戻る ▲トップページ
7月17日 京都祇園祭山鉾巡業、マンガの日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アスフォデリン 私は君のもの ○
イヌホオズキ 真実 ×
ギボウシ 心の落ち着き・沈静 ○
バラ(白) 尊敬・私はあなたにふさわしい ○
ヒルガオ 和やかさ・絆 ○
∞…∞ 7月17日・今日という日 ∞…∞
鈴木葉月 (1985) タレント
あさみ (木村麻美) (1984) カントリー娘。
吉村 涼 (1978) 女優
中條瑠美 (桂木 萌) (1978) タレント、モデル
小越啓史 (1975) 元COVER、Dr.
古坂和仁 (1973) タレント、底ぬけAIR LINE
TO-BU (1973) THE★SCANTY、Dr.
アレクサンダー大塚 (1971) プロレス
田中律子 (1971) 女優
北村一輝 (1969) 俳優
八木一夫 (1968) タレント、笑組
吉田真弓 (1965) 女優
神坂 一 (1964) 作家
長江健次 (1964) タレント、元イモ欽トリオ
マッチ・ニッカネン (1963) スキー、ジャンプ
加藤 淳 (1961) デザインプランナー
木原 実 (1960) 気象予報士
杉山清貴 (1959) 歌手
河合じゅんじ (1959) 漫画家
ウォン・カーウァイ (1958) 映画監督
篠塚 勝 (1958) 俳優
大竹しのぶ (1957) 女優
中村秀昭 (1956) アナウンサー
佐々木正洋 (1956) アナウンサー
三林京子 (1951) 女優
荒俣 宏 (1947) 作家、博物学者
カミラ・パーカー・ボウルズ (1947) イギリス皇族
峰岸 徹 (1943) 俳優
桑野みゆき (1942) 女優
高木守道 (1941) 野球
三浦布美子 (1941) 女優
三浦布美子 (1941) 女優
C.W.ニコル (1940) 作家
木村友衛 (二代目) (1940) 歌手
矢追純一 (1935) ジャーナリスト
ドナルド・サザーランド (1934) 俳優
淡路恵子 (1933) 女優
青島幸男 (1932) タレント、政治家
工藤栄一 (1929) 映画監督
エドワード・カーペンティア (1927) プロレス
丹部哲郎 (1922) 俳優
アントニオ・サマランチ (1920) IOC会長
堀田善衛 (1918) 作家
竹山道雄 (1903) 作家、評論家
御船千鶴子 (1886) 超能力者
トーマス・ジェームス・ウォートルス (1842) 建築家
カミーユ・コロー (1796) 画家
徳川家光 (1604) 徳川幕府将軍
○ 禁中並公家諸法度。公家の席次、摂関、大臣の任免、改元などを厳しく規制した内容(1615)
○ 明治天皇の「江戸ヲ称シテ東京(とうけい)トナスノ詔書」により江戸が東京になる(1868)
○ ポツダム会談開催(1945)▲経済白書で「もはや戦後ではない」と発表。流行語に(1956)
○ 今井通子、女性初の欧州アルプス3大北壁制覇。頂上で隊長の高橋和之と結婚して話題に(1971)
○ アメリカの宇宙船アポロとソ連のソユーズ、ドッキング成功(1975)
○ モントリオール・オリンピック開幕(1976)
○ 石原裕次郎、52歳で没(1987)
○ シューメーカー・レビー第9彗星、6日間にわたり木星に衝突(1994)
○ 第15回サッカーW杯米国大会でブラジル優勝。24年ぶり史上最多4度目(1994)
東京の日
1868(慶応4)年、明治天皇の詔勅により「江戸」が「東京」に改称されました。
漫画の日
1841年、イギリスの絵入り諷刺週刊誌『パンチ・ロンドン・シャリヴァリ』(通称「パンチ」)が発刊された。
この雑誌は1992年4月8日に財政難の為に終刊になるまで151年間発行される。
日本では、1862(文久2)年に日本語版の『ジャパン・パンチ』が刊行され、「ポンチ絵」という言葉が生まれた。
手塚治虫の命日である2月9日も「漫画の日」。
いなりの日
日本の食文化の中で多くの人に親しまれているいなり寿司を食べる機会を増やすきっかけを作ろうと、いなり寿司の材料を製造販売している株式会社みすずコーポレーションが制定。
日付はいなりのい〜なで毎月17日に。
国産なす消費拡大の日
4月17日の「なすび記念日」の17日を、毎月なすの消費を増やす日にしようと、冬春なす主産県協議会が2004年2月9日に制定した。
制憲節 (韓国)
韓国の4つの国慶日(国家の慶事を記念する日)の一つ。1948(昭和23)年、大韓民国憲法が制定されました。
茅舍忌
俳人・川端茅舍の1941(昭和16)年の忌日。
あじさい忌
1987年(昭和62年)の今日、「嵐を呼ぶ男」や「錆びたナイフ」などに主演した俳優の石原裕次郎が逝去。
彼の命日を「あじさい忌」と呼ぶのは、生前好んでいた季節の花「あじさい」にちなんで。
我に艱難辛苦を与え賜え(1578)
山中鹿之介は今日では、三日月に向って「我に艱難辛苦(かんなんしんく)を 与え賜え」と祈った武将として知られています。
それをも克服して強い武士 になるのだというものすごい意気込みがそこにあります。
(ドラえもんの愛読者の方でしたら、これがどこで出てきたかご存じですね? ^^;)
彼が仕えたのは山陰地方に勢力を持った尼子氏ですが、尼子は義久が毛利に 敗れて、国がなくなってしまいます。
鹿之介は京都に逃れ、僧になっていた 尼子一族の分家の誠久を擁立、勝久と改名させて出雲新山城に陣を敷きます。
しかしこの城は毛利の軍勢につぶされ、伯耆に入りますが、やはり毛利三兄 弟に敗れて、またまた京都へ敗走。
織田信長を頼って再起を図ります。
そして、因幡で再々度尼子再興の軍を起こしますが、やはり毛利三兄弟の吉川元 春に負けました。
しかしそれにもめげない鹿之介は今度は羽柴秀吉に従って戦績をあげ、褒美に上月城をもらいます。
勝久をこの城に迎えてやっとこれでお家再興もなった、と思ったのもつかのま、またまたこの城が毛利勢に囲まれて落城。
勝久 は自害し、鹿之介も今度はとうとう捕らえられて処刑されてしまいました。
時に天正6年(1578)7月17日。激動の人生でした。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
▲このページの先頭へ戻る
戻る ▲トップページ