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7月 3日 波の日、通天閣の日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
ケシ(白) 忘却・眠り ○
タツナミソウ 私の命を捧げます ○
マツバギク 心広い愛情・怠惰・無為
のんびり気分・愛国心・勲功 ○
∞…∞ 7月 3日・今日という日 ∞…∞
須藤茉麻 (1992) Berryz工房
伊藤涼太 (1990) ゴルフ
稀勢の里寛 (1986) 相撲
硲 陽平 (1982) タレント、イシバシハザマ
西野亮廣 (1980) タレント、キングコング
小橋めぐみ (1979) 女優
武田和歌子 (1978) アナウンサー
野口みずき (1978) マラソン
マツキタイジロウ (1975) Scobie Do、G.
志倉千代丸 (?) 音楽プロデューサー
森下涼子 (1973) 女優
永島由子 (1970) 声優
岡村隆史 (1970) タレント、ナイティナイン
大久保秀昭 (1969) 野球
林家彦いち (1969) 落語家
伊藤聡子 (1967) キャスター
橋本真也 (1965) プロレス
筒井 巧 (1964) 俳優
水沢めぐみ (1963) 漫画家 「姫ちゃんのリボン」
トム・クルーズ (1962) 俳優
松村栄子 (1961) 作家
石川浩司 (1961) たま、Dr.
薗部博之 (1961) ゲームプロデューサー
こだま愛 (1961) 女優
渡辺 祐 (1959) 編集者
佐藤佑介 (1959) 俳優
我王銀次 (1959) 俳優
菊地康二 (1956) 俳優
マット・キーオ (1955) 野球
鈴木孝政 (1954) 野球
ロザンナ・ザンボン (1950) 歌手、ヒデとロザンナ
原田真人 (1949) 映画監督
葵 司朗 (1947) 歌手
ミッシェル・ポルナレフ (1944) ミュージシャン
池乃めだか (1943) タレント
つのだじろう (1936) 漫画家 「うしろの百太郎」
戸田奈津子 (1936) 映画字幕翻訳家
皆川睦雄 (皆川睦男) (1935) 野球
引田天功 (初代) (1934) マジシャン
真鍋 博 (1932) イラストレーター
深作欣二 (1930) 映画監督
渡辺一雄 (1928) 作家
吉野秀雄 (1902) 俳人
レイモンド・エイムズ・スプルーアンス (1886) 軍人
フランツ・カフカ (1883) 作家
徳川家継 (1709) 徳川幕府将軍
○ 小野妹子、随に派遣され(607)
○ ザビエル、鹿児島に上陸、布教(1549)
○ 松尾芭蕉の「猿蓑」刊行(1691)
○ 大阪市の天王寺公園の西に歓楽街「新世界ルナパーク」がオープン(1912)
○ 第四回日露協約調印(1916)
○ テレビ、アメリカで発売(1928)
○ 東京・浅草に国際劇場、開場(1937)
○ 東亜国内航空YS11、函館北方の山腹に激突、68名死亡(1971)
○ 女性10人を含む「イエスの方舟」の千石イエスら26人を熱海で発見(1980)
○ 同性愛者から原因不明の癌を発見、とNYタイムズが報道。エイズの発見(1981)
○ 米イージス艦、戦闘爆撃機F14と誤認しイランのエアバス撃墜(1988)
通天閣開業記念日
1912年(大正元年)のこの日、通天閣が開業した。当時の高さは64m。
ソフトクリームの日
1951年(昭和26年)に明治神宮外苑で行われた米軍主催のアメリカ独立記念日を祝うカーニバルでソフトクリームが販売されたことによる。
波の日
「7」「3」を「な」「み」の語呂合わせから。
サーフィンやウインドサーフィンなどの波を使ったスポーツの愛好者が、波に感謝しながらボードに乗る日としている。
聖ペドロ祭(コロンビア)
独立記念日(ベラルーシ)
第二次大戦中に白ロシア共和国(1991年にベラルーシ共和国に国号変更)の首都ミンスクがドイツ軍から解放された日。
1995年までは、1990年に共和国主権宣言をした7月27日を独立記念日としていましたが、1996年の国民投票により変更されました。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
遣隋使(607)
推古天皇15年(607)7月3日、朝廷は小野妹子を随に派遣しました。
日本書紀で遣隋使が記述されているのはここが最初ですが、中国側の記録(隋書東夷伝)ではこれは2度目で、最初は推古天皇8年(600)とされています。
従来日本は朝鮮中心の外交をしていたのですが、これを境にして中国を外交の中心に据えることになります。
この重大な方針転換に関することで(隋書東夷伝を信用した場合)最初の派遣の記述が欠落しているというのは不思議なことです。
もしかしたら推古天皇8年の派遣というのは事前調査か何かのつもりで、日本としては推古天皇15年が最初の正式の派遣ということだったのかも知れません。
なお、推古天皇8年の時は日本は朝鮮半島での動乱に関与して出兵をしている最中でした。
確かにそういう時に今まで付き合いのなかった(100年前には倭の五王が宋に朝貢しているが遙か昔の話です)中国に使者を送るのも変な気はします。
また推古天皇8年の時の隋の皇帝は文帝ですが、15年の時はその文帝を倒して皇位にあがった煬帝の時代です。
この時、使いを派遣した「倭王・阿母多利思比狐(あめのたりしひこ,聖徳太子のことか?)」は小野妹子に煬帝宛の次のような有名な手紙を託していました。
『日出處天子致書日没處天子無恙云々』(隋書東夷伝・原文通り)
(日いづる所の天子、書を日ぼっする所の天子に致す。つつがなきや?...)
これを読んだ煬帝は激怒しますが、そのまま妹子をとめおき、翌年春裴世清らを付けて日本に帰します。
そして日本側も彼らを歓迎し、その帰国の際には妹子と他に何人かの留学生をつけて中国に派遣しました。
これより日本と隋の交流が始まり、中国の進んだ文化が直接日本に入ってくるようになるとともに、また日本の東アジアにおける外交上の地位も著しく向上しました。
この方針を進めた聖徳太子の外交政策は大成功であった訳です。
日本書紀には裴世清らを小野妹子が送っていく時の天皇(推古天皇,聖徳太子の伯母)の言葉として「東の天皇が西の皇帝に申し上げます。……お変わりはないでしょうか?」という記述が出てきます。
これぞまさに小野妹子が持っていった文書の内容にそっくりです。
さて、ところで煬帝が怒ったのは2点あります。
ひとつは日本を「日出處」と言い中国を「日没處」と言ったことで、まるで隋が落日の国のような印象を与えたこと。
もうひとつは日本の王に「天子」という、それまでは中国の皇帝にしか使われていなかった言葉を使っていたことです。
むろん抜け目のない聖徳太子のことですから煬帝が怒るのは承知の上で、これからは対等な関係で行かせてもらいますよという示威をしたのでしょう。
それまでは中国と交際していたのは中国から見れば属国同然の新羅・百済・高句麗などで、倭国はその新羅や百済と付き合っていた訳ですから、中国からすると属国の属国のようなものと思われていたことは想像に難くありません。
しかしこの時期朝鮮では動乱が続き、北方でもきなくさい動きがあります。
隋自体が出来てからまだ20年ほど。
しかも煬帝自身、中国の統一者である父を殺して皇位を手に入れた立場上、国内にも火種はあり、そういう時に隋が出来たのと同じ頃に国内の混乱が落ち着き安定した政権を維持している日本と付き合うことは、決して損にはならないという計算が成立したものと思われます。
故に煬帝はこの無礼な新参者を手厚くもてなしたのでしょう。
この遣隋使を巡る謎の一つに、煬帝から小野妹子を通じて倭王に宛てられた親書を百済で奪い取られた、という記述が日本書紀にあることです。
日本書紀ではそれを群臣が責めたが、推古天皇は中国からの客人も来ていることだし、妹子を罰する訳にはいかないといって妹子に一切責任を取らせていません。
しかもこんな大失敗をした人物を更に翌年また隋に送り出すのですから、あまりにも寛容が過ぎる印象があります。
またそれ以前の問題として、日本人だけならいざ知らず、中国からも十数人の人間が派遣されてきていて、当然彼らを警護する兵も相当の数あったと思われるのに、百済人に親書を取られた、という話は一体何なのだ?という感じもあります。
そこで、実は親書は奪われていなかったのだが、群臣の中で朝鮮系の人たちの勢力が大きく、彼らはそもそも中国に使いを派遣することにも反対していたので、彼らへの対策として、親書の内容は明かさず、そのため途中で奪われてしまったことにしてしまった、という説を述べる人もいます。
だからといって奪われたことにするというのは少し無茶な気もしますが、確かにここは日本書紀の記述をそのまま信用はできないかも知れないと思わせられる箇所です。
カフカ(1883-1924)
カフカというと「変身(Die
Verwandlung)」。誰もがこの小説の出だしを知っていて、実際に結末まで読んだことのある人は恐らく500人に1人くらいなのではないかと思います。
とても短い作品なのですが不思議ですね。
安部公房などに慣れている人にはそれほど難しい作品ではありませんが普通に読むと、訳が分からないか、気味が悪すぎるかで、途中で中断してしまうことでしょう。
少なくとも小学生以下の内にはあまり読ませたい作品ではありません。
カフカ(Franz Kafka)は1883年7月3日、チェコ(当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国)のプラハに生まれました。
当時のプラハでは住民の多数を占めるチェコ系の人と支配者関係のオーストリア系(ドイツ系)の人との対立が激しかったようですが、元々ユダヤ系のカフカはプラハではドイツ系の学校に入っており、彼自身の作品も、ほとんどがドイツ語で書かれたようです。
但し彼はドイツにはあまり行っておらず、生涯のほとんどをプラハの近くで過ごしています。
はじめ公務員になるのですが30歳の頃からは体をこわして療養している時間のほうが長い生活。そして1924年6月3日、わずか40歳でこの世を去りました。生涯を通しての最大の親友であったマックス・ブロートの尽力で生前にも幾つかの作品を出版していますが、全く売れていません。
彼の評価が高くなったのは戦後のことのようです。
初代引田天功(1934-1979)
最近何かと話題のプリンセス・テンコーの師であり、「大脱出」シリーズ等大仕掛けの手品で著名な初代・引田天功は1934年7月3日、神奈川県横浜市で生まれました。
本名は引田功(いさお)です。(疋田説あり)
日大工学部を卒業。
在学中に松旭斎天洋に師事して手品を学びました。
(日本のマジックを手妻から手品へと大発展させたのは「魔術の女王」といわれた松旭斎天勝とその師である天一です(いづれも初代)。
この天洋は天一の甥で、天一が考案して世界的に有名になったサムタイ(thumb
tie)のマジックを継承しました。
天勝・2代目天一とこの天洋を天一の3大弟子と数えてよいようです。
手品道具の店テンヨーを1931年に開いています。)
少なくとも当時、手品師というものは一般に師の一座に所属して助手を長年務め、やがて実力を認められたら一人立ちする、という徒弟制度的な雰囲気の中にあったのですが、天功はそういったコースを辿らず、大学卒業後すぐ
にNHKの「魔法の小箱」にレギュラー出演。たちまち人気者となります。
こういう経歴が一部の保守的な人の反感を買い、そういう流れは現在の2代目天功にも引き継がれていると言わざるを得ないところがあります。
天功はこの人気を背景に1960年「東京魔術団」を結成。以後10年間にわたって団長を務めます。
1964年には女優の小桜京子(柳家金語楼の姪で駅前シリーズなどに出演した喜劇女優)と結婚。
1970年離婚しますが、一人娘の小桜有美(声優)をもうけています。
(少女隊の引田智子の母親が分からなかった。)
「大脱出シリーズ」の最初は1963年の「水槽大脱出」。
しかし何といっても1968年から1975年まで7回にわたって行われた日本テレビの特番での大仕掛けな脱出マジックが彼の名前を高めました。
特に1968年最初の特番で実行した「海中大脱出」は、手錠をかけ箱に入れられて水深20mの海に沈められた状態から脱出するというもので、天功が尊敬していたアメリカの手品師ハーリー・フラーニが失敗して命を落としたという危険なものでした。
(これは都市伝説であり実際はフラーニは失敗していない。)
1977年にもまた新たな大脱出の特番を計画していましたが直前に心筋梗塞でダウン。
結局この特番は前年5月に弟子にしたばかりで「手品もするアイドル歌手」として売り出し中だった朝風まりが代役を務めました。
(この時は手品のネタが天功の体重に合せて作られていた為体重の軽いまりでは作動せず、大変だったらしい)その後闘病生活を続けるも回復せず1979年12月31日死去。
まだ45歳。
プレイボーイとして多くの浮き名を流し、お金の管理もあまりうまくなくて2億円の借金を残して、しかしある意味では天功らしい死に方だったと言えるかも知れません。
天功は自分以外に一座の中にスターを作ることを嫌う性格であったため、彼の死後誰が2代目を襲名するか明確でなく、結果的に弟子間でかなり激しい争いがありました。
これを最終的に制したのがその最後の特番の代役・朝風まりで、彼女が1980年12月「2代目天功」を襲名。
襲名後ほぼ最初のテレビ出演で懐かしい「水槽大脱出」をやってみせます。
このとき彼女は今までにない大胆な衣装で登場。
新しい時代の到来を予感させてくれました(こういう衣装は小道具を隠しにくい)。
その彼女は、現在「プリンセス・テンコー」のニックネームで親しまれ、日本とアメリカを舞台にイリュージョニストとして盛んに活動しています。
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