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8月23日 白虎隊の日、ふみの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ゲッカビジン(月下美人)
          はかない美・はかない恋・繊細・快楽○
ボダイジュ(洋種)  夫婦愛・結ばれる愛・結婚・熱愛  ○
ワレモコウ     感謝・変化            ○

∞…∞ 8月23日・今日という日 ∞…∞

崎本大海   (1986)  俳優
三国由奈   (1985)  タレント
栗田雄介   (1980)  野球
鳥口マサヤ   (1979)  風味堂、Bass
コービー・ブライアント   (1978)  バスケットボール
夏目義徳   (1975)  漫画家 「トガリ」「クロザクロ」
雷句 誠   (1974)  漫画家 「金色のガッシュ」
リバー・フェニックス   (1970)  俳優
山咲トオル   (1969)  漫画家
藤井彩子   (1969)  アナウンサー
大至伸行   (1969)  相撲
森保 一   (1968)  サッカー
五十嵐英樹   (1968)  野球
堀主知ロバート   (1965)  サイバード社長
乃木涼介   (1964)  俳優
巻島直樹   (1962)  声優
渡真利克則   (1962)  野球
高橋ひとみ   (1961)  女優
コング桑田   (1961)  歌手、タレント
ロドニー・アラン・グリーンブラット   (1960)  イラストレーター
ジョルジーニョ (Jorge Antonio Putinatti)   (1960)  サッカー
谷 福美   (1959)  ゴルフ
見沢知廉   (1959)  作家
佐藤しのぶ   (1958)  歌手
新倉史祐   (1957)  プロレス
岡江久美子   (1956)  女優
山田隆夫   (1956)  タレント、元ずうとるび
益岡 徹   (1956)  俳優
アラン・タム   (1956)  俳優
一城みゆ希   (1949)  声優
キース・ムーン   (1947)  The Who、Dr.
飯野おさみ   (1946)  俳優、元 ジャニーズ
小林 弘   (1944)  ボクシング
梅崎 壽   (1942)  東京地下鉄社長
飯田久彦   (1941)  歌手
ディック・ブルーナ   (1927)  絵本作家
ドクトル・チエコ   (1924)  医師、医事評論家
別当 薫   (1920)  野球
鮎川信夫   (1920)  詩人
ジーン・ケリー   (1912)  俳優
宮 柊ニ   (1912)  歌人
斎藤一郎   (1909)  作曲家
三好達治   (1900)  詩人
出光佐三   (1885)   出光興産創業者
遠山金四郎   (1793)  江戸町奉行
ルイ16世   (1754)  フランス国王

 ○ 日英和親条約。日米和親条約から5カ月後、東インド艦隊司令長官スターリングが長崎に入港。長崎・箱館両港を開く条約に調印。英国の真の目的はロシアに対する軍事的展開(1854)
 ○ グラバー、長崎に商会を開く(1859)
 ○ 会津白虎隊が自刃(1868)
 ○ 封建的制度の撤廃。華族・士族・平民の区別は残ったが、この間の通婚を許可、平民にも苗字の使用を許可(1871)
 ○ 警視庁、電柱広告を許可(1890)
 ○ 第一次世界大戦で、日本はドイツに宣戦布告(1914)
 ○ NHK、プロ野球ナイターを西宮球場からテレビ初中継(1953)
 ○ 日本最長の自動車トンネル、中央自動車道恵那山トンネル開通(1975)
 ○ 安楽死国際会議が東京で開かれる(1976)

奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー
国際デーの一つ。

白虎隊の日
1868(明治元)年、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。
会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていた。
会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると白虎隊も実戦に参加し、越後戦争や会津戦争で死闘を繰り広げていた。
この日、飯盛山にいた白虎隊の二番士中隊員が、城下の町に火の手が上がったのを会津城が落城したものと思い、16人の隊員全員が自刃することとなる。

一遍忌,遊行忌
時宗の開祖・一遍上人の1289(正応2)年の忌日。


一遍上人(1239-1289)
正応2年8月23日、踊り念仏の一遍上人が亡くなりました。

この辺りの浄土宗の系譜を大雑把に書いておきます。

円仁-+->空也-+---------------------------------------+
↓   ↓ ↓
+->良源-+->源信--->法然-+->親鸞 (浄土真宗) ↓
| ↓
+->証空 (浄土宗西山派) -+-> 一遍 -->(時宗)
|
+->弁長--->良忠(浄土宗鎮西派)-->一向 (一向宗)

踊り念仏の実質的な創始者は空也上人(903-972)です。
一遍上人はその300年後の延応元年(1239)に松山で生まれました。
水軍の家系でしたが10歳で出家し、西山派の浄土宗に触れます。
いったんは父の死により家を嗣ぐため還俗しますが相続問題でのトラブルを契機に再度出家。
妻・娘・下女の4人で諸国行脚しながら念仏を唱えるという生活に入りました。
文永11年(1274)のことです。

この間、信濃の善光寺での参籠、高野山での高野聖たちとの交流(当時中国から念仏禅を持ち込んだ法燈国師と会っているかも知れない)を経て、熊野権現で神勅を得、念仏札の配布を始めます。
これは念仏を唱える人のみならず唱えてない人にもどんどん配るというもので、今でいえば宣伝チラシのような画期的な布教方法でした。

一行は熊野からいったん九州へ赴き、再び本州に戻って善光寺から今度は東北まで行き、やがて生まれ故郷の四国へ戻って最後は兵庫の西宮で亡くなっています。
踊り念仏を始めたのは弘安2年(1279)のことで、これは田楽(でんがく)などの基礎文化とも融合して、全国に爆発的な広がりを見せます。
人々は貴賤の別なく踊り興じて南無阿弥陀仏を唱えました。その中のある者は一遍上人に連れ添って或いは別行動で諸国を行脚し、またある者は在家のまま念仏を唱えます。

現在、念仏や法華の題目を唱えている人たちの文化を見ている私たちには信じられない話ですが、平安時代の中期頃までは念仏というものは僧が唱えるもので、それを聞くことのできるのも貴族階級に限られていました。
それを在家の者でも唱えてよいのだとし、貴族だけでなく一般大衆にも広めていったのが、空也であり、一遍であり、一向であり、数多くの高野聖・時宗聖たちでした。

一遍はそういった流れの中にあって念仏者たちの鑑であり、心の支えであり、生き仏とみなされました。

遺偈「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ」。墓などは作らず遺体は野に捨て置いて獣に布施するようにと言い残して世を去りました。


綱吉将軍就任(1680)
延宝8年(1680)8月23日、徳川綱吉が江戸幕府の第5代将軍に就任しました。

前将軍・家綱の異母弟。
この年、将軍家綱が重い病の床に就き、亡くなるのは時間の問題と見られました。
家綱には子供がなかったため、その後継をどうするか、幕閣の間で意見が分かれます。

家綱の第一の側近である、老中・酒井忠清(下馬将軍)は家康公の直系の血筋が途絶えてしまう以上、鎌倉幕府の例に習い、京都より親王を将軍に迎えることを提案します。

これに対して、同じく老中・堀田正俊は血は完全に途絶えた訳ではなく、まだ将軍の弟である館林の綱吉公がいるではないかとし、これを呼び戻して継がせることを主張しました。
しかし実際酒井が無視しようとしたほど、綱吉はあまり将軍の器には見えなかったようです。

老中会議はかなり微妙であったようですが、結果的にはやはり血筋を重視すべきという堀田の主張が実力者の酒井の意見を抑えて多数意見となり、館林十五万石の城主に納まっていた綱吉は江戸に急遽召喚。
病床の家綱の養子となって、そのあとをつぐこととなりました。

綱吉は就任後、ただちに酒井を解任。
自分を立ててくれた堀田を大老に任命して、数々の政治改革を断行します。
この成果はやがて上方を中心とした元禄文化となって結実。町は活気づきました。

しかし、綱吉の政治が素晴らしかったのは、堀田の在命中だけでした。
堀田が貞享元年8月に亡くなってしまったあと、しばらくはその路線の政治を直接指導しますが、やがて側用人・柳沢吉保を登用すると、数々の悪政を始めます。
とりわけ悪評が高いのは、生母・桂昌院に勧められて貞享4年に始めた生類哀れみの令です。

最初、綱吉がイヌ年生まれだからということで、犬を大事にするよう、触れを出すのですが、その後、これがエスカレート。
あらゆる動物の殺傷が禁止され、蚊をつぶしただけで隠居を命じられる者も出る始末。
むろん犬を殺したりしたら死罪が待っていて、この法律は『人間以外の』動物を大事にするという、とんでもない法律でした。

あまりのことに、水戸徳川家の徳川光圀(水戸黄門)は、綱吉の所に虐殺した犬の死体を持っていき、ショックを与えた上で、ただちにこの悪法を停止するよう諫めましたが、綱吉はこれに関してだけは、光圀のいうことを聞きませんでした。

町には野犬がわがもの顔で歩き、その犬を収容して、餌を与えるための施設がどんどん増設されます。

結局、この前代未聞の悪報は宝永6年(1709)に綱吉が亡くなるまで22年間も続きます。
綱吉も子供がなかったため、兄・頼重(早く亡くなった)の子供の家宣が将軍職を継ぐことになりますが、綱吉は家宣に「私が死んでも数年はこれを継続して欲しい」と言い残します。

しかしもちろん家宣は綱吉が亡くなると即、生類哀れみの令の廃止を命じました。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ



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