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8月21日 献血記念日、噴水の日、漬物の日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
フヨウ 繊細な美しさ ○
キンミズヒキ 感謝の気持ち・感謝の心 ○
サボテン 暖かい心・内気な乙女・秘めた熱意 ○
トケイソウ 宗教・信仰・宗教的情熱・聖なる愛
信心・聖なる愛 ○
∞…∞ 8月21日・今日という日 ∞…∞
安斎 舞 (1990) タレント
仲川愛里紗 (1984) Folder 5
大前 茜 (1982) 声優
桟原将司 (1982) 野球
東出輝裕 (1980) 野球
江本理恵 (1979) タレント
JUNJI (石渡淳治) (1977) スーパーカー、G.
GONGON (菅原勇太) (1977) B-DASH、Vo.
Verbal (1975) m-flo、ラッパー
杉崎政宏 (1974) タレント、元アクシャン
野口 健 (1973) アルピニスト
萩原聖人 (1971) 俳優
仁科 貴 (1970) 俳優
西原 誠 (1969) GRAPEVINE、Bass
タフィ・ローズ (1968) 野球
中井亜希 (1967) アナウンサー
西村和彦 (1967) 俳優
CMJK (1967) CONFUSION、元 電気グルーヴ
増沢 望 (1966) 俳優
鈴木祥子 (1965) 歌手
高樹沙耶 (1963) 女優
新居昭乃 (1959) 歌手
関根 勤 (1953) タレント
円 広志 (1953) 歌手
由良拓也 (1951) レーシングデザイナー
稲川淳二 (1947) タレント
志茂山高也 (1944) チャンバラトリオ
フェリックス・ベルナルド・ミヤーン (1943) 野球
生沢 徹 (1942) レーシングドライバー
ケニー・ロジャース (1937) カントリー歌手
菅原洋一 (1936) 歌手
越部信義 (1933) 作曲家
芦田 淳 (1930) ファッションデザイナー
八木祐四郎 (1929) JOC会長
竹内直一 (1918) 日本消費者連盟創設者
五島 昇 (1916) 実業家、東急創業者
木村荘八 (1893) 洋画家
野村愛正 (1891) 作家
ジョセフ彦 (浜田彦蔵) (1837) 通訳、新聞発行
○ 秀吉、転職を禁止。武士・町人・百姓の間にそれぞれ一線を(1591)
○ 大地震により猪苗代湖出現(1611)
○ 島津久光の行列護衛の薩摩藩士、生麦村で英人を斬る(生麦事件)(1862)
○ 第一回内国勧業博覧会、東京上野公園で開催(〜11月30日)(1877)
○ 上野公園に日本初の噴水ができる(1877)
○ モナ・リザ、盗まれる。2年後無事返還(1911)
○ 新聞に、天気図登場(1924)
○ アキノ元上院議員、米国亡命から帰国。マニラ空港で旅客機より国軍兵士に連行された直後に射殺(1983)
献血記念日
1964年(昭和39年)のこの日、それまでの売血制度と決別して献血の推進が閣議決定されたことを記念して制定。
噴水の日
1877年(明治10年)のこの日、東京の上野公園に日本で初めての西洋式の噴水が設置された。
州立記念日(Admission Day)(アメリカ合衆国ハワイ州)
生麦事件(1862)
文久2年8月21日、生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で「生麦事件」が起こりました。
薩摩藩主の父・島津久光はこの年3月1000人の武士を率いて京都に上り、公武合体のために活動を始めます。
4月23日には寺田屋事件を起こして自藩の尊皇攘夷派を文字通り切り、5月には大原重徳を勅使にたてて一緒に江戸へ向かい幕府に種々の改革を迫ります。
そしてこの日一通りの役目を終えて京都へ戻ろうとしていました。
久光の護衛の武士はこの時400人ほどいました。
一行が生麦村にかかった時、たまたま川崎大師を見物に行こうとしていたイギリス人4人が乗馬のままこの行列の前を横切りました。
彼らは大名行列の前を馬に乗ったまま横切ることが極めて無礼な行為であるということを知りませんでした。
一人の武士が、こんな所を通ってはいけない、と注意したのですが、もっと気の短い一人の武士は4人に斬り掛かっていきました。
そうするとそれに続いていく者も出てきて結局4人のうち1人が死亡、2人がけがをし、もう一人も帽子と髪の一部を切られました。
命からがら逃げてきた3人から事情を聞いたイギリス人たちがその大名行列にすぐさま報復をという騒ぎになりますがイギリス代理行使のニールがみんなを抑え外交ルートでの決着を図ります。
ニールは4人が被害にあった場所はイギリス人が遊歩することを許可された地区であったとして幕府と薩摩藩に謝罪と犯人の引き渡し及び賠償金の支払いを要求します。
これに対して幕府は何とか穏便にと賠償金を支払いますが、薩摩藩は犯人は不明であるとして要求を拒否しました。
このためイギリスは薩摩藩に報復すべく軍艦を派遣、翌年7月2日、薩摩湾でイギリス艦隊と薩摩藩船との激しい戦闘が起きました。
「薩英戦争」です。
この戦争ではイギリス軍も薩摩の船を拿捕しますが薩摩軍もイギリス軍の旗艦ユリアラス号に多大の被害を与え艦長を死亡させます。
結局大勢としてはイギリス側の勝利ではあったものの、死者の数はイギリス63名に対して薩摩はわずか17名でした。
この結果イギリスも「薩摩は良くやる」と敵を評価し、両者は急速に仲がよくなって、維新への流れが加速することになります。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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