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7月 6日 サラダ記念日、公認会計士の日(日本公認会計士協会1991)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
ツユクサ 尊敬 ○
ハマユウ あなたを信じます・汚れがない ○
ヒマワリ あこがれ・熱愛・あなたを見つめる
愛慕・光輝・敬慕・敬老の日・情熱・輝き ○
∞…∞ 7月 6日・今日という日 ∞…∞
尾形沙耶香 (1985) タレント
村西利恵 (1980) アナウンサー
井上芳雄 (1979) 俳優
矢野 東 (1977) ゴルフ
オカモト"moby"タクヤ (1976) Scobie Do、Dr.
50セント (1976) ミュージシャン
宝積有香 (1975) タレント
小倉隆史 (1973) サッカー
DOBONミッチー (1972) パフォーマー、MC
三沢 肇 (1970) アナウンサー
大西結花 (1968) タレント
とよた真帆 (1967) 女優
田中知之 (1966) ミュージシャン、Fantastic Plastic Machine
角田秀行 (1965) TUBE、Bass
木戸次郎 (1965) 株式評論家
太田光代 (1964) タイタン社長、元タレント
旭富士正也 (1960) 相撲
古田たかし (1958) 元Dr. Strange Love、Dr.
大西赤人 (1955) 作家
神江里見 (1950) 漫画家 「弐十手物語」
諸星大二郎 (1949) 漫画家 「妖怪ハンター」
崔 洋一 (1949) 映画監督
瀬川瑛子 (1948) 歌手
吉岡 忍 (1948) 作家
高峰圭一 (1946) 俳優
シルベスタ・スタローン (1946) 俳優
ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(Jr.) (1946) アメリカ大統領
長塚京三 (1945) 俳優
藤 猛 (1940) ボクシング
桐島洋子 (1937) 作家
山本迪夫 (1933) 映画監督
相川 浩 (1933) アナウンサー
遠藤 実 (1932) 作曲家
ロバート・ダンハム (ダン・ユマ) (1931) 俳優
都筑道夫 (1929) 作家
荒井欣一 (1924) UFO研究家、不動産業
庄司永建 (1923) 俳優
和田静郎 (1922) 美容体育研究家
ミヤコ蝶々 (1920) 女優、タレント
伊豆 肇 (1917) 俳優
佐藤紅緑 (1874) 作家
鈴木禎次 (1870) 建築家
マクシミリアン (1832) メキシコ皇帝
ニコライ1世 (1796) ロシア皇帝
○ 記録上最古の富士山噴火(781)
○ 浅間山大噴火。死者3万5千人以上。天明の大飢餓の要因に(1783)
○ パスツール、狂犬病ワクチンを開発(1885)
○ 笹子トンネル貫通(1902)
○ 日本、オリンピックに初参加(1912)
○ アメリカの制度にならって「公認会計士法」制定(1948)
○ 東京・谷中の五重塔が心中放火で全焼(1957)
○ 田中角栄が54歳で史上最年少で総理となる(1972)
○ 兵庫県神戸の高校、校門圧死事件(1990)
○ 川崎市で全国初の市民オンブズマン制度(1990)
公認会計士の日
1948年(昭和23年)のこの日、公認会計士に関する法律が制定されたことを記念して、1991年(平成3年)に日本公認会計士協会が制定。
記念日の日
日本記念日学会が1998(平成10)年に、毎日のようにある記念日にもっと関心を持ってもらおうと制定。
「記念日」という言葉を一般に定着させた「サラダ記念日」に因むもの。
当初は、「祝日法」が公布施行された7月20日だったが、2000(平成12)年から7月6日に変更された。
ゼロ戦の日
1939年(昭和14年)に零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の試作機の試験飛行がはじまった。
ピアノの日
1823年(文政6年)にオランダから軍医としてやってきたシーボルトがはじめて日本にピアノを持ちこんだ。
サラダ記念日
1987年(昭和62年)に俵万智が発表した歌集『サラダ記念日』(河出書房新社)の一首から生まれた記念日。
スーパーやドレッシングのメーカーなどが商品の売り上げを伸ばそうとPRを行っている。
独立記念日(マラウィ)
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
グロムイコ(1909-1989)
1909年7月6日、極めて長期間にわたりソ連の外相を務めた「ミスター・ニェット」ことアンドレイ・アンドレイビッチ・グロムイコがミンスクに生まれました。
1934年ミンスク農業大学卒業、科学アカデミー経済研究所を経て、1939年に外務省入り。
アメリカ局次長・同局長・駐米大使館参事官を経て第二次世界大戦中の1943〜1946年に駐米大使。
ここでアメリカとソ連の関係強化に尽力しました。
1946年から1948年に掛けては国連の安全保障理事会代表を務め、この間何度も拒否権を発動。
数多くの提案を葬り去りました。
「ミスターニェット」の異名はこの時に付いたものです。(ニェット:нетはロシア語のノー)
その後対日講和会議ソ連代表、駐英大使などを経てフルシチョフ時代の1957年に外相就任。
以来1985年にシュワルナゼ(現グルジア大統領)にその任を譲るまで28年間に渡り、冷戦時代の困難なソ連の外交を一手に管理しました。
その間にソ連のトップはフルシチョフ(56-64)からブレジネフ(64-82)、アンドロポフ(82-84)、チェルネンコ(84-85)、ゴルバチョフ(85-91)と変わっていっています。
1973年には党政治局員、外相を辞めた1985年から1988年までは最高幹部会議会議長も務めました。
1989年7月2日死去。
1991年のソ連崩壊を見ずにあの世へ旅だってしまいました。
彼の外交手腕の中で最も高く評価されているのはブレジネフ時代の1960年代後半から1970年代に掛けて。
アメリカのキッシンジャー(報道官→補佐官→国務長官)と長期間に渡る厳しい交渉を続け、緊張緩和(デタント)への道を開いたことでしょう。
キッシンジャーは個人的にもグロムイコの高潔性を尊敬していたようです。
そのグロムイコに支えられて長期間トップの座を維持したブレジネフが亡くなったあと、ソ連の書記長はアンドロポフ、チェルネンコ、と長老が短期間務めますが、チェルネンコの後任について保守派が若手で穏健なロマノフと手を組んでグリシンを推したのに対してグロムイコはもう一人の若手で革新的なゴルバチョフを支持。
これによりゴルバチョフ政権が誕生してソ連は何十年にもわたる停滞の時代から脱却することになります。
このグロムイコ主導による一種の政変劇が無かった場合、ひょっとすると、ソ連ではクーデターが起きて共産政権が倒れ、すさまじい内戦の時代に突入して(今よりもっと)多くの血が流されていたかも知れません。
グロムイコのもうひとつの大きな功績です。
公認会計士の日(7.6)
1948年(昭和23)7月6日「公認会計士法」が制定されました。
経理関係の話に疎い方は、公認会計士も税理士もごっちゃかも知れませんがその付近に少しだけ知識のある人たちの間での一般的な俗なランキングでは、公認会計士は弁護士と並ぶ難資格で雇うのも高い。
税理士は司法書士程度?で比較的安く頼める。
しかし書類を公認会計士が作っていれば信用されるが、税理士ではあまり信用してもらえない、……といった感覚で捉えている人が多いようです。
実際には税理士が担当するのは税金の申告に関する相談や申告書類の作成代行までであって、公認会計士が担当するのは、企業の経理の監査や助言、財務計画の立案などの企業のコアな部分に関与した仕事になります。
両者は本来、かなり違う傾向の職務なのですが、概して一般的な感覚ではごっちゃです。
実際問題として、自分の会社には経理ができるスタッフが全然おらず大量の領収書の山を段ボールに入れて渡して、公認会計士側でひたすらその伝票起こしからやっている、などという状況の小企業は多数あります。
こうなるとある意味不正経理などあり得ませんが…
公認会計士の本来の業務は企業の経理が適正に行われているかをチェックすることにあります。
日本では1908年(明治41)に日糖事件という巨大疑獄事件が起きて、国会議員を含む多数の逮捕者が出て不正経理が問題になったのを機に、会計士制度の設置をもとめる声が強まり、国会にも法案が提出されましたが、時期尚早との声も保守派の中に強く、法案は何度も修正して提案しなおされたものの、どうしても国会を通すことができませんでした。
国会のふがいない姿勢に苛立った経済界では1921年に自主的に社団法人日本会計士会を設立し、専門学校できちんとした経理を学んだ人に資格を与えて企業経理の監査の必要性を世に訴えていきました。
しかし当時は会計士は国家資格ではありませんでしたから権威も弱く、またこのような監査を嫌う企業も多数ありました。
しかし終戦後、日本に外国の投資家が多数入ってくるようになると、きちんとした監査が行われていない企業は信頼できないという声が外国から強まり日本の国会はこの外圧によってやっと重い腰をあげて、1948年公認会計士法の制定にたどりついたものです。
日本の公認会計士制度は基本的には欧米の制度をまねています。
この資格を取るのはひじょうにたいへんで、大学の教養課程程度を終了していれば一次試験は免除されますが、二次試験の短文式をパスして論文式を受けられ、論文式をパスしてやっと会計士補の資格がとれます。
それで会計士事務所に勤めて実務経験を積んでから、やっと三次試験を受けて公認会計士になれるという仕組みになっています。
公認会計士が5人以上集まって設立する法人を監査法人といいます。
監査法人を構成する個々の会計士を社員といいます。
大きな監査法人の代表社員ともなれば、その発言は大企業の社長以上に注目されます。
監査法人というのは1965年の山陽特殊製鋼の倒産をはじめとする高度経済成長期の初期の様々な危機に対応して大企業の監査は個人では無理であるとして、大企業の監査をするために1967年に設けられた制度です。
監査法人は企業活動の活発化にあわせて巨大企業の監査ができるようにみずから合併によって巨大化する傾向があり、一時は1000個ほどといわれた日本の監査法人は現在150ほどにまとまっています。
特に日本の大きな企業は現在、次の四大監査法人のどれかに監査を依頼するのが普通になっています。
監査法人トーマツ 中央青山監査法人 新日本監査法人 あずさ監査法人
アメリカのエンロンの不正経理問題は公認会計士の世界にも大きな衝撃波となって伝わりました。
企業が倒産した場合に株主は有限責任ですが、不正な経理を見逃していた場合に、公認会計士は無限責任となります。
あのような巨大な不正に関わってしまった会計士は単に会計士の資格を失うだけでは済まないのです。
このためエンロン事件以降、日本国内でも監査は厳しくおこなわれる傾向が強まり、これまではある程度企業側の圧力に負けて不適切な経理処理を敢えて見ぬふりをしてきた監査法人側も強行にそのような処理に反対するようになってきました。
りそな銀行の経営破綻や最近のUFJ銀行の置かれた状況にもこのような背景があります。
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