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8月25日 ラーメン記念日(日清食品)、サマークリスマス
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アンスリウム(白)情熱・心は燃えている・恋にもだえる心
炎のような輝き・強烈な印象・煩悩・熱心○
ハイビスカス(赤) 新しい恋・勇敢 ○
ヒオウギ 誠実 ○
∞…∞ 8月25日・今日という日 ∞…∞
夏焼 雅 (1992) Berryz工房
Maika (1988) Mi、Vo.
次原かな (1984) タレント
北川賢一 (1980) ロードオブメジャー、Vo.
川口知哉 (1979) 野球
浅野真澄 (1977) 声優
夏生ゆうな (1975) タレント
中丸 徹 (1975) アナウンサー
国井律子 (1975) エッセイスト
宗田 豪 (1975) 漫画家 「天才料理少年味の助」
路木龍次 (1973) サッカー
本間 満 (1972) 野球
上田剛士 (1971) THE MAD CAPSULE MARKETS
石井 貴 (1971) 野球
東野純直 (1971) 歌手
石井琢朗 (1970) 野球
SHO (1970) 元BY-SEXUAL、Vo.
クローディア・シファー (1970) モデル、女優
〆さばヒカル (雨空ライポ) (1969) 漫才師
三井ゆり (1968) タレント
高部知子 (1967) 女優、元わらべ
檜山修之 (1967) 声優
横須賀昌美 (1962) 女優
平野岳史 (1961) フルキャスト創業者
ティム・バートン (1958) 映画監督
岡田武史 (1956) サッカー
エルヴィス・コステロ (1955) 歌手
松澤一之 (1955) 俳優
鶴間政行 (1954) 放送作家
ジーン・シモンズ (1949) KISS、G. Vo.
多田しげお (1949) アナウンサー
ジョン・サベージ (1949) 俳優
きたろう (1948) タレント
荻野 繁 (1948) テレビディレクター
光本幸子 (1943) 女優
津村鷹志 (1943) 俳優
コシノジュンコ (1939) 服飾デザイナー
島田源太郎 (1939) 野球
田宮二郎 (1935) 俳優
山村美紗 (1934) 作家
ショーン・コネリー (1930) 俳優
三條美紀 (1928) 女優
福田甲子雄 (1927) 詩人
荻 昌弘 (1925) 映画評論家
増村保造 (1924) 映画監督
レナード・バーンスタイン (1918) 指揮者
笠置シヅ子 (1914) 歌手
水木洋子 (1913) 脚本家
武知杜代子 (武智豊子) (1908) 女優
榎本武揚 (1836) 政治家
○ M8.4の地震によって津波が発生。浜名湖、海続きに(1498)
○ ポルトガル船、種子島に漂着。鉄砲伝来(1543)
○ 柄井川柳、万句合せ興行(1757)
○ 北里柴三郎ペスト菌を発見(1894)
○ 世界初の空中戦。英国陸軍航空隊、仏・ベルギー軍とともに、独軍と初交戦(1914)
○ トヨタ、設立(1937)
○ パリ解放。4年間にわたるドイツの占領に終止符(1944)
○ 日清食品、即席チキンラーメン発売。当初は85グラム入り1袋35円で、すぐに30円に値下げ(1958)
○ ローマ・オリンピック開催(1960)
川柳発祥の日
宝暦7年8月25日(1757年10月7日)、初代川柳こと柄井川柳(八右衛門)が川柳風の前句付興行を始めた日を記念して、川柳学会が提唱。
天神縁日
天神様の縁日(毎月25日)
即席ラーメン記念日
日清食品が制定。
1958(昭和33)年、日清食品が世界初の即席ラーメン「チキンラーメン」を発売した。
サマークリスマス
TBSの林美雄アナウンサーがパーソナリティーをしていたラジオ番組「パックインミュージック金曜2部」の中で、「夏にもクリスマスのようなイベントを作ろう」と、林さんの誕生日を夏のクリスマスとしたもの。
定着はしなかったようだ。
インテリアの日(毎月第4土曜日)
独立記念日(ウルグアイ)
ウルグアイが1821年のポルトガルによるブラジルへの併合を経て、1825年のこの日に分離独立しました。
1828年のモンテビデオ条約で独立が承認されました。
即席ラーメンの日(8.25)
1958年8月25日、日清食品はお湯を掛けたら2分で食べられる即席ラーメン「チキンラーメン」を発売しました。
一般にこれを世界初のインスタントラーメンとしています。
この日はちょうど行われていた甲子園の高校野球の準々決勝で延長18回引分けの試合があった日です。
甲子園での引分け再試合というのは全部で6回あるそうですが、この試合は延長18回まで行ったら引き分けというルールができて最初の引き分けです。
1915 京都二中 vs 和歌山中 降雨のため
1952 函館西 vs 岐阜工 日没のため
1958 徳島商 vs 魚津高 18回引分け 坂東英二 vs 村椿
1964 掛川西 vs 八代東戦 18回引分け
1969 松山商 vs 三沢 18回引分け 井上明,中村哲 vs 太田幸司
1998 専大北上 vs 如水館 降雨のため
1969年「涙の延長戦」の再試合で更に18回投げて力つきた太田幸司はその後プロ野球の近鉄で活躍したのはご存じの通り。
この1958年「無声の延長戦」は魚津の村椿と徳島商の坂東英二の投げあいで、再試合では坂東が投げ勝ちました。
坂東もその後プロ野球の中日で活躍して現在はタレントとして活動していますね。
若い人の中には彼がかつて名投手であったとは知らない人も多いかも知れません。
さて本題に戻って、このチキンラーメンを開発したのは安藤百福さんです。
安藤さんは元々銀行マンだったのですが、戦後の厳しい経済情勢の中で銀行が倒産、何か仕事をしなければというので、最初自宅の裏庭でインスタントラーメンの開発を始めました。
「お湯をかけただけで食べられるようになる」そのコンセプトが実現するまで安藤さんの家族は毎日のように失敗作のラーメンを食べさせられる日々が続きました。
保存性がよく、工場で量産が可能で、おいしい、そういう線に到達するまではたいへんな道のりであったようです。
(ちなみに安藤さんの日清食品と、皇后様の実家の日清製粉とは無関係です。これもよくある誤解。富士銀行と富士通が無関係なのと同じ。富士も日清もよくある名前です。富士通などは古河+ジーメンスで「フジ」ですね。という訳で皇后様がこの失敗作のラーメンを食べていた訳ではないです。)
価格もできるだけ安くしようとしたのですが、35円にするのが限界でした。
当時うどん玉が1個6円で買えた時にこの35円という値段には、多くの人が事業的な成功には否定的でしたが、実際には大ヒットとなり、昭和40年代へ続く、インスタント文化のさきがけとなったのです。
1960年に森永からインスタントコーヒー、少し遅れて1968年にボンカレーが生まれています。
日清のチキンラーメンの翌年1959年に発売されて、インスタントラーメンの老舗二大ブランドとされるのがマルタイの棒ラーメンです。
マルタイは元々小さな町のラーメン屋さんでした。
あまり店は流行ってなかったのですが、ある時その店に来たお客が「まずい!」と叫び、店の主人に「オレがもっとうまいラーメン作ってやるから調理場を貸せ」と言いました。
その客?の勢いに負けた主人が調理場を貸すと、それはほんとにおいしい、ラーメンを作ってくれたのです。
店の主人はぜひ自分を弟子にして欲しいとその客に言い、その人は結局2〜3ヶ月程その店に滞在して、作り方の指導をしてくれました。
結局名前を名乗ることなく、その店を去っていった、その「さすらいの料理人」のおかげで、店は味がいいと評判になり、人気を博します。
そこで、そのラーメンを一般の家庭でも味わってもらおうと作ったのがこの棒ラーメンでした。
こちらは日清のチキンラーメンのようにお湯を掛けたらできるという訳ではなく鍋で煮込む必要がありますが、作成にかかる時間を考えると、十分インスタントの領域に入っています。
マルタイの棒ラーメンはスープが別添え方式ですが、結果的にはその後この別添え方式が主流になっていきます。
その流れを作ったのは1962年東洋水産の「マルちゃんハイラーメン」です。
1971年には日清が「カップヌードル」を出して、新たなコンセプトのジャンルが確立します。
1999年のインスタトンラーメンの生産量は袋麺20億食、カップ麺30億食の合計50億食。
国民ひとりあたり40個くらいの計算になります。
なお、インスタントラーメンに関する最もよくある誤解は「保存料が入ってるからからだに悪い」というもの。
インスタントラーメンは干し椎茸や高野豆腐などと同じ乾燥食品ですので、保存料は入っていません。
ショーンコネリー(1930-)
1930年8月25日、スコットランドの首都エジンバラで、007役で知られる俳優のショーン・コネリー(Thomas Sean Connery)が生まれました。
お父さんはトラックの運転手。
ショーンは学校卒業後まず海軍に入りますが病気になって除隊。
その後、日雇い労働者・海水浴場の監視人・美術学校のモデルなどを経て、1953年、ミスター・ユニバースのスコットランド大会で3位に入賞。
これが契機となってミュージカル「南太平洋」のイギリス公演でのコーラス隊の一員に起用されます。
この後1955年映画「Let's Make Up」にエキストラとして出演したのを皮切りに幾つかの映画・TVで端役を演じ、1957年「No Road Back」で初めて名前の付いた役をもらって、翌年「Another Time, Another Place」でラナ・ターナーの相手役に大抜擢。
そして更に幾つかの映画を経て1962年ブロッコリ制作の007シリーズ第1作「Dr. No」でジェームズ・ボンド役に起用されました。
この後ジェームズ・ボンドとしてこのシリーズの次の作品に出演しました。
第1作 1962 Dr. No ドクター・ノー(007は殺しの番号)
第2作 1963 From Russia with Love ロシアより愛をこめて(007危機一発)
第3作 1964 Goldfinger ゴールドフィンガー
第4作 1965 Thunderball サンダーボール作戦
第5作 1967 You Only Live Twice 007は二度死ぬ
第7作 1971 Diamonds Are Forever ダイヤモンドは永遠に
日本で撮影した作品「007は二度死ぬ」の後、ショーン・コネリーは自分のイメージがボンドで固定されてしまうのを嫌って(ダジャレではない)降りてしまいます。
しかし第6作「女王陛下の007」で新しいボンドに起用されたジョージ・レーゼンビーの動きがあまりよくなかった為、後一度ということで「ダイヤモンドは永遠に」に再度ボンドとして登場しました。
しかしこれでもう本当に最後にしてくれということで、第8作「死ぬのは奴らだ」以降は彼より年齢的には上でも逆に外見は若く見えるロジャー・ムーア(1927.10 .14生)にボンド役は引き継がれます。
ショーン・コネリーはこの後、1974年「オリエント急行殺人事件」、1976年「ロビンとマリアン」、1979年「メテオ」、1983年「ネバー・セイ・ネバー・アゲイン」などを経て、1986年に「ハイランダー」に出演し高い評価を得ます。
そして1987年の「アンタッチャブル」ではアカデミー賞の最優秀助演男優賞を獲得しました。
その後もだいたい1年に1〜2作程度のペースで映画出演をして元気なところを見せています。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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