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8月
6日 広島平和記念日、国立公園クリーンデー、ハムの日、太陽熱発電の日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アサガオ はかない恋・固い約束・愛着・愛情の絆・仮装○
サルビア 尊敬・燃える心・知恵・家庭の徳
すべてよし・家族愛・恋情 ○
ジニア(ヒャクニチソウ)
遠くの友を思う・別れた友への思い
幸福・不在の友を思う ○
ノウゼンカズラ 栄光・名誉・華のある人生・女性 ○
∞…∞
8月 6日・今日という日 ∞…∞
北嶋一喜 (1985) 漫画家 「大泥棒ボルタ」
片山文男 (1984) 野球
浦井健治
(1981) 俳優
村西哲幸 (1981) 野球
奥菜 恵 (1979) 女優、タレント
さかなクン (宮澤正之)
(1975) イラストレーター
椎名純平 (1974) シンガーソングライター
イゴール・ボブチャンチン (1973)
キックボクシング
ヤン"ザ・ジャイアント"ノルキヤ (1973) キックボクシング
山口祥行 (1971)
俳優
ほっしゃん。(星田英利) (1971) タレント、元チュパチャップス
秋田 豊 (1970)
サッカー
M・ナイト・シャマラン (1970) 映画監督
坪井直樹 (1969) アナウンサー
梶浦由記 (1965)
See-Saw、Key.
デビッド・ロビンソン (1965) バスケットボール
古田敦也 (1965) 野球
久島海啓太
(1965) 相撲
津野 浩 (1965) 野球、ゴルフ
竹崎 忠 (1964) セガ広報担当
根岸貴幸 (1961)
作曲家
辰巳琢郎 (1958) 俳優
金子裕則 (1958) シンガーソングライター
国安修二 (1958)
音楽プロデューサー、シンガーソングライター
ボブ・ホーナー (1956) 野球
織田無道 (1952) 僧侶
ブッチー武者
(1952) タレント
マイク・ラインバック (1949) 野球
三遊亭好楽 (1947) 落語家
山口洋子
(1947) 作家
高橋克彦 (1947) 作家
市川團十郎 (十二代目) (1946) 歌舞伎役者
ラルフ・ヒュッター
(1946) クラフトワーク
盧 武鉉 (ノ・ムヒョン) (1946) 政治家、韓国大統領
井沢 満 (1945)
脚本家
一谷伸江 (1945) タレント
結城 貢 (1940) 料理人
藤田紘一郎 (1939)
大学教授、生物学者
荒川 博 (1930) 野球
菅原都々子 (1928) 歌手
アンディ・ウォーホル (1928)
画家
笑福亭松之助 (1925) 落語家
不動岩三男 (1924) 相撲
古山高麗雄 (1920)
作家
ロバート・ミッチャム (1917) 俳優
園井恵子 (1913) 女優 ※1914年生まれ説もあり
原ひさ子
(1909) 女優
アレクサンダー・フレミング (1881) 細菌学者
近衛忠房 (1838)
公卿
リュック・ド・クラピエ・ヴォーヴナルグ (1715)
モラリスト
○ 仙台七夕(〜8日、仙台市)
○ 伯父である平良兼、将門を破る(937)
○ 幕府、煙草禁制(1612)
○ 神聖ローマ帝国滅亡(1806)
○ ロンドンのサボイホテル、オープン。電灯とエレベーターを初めて備えた、世界一贅沢なホテル(1889)
○ 日本放送協会(NHK)設立(1926)
○ 世界初の原爆、広島に落とされる(1945)
○ 古橋広之進、世界新(1500m自由形)(1948)
○ 『アサヒグラフ』原爆被爆写真公開。即日売切れ(1952)
○ 広島で第1回原水爆禁止世界大会(1955)
○ マッターホルン北壁に日本人初登頂(1965)
○ ニチボー貝塚バレーボールチーム、連勝記録258でストップ。ヤシカが連勝を阻止(1966)
○ 衆議院議長に土井たか子(1993)
広島平和記念日,広島原爆忌
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、広島市上空で世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。
熱線と衝撃波によって市街は壊滅し、約14万人の死者を出した。
その後、原爆症等で亡くなった人を含めると、犠牲者は25万人以上にのぼる。
この日、広島市では原爆慰霊祭で世界平和を祈念するアピールが宣言され、燈籠流しが行われる。
太陽熱発電の日
1981年(昭和56年)のこの日、香川県三豊郡仁尾町の電源開発仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱による発電に成功したことを記念して制定。
ハロースクエアの日
高速道路のパーキングエリア・サービスエリア「ハロースクエア」を管理する財団法人ハイウェイ交流センターが制定。
「ハ(8)ロー(6)」の語呂合せ。
ハローの日
「ハ(8)ロー(6)」の語呂合せ。
ハムの日
日本ハム・ソーセージ工業協同組合が制定。「ハ(8)ム(6)」の語呂合せ。
雨水の日
1994(平成6)年のこの日、墨田区で市民主体による世界初の雨水利用国際会議が開かれたことに因み、翌年(1995)の雨水フェアでこの日を「雨水の日」とすることを宣言した。
雨と共生する都市づくりへの決意を確認する日。
独立記念日(ボリビア)
1825年、ボリビアがスペインから独立しました。
独立記念日(ジャマイカ 8月第1月曜日)
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
太陽熱発電の日(8.6)
8月6日は太陽熱発電の日です。
1981年のこの日、「サンシャイン計画」の実験施設である、香川県仁尾町の太陽熱発電所で世界初の太陽熱による1000KWの発電に成功しました。
この日はこれを記念したものです。
太陽エネルギーの利用に関する研究は、1955年の国際太陽エネルギー会議が出発点です。
太陽はまだ50億年ほどは輝き続ける恒星であり、常識的に考えて人類という種が消え去るのよりもずっと先まで地球にエネルギーをそそぎ続けるものと思われます。
事実上無尽蔵のエネルギー源であり、将来性の高いエネルギーという訳ですが
当時はこんなものを研究するより石油が安く手に入り、それを燃やせばいいではないかということで、あまり盛り
上がらず、実際に研究に従事する学者も少数でした。
それが再び注目されたのは1973年のオイルショック以降です。
ようやく人々は石油というものが有限の資源であり、しかも中東諸国の意志と事情によって自由に価格が制御されてしまうものであることを認識しました。
そこでスタートしたのがサンシャイン計画やムーンライト計画でした。
これらの一連のプロジェクトで研究されたものは多数あります。
再び注目された石炭、その石炭の液化、地熱発電、電磁流体(MHD)発電、天然ガスやメタノールを使った燃料電池外燃機関、そして太陽光発電と太陽熱発電。
仁尾町の太陽熱発電所もこの計画にもとづいて作られたものです。
この発電所はこの時確かに世界で最初に太陽熱発電に成功した訳ですが、この発電所にはとんでもない欠陥がありました。
それはこの場所は日照量が少なすぎて実用になる程度の大規模な発電ができなかったのです。
このためこの発電所での実験は1985年中止になってしまいました。
最大出力は2000KW。
これでは一般家庭600軒分程度の電力にしかなりません。
日本のお役所仕事の典型がここにあるようにも思われます。
アメリカのカリフォルニアに建設された太陽熱発電所は30万KW。
小規模の都市の電力を完全にカバーできるだけのパワーを持ち、発電コストも石油と肩を並べています。
基本的に太陽のエネルギーを直接利用する方法は太陽光方式と太陽熱方式があります。
太陽光発電では太陽の光を光電効果によって電流として取り出します。
最も実用化されているのはアモルファスを使用した太陽電池で、現在多くの家庭用電卓に使用されています。
太陽熱は日本では発電より太陽熱温水器として利用されています。
現在日本全体での太陽熱温水器による電力節約だけでも合計で大規模な原発1基分に相当しています。
太陽熱発電の場合は太陽の光を太陽の方向に合わせて回転する鏡で集め高温を作り出してそれにより蒸気を作りタービンを回します。
太陽光発電が静的な発電であるのに対して太陽熱発電は従来の発電所の構造の延長上にある動的な発電です。
太陽光発電と太陽熱発電では太陽熱発電の方が今のところエネルギー変換効率が良いようです。
しかしこの両者は同じ問題を抱えています。
それは実用的なエネルギーを生み出すためにはかなり広い土地を確保しなければならないということです。
その解決法としてひとつ提案されているのは、全国の家庭やビルの屋上に太陽光電池を設置するという方法です。これだともし全ての家屋に太陽光電池を取り付けることができれば現在の日本の消費電力の全て!!を供給すること
が可能だとされています。
もっともそのためにかかる総費用は原子力発電所100基分くらいかかるはずです。
またひとつの方法は宇宙空間に太陽光発電所を作り、それを電波で地上に送電することです。
しかしこれは桁外れに膨大な費用が掛かるのが明白で、とても実用的とは思われません。
もうひとつの方法は鉄道や高速道路など、そもそも広い面積を取っているものに沿って太陽光パネルを設置することです。
これが一番実用に近いのではないかと思います。
鉄道会社や道路公団は余った電力を売却することによって副収入を得ることができます。
こういった太陽光発電に対して、今日のテーマである太陽熱発電の方は、どうしてもまとまって広い面積が必要ですから、国土の狭い日本では実用化は難しいように思われます。
一方の家庭の太陽光パネルの方ですが、これを設置すると現在政府から補助が出るようになっています。
そして余った電気は電力会社に売ることができます(夏の暑い時にクーラーをジャンジャン掛けているような時以外はたいてい余るそうです)。
そして、これが一番大きいのですが、このパネルを設置した家庭では、自分の家で作った電気が「可愛いく」思えて、こまめに電気を消して回る習慣がついてしまうところが多いといわれています。
広島平和記念日(8.6)
昭和20年8月6日午前8時15分17秒、「エノラ・ゲイ(ENOLA
GAY)」という名前のアメリカ軍B29戦闘機が原爆「リトル・ボーイ」を投下。
まもなく高度580mで炸裂したこの原爆はこの一瞬の爆発で30万人の民間人の生命を奪いました。
アメリカの原爆開発プロジェクトは「マンハッタン計画(Manhattan
Project)」の名前で知られています。
この計画の提案者は他でもないアインシュタインです。
1939年8月2日、アルバート・アインシュタインとレオ・シラードは最近物理学の分野で「核分裂」というものが発見され、この現象を使うともの凄い破壊力を持つ兵器を作ることが可能であり、ドイツがこの兵器の開発を進めている可能性があることをアメリカ大統領宛の手紙で指摘し、ドイツに先んじてアメリカがこれを開発すべきだと主張しました。
この動きはアメリカ国内の科学者の間で広がり、アメリカ政府も動き始めます。
数々の準備を経て、やがて1942年8月13日、原爆を製造するためのマンハッタン計画がスタートしました。
その責任者に選ばれたのは後に「原爆の父」というありがたくない名前をもらうことになるロバート・オッペンハイマー(Julius
Robert Oppenheimer, 1904.4.22 NewYorkCity -
1967.02.18)でした。
プロジェクトはニューメキシコのロス・アラモスの研究施設に大勢の科学者を半ば缶詰状態にして進められました。
同年12月にはフェルミらが核分裂が連鎖反応を起こすことを確認、翌年からウランの本格的製造も始まります。
そして1945年の春頃には、夏頃までに原爆が製造できる見込みが立ちました。
当初計画はナチスドイツに対抗するために進められました。
しかし計画が進行する内にドイツが降伏してしまったため、そのターゲットはまだ戦い続けている日本に変更されてしまいました。
そして1945年7月16日、世界初の原子爆弾がニューメキシコのアラゴモードで実験的に爆発させられました。
当時これに立ち会った兵士らは核の恐ろしさを知らなかったため、「景気のいい花火だ」くらいに思って見ていました。
無論彼らはしっかり被爆していましたが、それが明らかになったのは何年も後のことです。
計画を推進してきた科学者らは、この原爆の最初の実験を見て肝をつぶします。
これほど強力な物であったとは思いもよらなかったのです。
彼らは連名でこの計画の中止を大統領に訴え出ますが、トルーマン大統領は拒否。
彼らはさらに署名を集めますが、軍に妨害されてしまいます。
そして計画は行くところまで進行してしまいました。
このアラゴモードでの実験が行われたその日の内に、日本に投下する予定の原爆は巡洋艦インディアナ・ポリスに積み込まれ、日本への攻撃基地のあるテニアン島へ輸送されました。
このインディアナ・ボリスは皮肉なことに荷物を送り届けて本国へ帰る途中、日本の潜水艦に撃沈されてしまいます。
原爆投下目標地点は広島・小倉・長崎・新潟の順に優先することが決定されました。
当初京都も目標に入っていたのですが、スチムソン陸軍長官が反対したため外されました。
これらの目標都市は原爆の破壊力がはっきり分かるよう、通常の空襲は行わなずに町並みを温存しておくことが決定されていました。
そして8月6日午前2時45分、エノラ・ゲイはテニアン島を離陸します。
目標は当初の予定通り第一ターゲットの広島と決定されました。
四国上空を通過したところで日本軍の戦闘機と遭遇します。
当然向こうは迎撃してきますが、エノラ・ゲイは関わり合いになりたくなかったため、逃げます。
日本軍機も深追いはしなかったため、やがて午前8時すぎに広島上空に到達。
8時15分17秒原子爆弾を投下しました。
この広島への原爆投下は「実験」の色合いが非常に濃いものでした。
町並みの破壊の程度を確認するために空襲をかけずに温存したことは今述べましたが、その他、アメリカは後に日本に進駐して来た段階で、広島市の生存者の健康診断を行うとともにそれと本来似た分布を示すと考えられた近隣の呉市の住民の健康診断も行っています。
この実験の犠牲になったのは日本人だけではありません。
アメリカはこの原爆を使用する前の段階としてカリフォルニア大学病院で4歳の子供を含む18人の患者に、無論本人には知らせずに、大量の放射性物質を投与し、放射能の人体への影響を調査しています。
この18人は或いはすぐに死亡したり、或いは足を切断する羽目になったりなど、深刻な放射能障害にかかっています。
マンハッタン計画を進めていたオッペイハイマーら自身も最後の辺りではかなり身の危険を感じていました。
彼は万一の時のために最低限記録に残さなければならないことを奥さんへの手紙に書きました。
ただしこの時普通に手紙に書けば検閲に引っかかってしまう為、二重にした封筒の内封筒に文章を書くという方法でこれをクリアしました。
アインシュタインが懸念していたドイツの核開発は1944年2月に断念されていました。
ドイツは日本とも協力の上原爆の開発を進めており、日本でも数十人の科学者が研究をしていましたが、こちらは1945年4月の東京大空襲で原料のウランが焼失してしまい、こちらも断念を余儀なくされていました。
ドイツは一部のウランを日本に搬送していましたが、この搬送途中の船が連合軍に拿捕されてしまい、このドイツで精製されたウランは広島原爆の材料の一部に使われてしまいました。
広島の原爆の死者は当初1万5千人と発表されました。
しかし年を追うごとにその数字は増え続け、現在では15〜20万人程度と推定されています。
ただしこの人数はあくまで原爆によりすぐに死んだ人の数であり、その後放射能障害で死んだ人を含めると30万人以上に上るものと思われます。
原爆が落とされた時、広島は50年は人が近づけない町になるのではないかと言われました。
しかし偉大な自然はその強い放射能をも浄化して大都市を復興させてくれました。
今、爆心地にたたずむ原爆ドームにはなぜか静かな空気が流れています。
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