏らは酒井忠次陰謀説をとっています。
この根拠としては徳川家が豊臣秀吉により関東に国替えになった時、家康が徳川四天王の内、井伊には12万石、榊原と本多には10万石を与えているのに対して酒井にはなぜか3万石しか与えていないというのが背景にあります。
大久保彦左衛門の『三河物語』もこの説をとっています。
しかしこれもどうもいまいちすっきりしないような気がします。
通説は要するに築山殿が悪いということになっていた訳ですが、最近では築山殿は濡れ衣ではないかとの説が有力なようです。
酒井忠次陰謀説は上にも書いたように江戸時代からあったのですが、これも当時はもう死んでいる人に罪を押しつけたような感じで出てきた説のような気がしてなりません。
このほか次のような説が色々な人から提出されています。
・徳姫陰謀説
信康が側室を置いたことに嫉妬した徳姫が築山殿の内通をでっちあげて信長に通報したのが原因である。
・信長陰謀説
信長が徳川の力を削ぐためにその優秀な後継者である信康を殺害させた。
・於大の方陰謀説
於大の方は家康の生母。
彼女の兄は織田家に仕えていたため、今川の支配下にあった広忠(家康の父)は彼女を離縁。
そこで於大の方は今川を憎んでおり、今川家の築山殿を亡き者にしようとした。
それを察知した築山殿は思い余って武田に援助を求め、それを察知した徳姫がこのことを信長に通報した。
・岡崎衆クーデター説
石川数正を筆頭とする信康の家臣たち(岡崎衆)は家康を排除して信康を徳川家の当主にすることを企んでいた。
これを察知した家康が腹心中の腹心の服部半蔵とその従兄の青山成重に命じて信康と障害になると思われる築山殿を殺害した。
酒井忠次は家康の命を受けて信長に、徳姫の夫である信康を殺害する許可を取りに行ったものである。
石川数正は後に徳川家を去って豊臣に仕えている。
しかしどの説にもしても決定的な証拠には欠け、やはり真相は闇の中のようです。
織田と徳川の関係はもともと対等に近いものであったようだと考えるようになったのにともない、岡崎衆クーデター説の方にやや傾いています。
於大の方陰謀説は歴史学者に多いとも言われますが、戦国の女たちの意識を考えると苦しいような気がします。
戦国時代の女たちはもっと達観していたのではないかと思うのです。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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