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8月22日 チンチン電車の日、夫婦の日(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
フヨウ 繊細な美しさ ○
アガパンサス 恋の季節・恋の便り・恋の訪れ ○
シモツケ草 整然とした愛・努力・余裕・遊び
はかなさ・無益 ○
ヒマワリ あこがれ・熱愛・あなたを見つめる
愛慕・光輝・敬慕・敬老の日・情熱・輝き○
レンゲ草 感化・私の幸福・心が和らぐ ○
∞…∞ 8月22日・今日という日 ∞…∞
坂野真弥 (1996) 女優
北川景子 (1986) タレント
森田智己 (1984) 水泳
Akihiro (山村明弘) (1983) Kids Alive、Dr.
高以亜希子 (1978) タレント
菅野美穂 (1977) 女優
所 英男 (1977) 格闘家
植松俊介 (1974) タレント、シャカ
山口香緒里 (1974) タレント
三浦早苗 (1973) 女優
ハウィー・D. (1973) バックストリート・ボーイズ
なべやかん (1970) タレント
ケン (松谷賢示) (1969) タレント、水玉れっぷう隊
アキ (荒木良明) (1969) タレント、水玉れっぷう隊
佐野量子 (1968) タレント
羽野晶紀 (1968) タレント
あなたのこれっず (KOREDS) (1968) 元AURA、Dr.
岡田有希子 (1967) 歌手
カルロス・アルベルト・トーレス (1966) サッカー
シナリ・ラトウ (1965) ラグビー
新川てるえ (1964) 会社社長、元タレント、ブスっ子くらぶ
金田賢一 (1961) 俳優
内場勝則 (1960) 俳優
円城寺あや (1960) 女優
郷田ほづみ (1957) タレント、俳優、怪物ランド
平松伸二 (1955) 漫画家 「マーダーライセンス牙」「ドーベルマン刑事」
土屋昌巳 (1952) 元 一風堂
平山美紀 (1949) 歌手
タモリ (森田一義) (1945) タレント
みのもんた (1944) 司会者
橋田信介 (1942) ジャーナリスト
土居まさる (1940) 司会者
与謝野馨 (1938) 政治家
川口 浩 (1937) 俳優
井上昭文 (1927) 俳優
木川かえる (1923) 漫画家
ケ 小平 (1904) 政治家
レニ・リーフェンシュタール (1902) 映画監督
出口王仁三郎 (1871) 宗教家
クロード・ドビュッシー (1862) 音楽家
辰野金吾 (1855) 建築家
足利義満 (1358) 室町幕府将軍
○ 国際赤十字社、設立(1864)
○ 樺太千島交換条約批准(1875)
○ 警視総監の訓令によって女性が演劇の舞台に立つことが許され、川上貞奴ら、女優が誕生した(1890)
○ 東京で初の路面電車運行。新橋〜品川間(1903)
○ 日韓協約調印(1904)
○ 島崎藤村、没(1943)
○ 第1回全国大学野球選手権大会開催(1952)
○ 作家・向田邦子らが乗った旅客機が台湾で墜落(1981)
○ ソ連のクーデター、失敗(1991)
天の元后聖マリアの記念日
「聖母マリアの被昇天祭」から8日目。
チンチン電車の日
1903(明治36)年、東京電車鉄道の路面電車が新橋〜品川で営業を開始し、東京で初めて路面電車(チンチン電車)が走った。
日本で初めて路面電車が走ったのは1890(明治23)年5月4日に上野公園で開催されていた内国勧業博覧会の会場内。
また、日本で最初の一般の道路を走る路面電車は1895(明治28)年2月1日に開業した伏見線七条停車場(七条停車場・踏切南)-下油掛(後の京橋)間開業の京都電気鉄道である。
また、この日とは別に6月10日は、「路面電車の日」となっている。
夫婦の日
毎月の22日。「22」を「フーフ」にかけた語呂合わせによる。
夫婦対話で明るいマイホーム作りをと1987年に毎日新聞が提唱し、制定。
憲法記念日(エチオピア)
藤村忌
小説家・島崎藤村の1943(昭和18)年の忌日。
『夜明け前』などの作品を残し、自然主義の代表的作家とされている。
チンチン電車の日(8.22)
この日の由来はかなり悩んだのですが、どうも1903年(1900年?)の8月22日、東京の新橋−品川間に路面電車が走ったのを記念したもののようです。
これがおそらく東京で最初のチンチン電車ということになるのでしょう。
チンチン電車は路面電車、あるいは市電ともいいます。
市街を走るから市電、道路の路面を走るから路面電車というわけです。
語呂合わせで6月10日が「路面電車の日」になっています。
路面電車が日本で最初に走ったのは、1890年東京上野公園で開かれた第3回内国勧業博覧会(4.01〜7.31)の会場内でした。
この時、東京電灯会社がアメリカから持ってきた電車2両を会場で走らせました。
この年5月4日のことです。
「路面電車の日」が制定される時はこの日も候補にあがったようです。
実際に営業運転が始まったのは、京都が最初でした。
明治2年に天皇が東京に移動した時、政府は京都市民の気持ちに考慮して正式の遷都の宣言をせず「天皇が東京に滞在中は政府機能も東京に置く」というなんとも玉虫色の説明をします。
この結果、現在でも法的には日本の首都は正式には京都であり、たまたま臨時に東京に移動中になっている状態です。
さて、そんな中1894年は平安京遷都1100年となりました。
京都は一応そういうわけで、まだ首都であり続けている訳ですから、政府としては大きな祝賀行事をせざるを得なくなりました。
そこで色々な事業に予算がつき、これを機会に京都の町は元気を取り戻すことになります。
そこで、平安神宮が建立され、時代祭が始まって、この京都に日本で最初の市電が走ることになり、更に第4回の内国勧業博覧会もここ京都で行われることになりました。
この日本最初の市電は1895年2月1日開業(京都電気鉄道株式会社)。
区間は塩小路東洞院(現・京都駅前)−伏見京橋間で、電力としては琵琶湖から引いた疎水を使用していました。
そばに琵琶湖という大きな電力源があったことがこの大事業を可能にしたのでしょう。
「チンチン」というのは、発車の時に車掌さんが鳴らす鐘の音を描写したもので、それにより「チンチン電車」の愛称が生まれました。
しかしこの電車は専用軌道ではなく町中を走るわけですから、こういうものに慣れていない人が電車の前方をいきなり横切ろうとしてはねられたりすることを防ぐ必要がありました。
そこで当時の市電では、この電車の行く前を一人係員が走って、みんなに危険を知らせていました。
言い替えれば、当時の電車は人が走るのより遅かったというわけです。
この京都の市電は大正7年に市営に移管。
その後もずっと親しまれます。
そして、これを契機に他の都市でも導入の動きが出て、2番目が名古屋、3番目が東京となり、さらには大正から昭和中期にかけて、全国に広がりました。
しかし昭和30年代以降の自動車の急増は、急激な道路事情の悪化をもたらし、その非難の矛先が、道路をのんびりと走るチンチン電車に向けられるようになりました。
かくしてその頃から平成に入る頃にかけ、各地のチンチン電車は廃止されていきます。
発祥の地である京都の市電も1961年になくなってしまいました。
しかし、現在またチンチン電車は見直され始めています。
なんといっても、ガソリンではなく電気で走る、環境にやさしい存在であることが注目されてきた訳です。
このため、新規に新しいタイプのチンチン電車(LRT)の導入に向けて動き出した都市もあります。
LRTは現在熊本市で運行されています。
また、広島市でドイツから購入し、旧ソ連の輸送機アントノフで運んできた超低床電車も話題になっています。
近い将来、日本の大都市の市街部は、チンチン電車と電気自動車だけが走るようになりガソリン車は侵入禁止になっているかも知れません。
モナリザ盗難(1911-1913)
1913年12月12日、盗難されて行方不明になっていた名画『モナリザ』が発見され、無事ルーブル美術館に戻されました。
レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519)の名作『モナリザ』が盗難されたのは1911年8月22日のことです。
観覧に来た人が気付いて美術館の係員に通報しますが、最初は「スタジオにでも行ってるんでしょう」などという対応。
本当に無くなっていることが分かって大騒ぎになるまでかなりの時間がかかりました。
国宝級の盗難とあって、大規模な捜査線が引かれましたが、これで思わぬとばっちりを受けた人物がいます。
詩人のギヨーム・アポリネールです。
彼は友人がルーブル美術館からしばしば小品を盗んで売りさばいていたことが分かり、共犯ではないかと疑われて逮捕され、モナリザのことについて厳重な取り調べを受けました。
その当の友人はまんまと逃げており、アポリネールも小品盗難とは無関係だったのですが、彼が逮捕されている間に、恋人の画家マリー・ローランサンの母親が「そんな人とは別れなさい」と言い出し、ローランサン本人もアポリネールに対して熱が冷めていたため、これが二人の破局につながっていきます。
『モナリザ』が発見されたのはフィレンツェでした。犯人はイタリア出身の木工大工で、ルーブル美術館の絵画の保護ガラスをはめる工事をしていた男でした。
彼は「フランスに奪われたイタリアの宝をイタリアに連れ戻したのだ」と供述しました。
しかし実際問題として『モナリザ』はフランスが奪取したものではありません。
ダビンチの弟子が、ダビンチの修行の地であるフランスの国王に贈ったものです。
また、犯人逮捕後事件の背景も分かりました。
『モナリザ』を盗ませておいて、その間に偽物をコレクターに売りつけようというグループがこの大工をそそのかしたものでした。
しかし彼自身は分け前をもらっていなかったため、金に困って古美術商の所に持ち込み、これが犯人逮捕につながりました。
『モナリザ』の作者はレオナルド・ダ・ビンチはフィレンツェの近郊ビンチ村で1452年4月15日に生まれました。
若い頃からその美術的才能を認められ、1472年には画家組合に加入。
1481年には大作「東方の三博士」の制作を始めますが、この作品は翌年ミラノに移動したため未完成のままになってしまいます。
ダビンチはミラノのロドビコ・スフォルザの許に18年間滞在、ここで彼は美術だけではなく科学の研究も深く行います。
1499年フランスのルイ12世がミラノを攻略、ここがフランス領になってしまうと、ダビンチはミラノを去りいくつかの都市を経て1503年またフィレンツェに戻りました。
『モナリザ』が制作されたのはこの頃で、1503年頃から1505年頃にかけて制作されています。
ただしダ・ビンチはこの作品にかなり入れ込んでいて、この後何度も何度もこの絵に修正を加えているようです。
この『モナリザ』の制作が一段落した頃、彼はフランスの招きでミラノに移動、ここで晩年のほとんどを過ごすことになります。
彼が亡くなったのは1519年5月2日フランスのアンボワーズ近郊クルーでした。
レオナルド・ダ・ビンチはしばしば最後の万能人と呼ばれ、彼の業績は非常に広い分野にわたっています。
以前全日空の飛行機の尾翼に描かれていた人力飛行機は彼が熱心に実験したものですが、彼はこれを使って崖から飛び降りて大けがをしたこともあります。
『モナリザ』は木の板に油絵で描かれています。
このためこの絵の保存には湿度調整に非常に気を使います。
この作品はルーブルから滅多に出ることはありません。
海外に出たのはわずか2回で、1回が1963年アメリカ、もう1回が1974年4月20日日本の東京国立博物館です。
『モナリザ』のモデルに関しては、定説がありません。
フィレンツェの有力者フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻エリザベッタという説、ナポリのイサベラ・グアランダという説、などなど多くの説があります。
中にはこれは女装したダビンチ自身ではないか、などという説まであります。
ソ連クーデター失敗(1991)
1991年8月18日17:10。
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)のゴルバチョフ大統領は休暇でクリミアにおり、現行のソ連を解体してもっと緩やかな国家連合に移行するという重大な法案の作成作業をしていましたが、そこに急な来客がありました。
ゴルバチョフが「そんな予定はなかった筈だが何故入れたのだ」と警護官に訪ねますと、KGB局長が一緒だったのでと答えます。
ただならぬ事態が起きていることを感じた大統領はすぐ電話をかけようとしますが全ての回線が切断されていました。
ほどなく訪問者たちは大統領の部屋に勝手に踏み込んできました。
翌19日、午前4時。
ヤナーエフ副大統領ら8人の「国家非常事態委員会」が記者会見。
ゴルバチョフ大統領が病気のため執務不能になり、代わってヤナーエフ副大統領が大統領代行に就任した旨の発表をし、非常事態宣言を発令しました。
これに対してソ連の中の最大の国であるロシア共和国のエリツィン大統領は非常事態委員会を認めることはできないとし、ゴルバチョフ大統領の健康診断を要求。
またいち早くアメリカのブッシュ大統領もこのクーデター政府を承認せず、ゴルバチョフ氏とエリツィン大統領を支持する旨の声明を出しました。
(日本の海部首相はこのクーデターの期間中、G7諸国と共同歩調をとって、などという訳の分からない優柔不断な態度をとり続けました。アメリカに続いてイギリスやフランスもいち早くゴルバチョフ支持を打ち出したのとは対照的です)
同日午後1時、エリツィン大統領がロシア共和国庁舎前で抵抗を呼びかけるメッセージを読み上げますと大勢の市民がそれに賛同の声を上げます。
非常事態委員会は戦車を差し向けますが市民たちはバリケードを作って戦車の進入をくい止めました。
この時モスクワ放送はクーデター側に占拠されていましたが、民間の「エコー・モスクワ」は公正な報道を続けます。
やがて一部の若手将校に率いられた数台の戦車が市民側に合流して戦車同士のにらみ合いになりました。
20日にはこのクーデターに反対する労働者のストライキが全国で発生、また市民のデモも多発し、一部では流血の事態になります。
モスクワでも放送や口コミでロシア共和国庁舎前には続々と市民が集結、その人数は15万人に達します。
そして21日早朝。クーデター側の戦車が強引にバリケード突破を試みます。
これに対してロシア共和国側も守備部隊に発砲許可を出しました。
衝突は断続的に1時間半ほど続き、市民側に十数人の死者が出ますが、クーデター側の戦車も2台破損。
結局戦車隊は目的を果たせず引き上げます。そしてロシア側の代
議士がモスクワ軍司令官と交渉、軍は当面事態を静観する確約を取り付けました。
こうしている間に非常事態委員会側も足並みが乱れ始めます。
一部のメンバーが辞任を表明、大統領代行に祭り上げられたヤナーエフ副大統領も不安から酒びたりになって執務不能状態に陥ります。
そして突如この日の午後2時、非常事態委員会のメンバーがモスクワ脱出を始めました。
エリツィン大統領は彼らを拘束するよう指令を出す一方、軟禁されていたゴルバチョフ氏を救出するため、シラーエフ首相を急ぎクリミアに派遣しました。
事態は完全に逆転しました。モスクワ放送も午後9時頃には本来の報道に戻りました。
22日午前2時、ゴルバチョフ大統領はモスクワに戻りベススメルトヌイフ外相と固い握手を交わします。
ゴルバチョフ大統領に付き添っていたクリュチコフKGB議長はその場で逮捕。
クーデターに関与した他のメンバーも次々と逮捕されてクーデターは終了しました。
同日正午過ぎ。ロシア共和国庁舎前に集まった20万人の民衆の前でエリツィン大統領は勝利宣言をしました。
しかしそこに姿を現すべきであったゴルバチョフの姿はなく、ゴルバチョフは夕方プレスセンターで記者会見しただけでした。
この事はゴルバチョフの政治生命がクーデター失敗にも関わらず尽きたことを象徴的に如実に表していました。
ゴルバチョフ大統領は24日ソ連共産党の解体を発表、26日には懸案であったバルト三国(リトアニア・ラトビア・エストニア)の独立を容認、ほどなくアルメニアやグルジアでも独立の動きが高まります。
12月にはロシアに次ぐ連邦内の大国ウクライナもソ連からの独立を表明、ゴルバチョフも大統領辞任を了承して、12月26日「ソビエト社会主義共和国連邦」は消滅しました。
しかしこのクーデターが万が一にも成功していたら既に命数が尽きていたソ連の解体にはもっと多大の血が流される結果になったことは間違いなく、ゴルバチョフ氏はやはり止まっていた歴史の歯車をきちんと回転させ、世界の平和に貢献し、ソ連の国民に生きる希望を与えた偉大な政治家でした。
彼がこんなに早く政治の表舞台を去ることを予測していた人は少なかったでしょうが、引き際を誤って下手すると国賊になってしまう政治家も多い中、やはり彼は20世紀を代表する優秀な政治家であったといえると思います。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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