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8月 8日 そろばんの日(全国珠算教育連盟 1968)、ひょうたんの日(全日本愛瓢会)、
屋根の日・瓦の日(全国陶器瓦工業組合連合会)、ヒゲの日(シック 1978)、
パパイヤの日、白玉の日(全国穀類工業協同組合)、笑いの日、タコの日、
親孝行の日(親孝行全国推進運動協会 1989)、地球歌の日、発酵食品の日、
米の日(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アザレア 愛の喜び・自制心・節制 ×
クレオメ あなたの容姿に酔う・小さな愛・風に舞う胡蝶○
コウホネ 崇高・秘められた愛情 ○
コムギ(小麦) 富・裕福 ×
ツツジ 愛の喜び・情熱・節制・伝奇 ○
∞…∞ 8月 8日・今日という日 ∞…∞
金原ひとみ (1983) 作家
南條りか (1982) 社会福祉事業研究所社長
飯田圭織 (1981) タレント、モーニング娘。
白石美帆 (1978) タレント
桑谷夏子 (1978) 声優
ハヤシヒロユキ (1978) POLYSICS、Vo. G.
猫ひろし (1977) タレント
クレメルソン・デ・アラウージョ・ソアレス (1977) サッカー
山下徹大 (1975) 俳優
田中 誠 (1975) サッカー
多田健二 (1974) タレント、COWCOW
Yu〜ki (?) MARICE MIZER、Bass
巌雄謙治 (1970) 相撲
フェイ・ウォン (1969) 歌手
天海祐希 (1967) 女優
北岡ひろし (1967) 歌手
東野幸治 (1967) タレント
佐古忠彦 (1964) アナウンサー
篠原恵美 (1963) 声優
田中要次 (1963) 俳優
真地勇志 (1962) 声優、ナレーター
DJ KOO (1961) TRF、DJ
久保田雅人 (わくわくさん) (1961) 声優、タレント
北天佑勝彦 (1960) 相撲
新井素子 (1960) 作家
清原なつの (1956) 漫画家
ナイジェル・マンセル (1954) レーサー
松本匡史 (1954) 野球
隈 研吾 (1954) 建築家
池畑慎之介 (ピーター) (1952) タレント、歌手
ヨースタイン・ゴルデル (1952) 作家
押井 守 (1951) 映画監督
小鹿みき (1949) 女優
前田美波里 (1948) 女優
麦人 (1944) 声優
もず唱平 (1938) 作詞家
ダスティン・ホフマン (1937) 俳優
中島貞夫 (1934) 映画監督
ロミ山田 (1933) タレント、歌手
近藤洋介 (1933) 俳優
ロジャー・ペンローズ (1931) 物理学者
岩井半四郎 (十代目) (1927) 歌舞伎役者
植草甚一 (1909) コラムニスト
大岡怪童 (1901) 俳優
土肥原賢二 (1883) 軍人
寺内寿一 (1879) 軍人
谷風梶之助 (1750) 相撲
○ 世阿弥、没(1443)
○ 雪舟、没(1506)
○ キリスト教禁教令(1616)
○ 天明の飢饉、江戸市中に米価抑制(1786)
○ アメリカズ・カップの第1回レース(1870)
○ 鶴田義行、オリンピック200m平泳ぎで優勝(1928)
○ 米潜水艦ノーチラス号、
○ 北極潜行に成功(1958)
○ 札幌医大の和田教授が日本初の心臓移植手術(1968)
○ 金大中氏、東京のホテルから拉致される。金大中事件(1973)
○ ニクソン大統領、ウォーターゲート事件で辞任(1974)
そろばんの日
全国珠算教育連盟が、そろばんの普及とその優れた機能をアピールするために1968年(昭和43年)に制定。
そろばんをはじくとき、「パチパチ」と音をたてるところから8月8日としたもの。
プチプチの日
クッション材の気泡シート(通称「プチプチ」)の専門メーカー・川上産業が制定。 気泡シートをつぶした時の音の語感から。
また、「8」が気泡シートの気泡が並んだ姿を連想させるからとも言われる。
パパイヤの日
アメリカ・ハワイ州のパパイヤ管理委員会日本事務所が1978年(昭和53年)にパパイヤの販路拡充のために制定。
パチンコ供養の日
パチンコ台メーカーの平和が1994(平成6)年に制定。
同社が株式公開した日であり、また、玉を弾く音「パチ(8)パチ(8)」の語呂合せと、八が末広がりであることから。
パチンコ台に感謝する供養祭が行われる。
ヒゲの日
ヒゲの八の字はパパにも通じることから、ヒゲ剃り用品メーカーの日本ワーナーランバート社が1978年(昭和53年)に制定。
笑いの日
1966年(昭和41年)に制定された「敬老の日」の実現に中心となった日本不老協会が1994年(平成6年)に「笑いの日を作る会」を発足させ、この日を笑いの日に制定。
「8」「8」と「ハッ」「ハッ」の語呂合せから。
親孝行の日
父母を大切にする精神を全国に広めるために、親孝行全国推進運動本部が1989年(平成1年)に制定した日。
8月8日はハハ(母)パパ(父)の語呂合せ。
地球歌の日
歌手の菅原やすのりが提唱。歌を通じて平和をよびかけている。
「8」が心の輪、地球を象徴しているとのこと。
発酵食品の日
万田発酵が1994(平成6)年11月に制定。
「はっ(8)こう」の語呂合せ。
チーズや納豆等の発酵食品の大切さをPRする日。
タコの日
蛸の足の数が8本であることから。
ひょうたんの日
全日本愛瓢会が制定。
数字の「8」がひょうたんの形に似ていることから。
白玉の日
全国穀類工業協同組合が制定。
ドール・フィリピン産パパイヤの日
ドールが2001(平成13)年に制定。
「パ(8)パ(8)イヤ」の語呂合せ。
まるはちの日
1907年(明治40年)に名古屋市が尾張徳川家が合印として使っていた「まるはち」印を市章に決定。88年後の1996年(平成8年)に8月8日をまるはちの日と制定。
かわらの日
8月8日の「八」を重ねた形が瓦の重なり合っている姿に似ていることから全国陶器瓦工業組合連合会が制定。
デブの日
1978年(昭和53年)に結成された大日本肥満者連盟(大ピ連)が「8」の地のふくよかなイメージと肥満体型こそ水着がよく似合うということから制定。
守武忌
俳諧師・荒木田守武の1549(天文18)年の忌日。
世阿彌忌
能楽師・世阿彌の1444(文安元)年頃の忌日。
國男忌,柳叟忌
詩人・民俗学者の柳田國男の1962(昭和37)年の忌日。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
そろばんの日(8.8)
8月8日は「パチパチ」でそろばんの日です。
そろばん(算盤,abacus)の原型はおそらくBC2500年頃のメソポタミアのウル王朝あたりで生まれたのではないかと思われます。当時の計算方法は、土や岩の上に線を引き、その上に小石を並べて計算していたといわれます。
これが紀元前後のローマ時代には、線ではなく溝を彫って、その中に同じくらいの大きさの小石を入れて転がす方式のものが使用されるようになっています。
この溝のある盤として青銅製のものなども制作されています。
この時点で既に上珠と下珠が分離されています。
現在のように珠を串刺しにする方式は、中国で生まれたものと思われます。
時代が確定できないのですが、おそらくは元の時代ではないでしょうか。
明代初期の「魁本対相四言雑事」という本に、串刺し方式の算盤の絵が出ていますので、その時点までには確立していたということになります。
中国の算盤は、上珠が2個、下珠が5個ありました。
これは5×2+5=15で、ひとつの位に0〜15までの数が置ける16進法の算盤です。
なぜそんなものが必要だったかというと、当時の中国では、十六両で一斤という単位の仕組みがあったためです。
これが日本に伝わってきますと、日本では特に十六進法は使用していなかったので(日本は1両=4朱、1朱=4分、という4進法)、早々に上珠は1個に改造されますが、長く下珠は5個のままでした。
江戸時代に既に乳井貢という人が下珠は4個でいいではないか、と提唱したのですが、実際に4珠の算盤が普及するのは1935年に文部省令が出てからです。
しかしそれまで5珠の算盤に慣れていた人は簡単には切り替えられません。
そこでだいたい1960年代頃までは5珠の算盤が残っていた家も多かったのではないかと思います。
私の祖父は五珠の算盤が好みのようでしたが、四珠の算盤も使えないことはないようでした。
子供の頃に「この五珠の算盤ってどういう使い方するの?」といたのですが「別に四珠と変わらないよ」としか答えが返ってきませんでした。
結局詳しい使い方は聞かずじまいです。
電卓というものがこの世の中に普及しはじめたのが1973年頃です。
それまで、高価なコンピュータ(その1973年頃にメモリーが4〜8KB程度のミニコンが数千万円していた)を利用できる大企業を除けば、ほとんどの企業・商店で計算は盤で行われていました。
そのため1970年代半ばまでは算盤は、社会に出ていくための必須の技術のひとつとして、今で言えば英語の塾に通わせるような感覚で、親たちは子供を算盤の塾に通わせていました。
一応電卓が1973年頃から出始めたとはいえ、初期の電卓はキータッチの反応が悪く、1タッチしたつもりが2度押されていたり、逆に押されていなかったりというのはザラで、同じ計算を算盤と電卓の両方でやって結果が違った場合、大抵
電卓のほうが間違っていました。そこで1980年前後までは、多くの人が電卓と算盤を併用していました。
世の中で算盤が使われないようになっていくのは「電卓も必要ない」ということになってきた、1980年代後半のパソコン時代を待たなければなりません」。
その頃になると、企業の末端までパソコンや大型コンピュータの端末が入り込み、元々
の数字を入れれば、計算は全部コンピュータがやってくれるようになり、経理の当者は電卓さえ叩かなくなります。
当時あちこちで見かけた風景は、若い経理担当者がMultiplan
などで作った書類を持って上司の老齢の経理課長さんの所に持っていくと、課長さんが、どれどれ
と算盤を取り出して、パチパチと数字を叩き、合計が合っていることを確認して「うん、合ってる」と言ってハンコを押してくれる、などといったものでした。
そんな中、算盤は伝統工芸品の指定も受け、実用品から、趣味のものへと変質していってしまいました。あと50年もしたら、算盤は華道・茶道などとならぶお稽古事」の部類に入り、やたらと礼儀作法のうるさい流派などが誕生しているかも知れません。
プチプチの日(8.8)
8月8日は形と音から「プチプチの日」です。
最近では潰すのが楽しい?というので、バーチャルでいくらでも潰せます、などというソフトも多数出回っていますが、もともとは包装用の緩衝材。
正式な工業品名としては「気泡緩衝材」といい「プチプチ」は、そのメーカーのひとつ、川上産業の登録商標になっています。
気泡緩衝材は1957年か1958年頃に、アメリカで発明されました。
Alfred
Fielding と Marc Chavannes
は、もともと壁紙を作ろうとして、2枚のシートを貼り合わせたものを作ろうとしていたのですが、製造過程でどうしても間に気泡が入ってしまいます。
気泡ができないようにしようと、日夜努力を続けるものの、どうしても排除できない。
そんなある日、この気泡の入ったシートが緩衝材として使えるのではないか?
ということに気付いたのでした。
かくして壁紙の製造研究は放棄され、ふたりはSealed
Air
という会社を1960年設立してこの商品を大々的に販売しはじめました。
川上産業の創立者である川上聰は1963年頃にこの製品に気付き、国内でもこれを製造しようと、独自に機械を開発。製造に乗り出します。
これが「プチプチ」です。
その頃、宇部興産(現在はこの部門は宇部フィルムに分社)がアメリカから製造機械(Sealed
Airとは別の会社)を輸入して同様の製品を製造しはじめました。
こちらは「エアーキャップ」の商品名になっています。
この気泡緩衝材が日本国内で出回り始めたのは、この2社が活動をはじめる1960年代後半になるようです。
なお元々のSealed
Air社の製品の商品名は「Bubble Wrap(バブル・ラップ)」です。
金大中事件(1973)
1973年8月8日、来日中の韓国の元大統領候補・金大日(キム・デジュン)氏が何者かによりホテルから拉致され、5日後、韓国の自宅前で発見されました。
当時韓国は朴正煕(パク・チュンヒ)の事実上の独裁政権の下。
金氏は戒厳令が施行されている国内を避けて日本とアメリカを舞台に民主化運動を行っていました。
現場に在日韓国大使館の金東雲一等書記官(事件後解雇・その後行方不明)の指紋が残されていたことから、事件はKCIA(韓国中央情報部)によるものと思われましたが、韓国政府はこれは韓国国内の問題であるとして日本の捜査
当局からの調査依頼を一切拒否。
同年11月2日金鍾泌首相が来日して日本の田中首相と会談。
日本と韓国の政府間で、金大中氏の今後の身の安全を韓国政府が保証することを条件に、これ以上の事件究明は行わないという政治決着が行われました。
事件の真実について語る前に韓国の歴史を確認しておく必要があるでしょう。
1945年に朝鮮半島を軍事占領していた日本が太平洋戦争に負けた直後北方からソ連軍が進駐、対抗してアメリカ軍も南方から朝鮮半島に展開しました。
アメリカとソ連はモスクワやソウルで何度も話し合いを続けますが両者譲らず、結局1948年、日本軍に代わって北側をソ連に南側をアメリカに占領されたまま、北に朝鮮民主氏主義人民共和国(以下北朝鮮)、南に大韓民国(以下
韓国)が成立しました。
更に両者は1950年から1953年まで朝鮮戦争を行い、この時期両者の国境は何度も上下しますが、結局38度線を休戦ラインとして休戦協定が成立しました。
従って現在でも両国は実は戦争状態が終了していません。(それは日本とロシアなども同様ですが)
大韓民国成立当時から大統領の地位にあったのが李承晩。しかし1960年3月に大統領に3選した時、選挙に不正があったのではないかという学生中心のデモが全国に拡大。
李大統領は4月19日戒厳令を出して抵抗しますが、結局27日辞任。
ハワイに亡命しました。
このあと尹大統領・張首相による政権が一時的に成立しますが混乱は続き、これが1961年5月16日の朴正煕少将らによる軍事クーデターを引き起こします。
朴氏は最初国家再建最高会議議長に就任。
新憲法を制定して1963年10月大統領に就任。
このあと16年間にわたる長期政権を維持します。
この間セマウル運動などの国内改革運動に取り組むとともに海外との交流も拡大し、「漢江の奇跡」と呼ばれた高度成長を実現しました。
1971年の大統領選挙では金大中氏と争い、これに勝利しますが、その直後、金氏が交通事故に遭い重傷を負う事件が発生。
これが朴氏支持者によるものではないかと噂されます。
その後金氏が国外にいる間に1972年反体制派を抑えるために戒厳令を施行。
国内外の朴氏に対する批判は著しく高まりました。
1974年には朴大統領の講演の最中に在日韓国人の文世光が大統領を狙撃する事件が発生。
この時弾丸はそれて、大統領夫人に命中。
夫人は死亡しました。
この夫人の葬儀は国葬として執り行われ「王様のつもりか?」という批判を更に受けることとなります。
(文世光は裁判の上死刑判決。即執行。ただし文世光はダミーではないかとの説もある。彼は極度の近眼でありとても距離を置いての狙撃は不可能だったとか、文を会場に案内したのは大統領警護室のメンバーであったという証言も存在する)
反朴大統領の輪はどんどん広がっていき1979年10月26日、とうとう、夕食会の席で側近の金載圭KCIA部長が大統領を射殺して朴政権は倒れました。
(金部長は後日裁判の上死刑執行)
朴が倒れた後、崔圭夏首相が大統領代行に就任して事態の収拾に務めますがおさまらず、結局同年12月12日全斗煥(チョン・ドファン)少将らが戒厳司令官らを拘束して粛軍クーデターを実行。
この全斗煥に支援されて、やっと崔氏は正式に大統領に就任するとともに政治活動の自由化や改憲作業にとりかかることができました。(ソウルの春)
しかし翌1980年3月再び学生デモが広がり国内がまた混乱の渦に巻き込まれます。
やむを得ず軍部は学生運動指導者や金大中・金鍾泌らの有力政治家を拘束して政治活動禁止・大学休校などの措置をとります。
これに反発した学生や市民らが光州市で大規模な抗議行動をとると軍は部隊を投入。
多数の死傷者が出ました。(光州事件)
結局1980年9月全斗煥は自ら大統領に就任。
強権による統制のもとで少しずつ民主化を実行する方策を採ります。
ここに来てやっと韓国国内は落ち着きを回復し始めました。
光州事件に関しては金大中氏が暴動の実質的な首謀者ではないのかとの一部の意見にもとづき逮捕され死刑判決が出ますが、全斗煥は恩赦により無期懲役に減刑するという、強硬派・民主派の双方に配慮したギリギリの選択を行います。
なお、光州事件の関係者はソウル五輪を控えた1987年全員赦免されました。
そしてこの1987年、全斗煥は大統領を退いて民主正義党の盧泰愚(ノ・テウ)が新しい大統領になります。
なお、大統領を退いた全斗煥は盧泰愚の次の金泳三政権になってから今度は逆に光州事件に軍隊投入をしたこと自体が国民に対する暴力ではないかと追求され一転して裁判の被告側に立つことになります。
この裁判も死刑判決が出ましたが、大統領による特別赦免で釈放されています。全氏は夫人とともに山寺に隠棲しています。
金泳三政権(1993-1997)のあとは、問題の金大中氏が大統領に就任しています。
大統領の任期は2002年までです。
金大中氏は1924年1月6日韓国南西部の小さな島・荷衣島で農家の二男として生まれました。
(公式には1925年12月3日生となっているがこれは父親が息子の徴兵の時期を少しでも遅らせるために遅れて出生届を出したため)
木浦商業高校を経て、船会社の経営をしていましたが政界入りを目指して何度か国会に挑戦、1961年の補欠選挙で国会議員に初当選しました。
たちまち頭角をあらわし、金泳三らとともに野党新民党のリーダーとして活躍するようになります。
1971年大統領選挙に出馬しますが、朴正煕634万票に対して540万票と善戦するものの落選。
しかしこの善戦は国内の多くの民主化運動の活動家たちを勇気づけました。
それに脅威を覚えたKCIAは同年、金氏を交通事故に装って殺害を試みますが失敗。
しかし金氏は関節を痛め座布団無しでは椅子に座れない体になりました。
しかし金氏はその後も日本やアメリカの同胞たちを訪れて外からの支援も依頼しつつ、民主化運動を続けます。
しかし国外にいた1972年10月朴政権は非常戒厳令を発布。
金氏は韓国に帰りづらい状況に陥りました。
そこで起きたのが金大中事件でした。
1973年8月8日23:19。
東京ホテル・グランドパレス2212号室。
部屋の外に出た金大中氏は6人の屈強な男に拉致され、2210号室に連れ込まれました。
6人は金氏に麻酔薬をしみこませたハンカチを鼻にあて、意識がもうろうとした所で地下駐車場に待機していた車に運び込みます。
一行は金氏を後部座席の床に押しつけたまま高速道路を通って大阪に向い、いったん大阪の韓国総領事館の宿舎に運び込みます。
工作員たちは金氏をあらためてロープできつく縛り直し、鼻をのぞく顔全体にテープを貼ります。
そして大阪埠頭に運んで、黒いビニール袋に入れて一般の貨物船竜金号に積み込みました。
竜金号は翌朝8月9日午前8:45大阪埠頭を出港。
当時の船員らはそのビニール袋に入っているのが人間だとは思ったが、お上のすることなので何も言えなかったと後に証言しています。
彼らは船中で日本のラジオ放送を聞いて、その中身が金大中氏であることに気づき大いに驚いたといいます。
船は瀬戸内海を通って10日の朝9:54には関門海峡を通過。
韓国に向かいました。
そして予定では金氏を朝鮮海峡の海の中に沈めることになっていたといいます。
しかし金氏におもりを付け、甲板まで引き出した所で、なぜかこの作業は中止されてしまいました。
KCIAの動きを察知したアメリカのCIAが緊急にこの件を日本の公安当局にも伝えるとともに、KCIAに対しても「もし金氏を殺害したらただではおかない」と強く警告。
そして日米の意志が固いことを実感させるため、近くの自衛隊基地から戦闘機を緊急発進させ、船に対しても直接警告したため。
というのが一般に言われている説です。
当初は米軍機を使ったとも言われましたが、実際には両国の意向であることを強調するため自衛隊機を使用した
とも言われています。
ただこの説には欠点もあり、ほんとうに金氏を殺害するつもりならこの件の責任者が船に同乗していたはずなのに、実際は乗っていなかったという問題です。
一国の運命を左右する重要な処理を下っ端の工作員任せにしてしまうというのはあまり考えられないことなので、最初からただ韓国に連れて行くだけの目的ではなかったかとも言われます。
しかしただ連れて行くだけの為にこんな大騒動を起こすのもまた解せないところです。
結局竜金号は11日の深夜に釜山港に到着。
12日朝7時に接岸。
今度は待機していた救急車に金氏を移し、釜山からソウルまで直行しました。
そしてソウル市内のアジトでしばらく時間を取ってから、13日夜、金氏を自宅前に置き去りにして工作員たちは逃走しました。
金氏はこの件を韓国の警察にも訴えますが、警察の捜査は何の成果もあげられず、1974年8月14日に捜査を実質的に終了しています。
事件後金氏はソウルの春に至るまで自宅で軟禁生活。
やっと朴政権が倒れたと思うと1980年の光州事件で内乱陰謀罪に問われ1981死刑判決、恩赦で無期懲役に減刑。1982年刑の執行停止。このあと1983〜1985年にはアメリカに滞在しました。
1987年の大統領選挙に立候補しますが盧泰愚氏に敗れ、更に1992年には長年の盟友であった金泳三氏に敗れ、このあと一時期政界を引退します。
しかし1995年カムバックして、かつての敵・金鍾泌と大胆な同盟を結んで1997年の大統領選挙で初当選を果たしました。
韓国の大統領はかつての独裁政権の反省から再選が禁止されているので2003年には金大中氏は政界を引退するものと思われます。
その時には彼は79歳になっています。
最初に大統領に立候補した時は47歳でした。
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