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6月18日 海外移住の日(国際協力事業団,1966)、頭髪の日(毎月)、米食の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
オモダカ      高潔・信頼            ○
タイム       積極的・行動力・活動的      ×
タチアオイ     大望・野心・単純な愛・熱烈な恋
          平安・威厳・高貴・豊産・野望・大志○

∞…∞ 6月18日・今日という日 ∞…∞

後藤理沙   (1983)  女優
ゆりん   (1981)  タレント
小林由美子   (1979)  声優
河野明子   (1978)  アナウンサー
久保竜彦   (1976)  サッカー
西沢明訓   (1976)  サッカー
KREVA   (1976)  KICK THE CAN CREW
隆の鶴伸一   (1976)  相撲
JP (ジェルミー・パウエル)   (1976)  野球
後藤輝基   (1974)  タレント、フットボールアワー
大友 進   (1974)  野球
細川直美   (1974)  女優
中西美恵子   (1974)  アナウンサー
かかずゆみ   (1973)  声優
仁平 馨   (1971)  野球
あいだもも   (1970)  AV女優
曽田正人   (1968)  漫画家 「め組の大吾」
吉住 渉   (1963)  漫画家 「ママレード・ボーイ」
三沢光晴   (1962)  プロレス
タージン   (1962)  タレント
逆鉾好昭   (1961)  相撲
長崎俊一   (1956)  映画監督
藤真利子   (1955)  女優
桂木葉子 (増田葉子)   (1955)  タレント
野中ともよ   (1954)  アナウンサー、ジャーナリスト
ペマ・ギャルポ   (1953)  国際情勢コメンテーター
三田誠広   (1948)  作家
大谷和夫   (1946)  SHOGUN、パーカッション、Key.
粟津 号   (1945)  俳優
畠山 麦   (1944)  俳優
福沢幸雄   (1943)  レーサー
ポール・マッカートニー   (1942)  ミュージシャン、元ビートルズ
ルー・ブロック   (1939)  野球
大槻義彦   (1936)  大学教授
横山光輝   (1934)  漫画家 「鉄人28号」「三国志」
小鹿 番   (1932)  俳優
芦野 宏   (1927)  シャンソン歌手
和田悟朗   (1923)  俳人
ドナルド・キーン   (1922)  大学教授
レイモンド・ラディゲ   (1903)  詩人、作家
古賀春江   (1895)  画家
エドワード・モース   (1838)  動物学者
梁川星巌   (1789)  漢詩人
後花園天皇   (1419)  天皇
浄業   (1187)  僧侶
二条天皇   (1143)  天皇

 ○ ジャンヌ・ダルク、パテーの戦いに勝利(1429)
 ○ ワーテルローの戦い(1815)
 ○ 日本からの移住者781人がブラジルのサントス港に到着。本格的な海外移住がスタート(1908)
 ○ 沖縄戦でひめゆり部隊自決(1945)
 ○ 極東国際軍事裁判の米側主席検事、天皇を戦争犯罪人とせずと言明(1946)
 ○ 豊田商事会長・永野一男刺殺(1985)

海外移住の日
1908年(明治41年)のこの日、ブラジルへの第1回移民158家族、781人が笠戸丸でサントスに上陸したことを記念して1966年(昭和41年)に国際協力事業団が制定した。

考古学出発の日
1877(明治10)年、大森貝塚を発見・発掘したアメリカの動物学者、E.S.モース博士が来日した日。
モース博士が汽車で横浜から新橋へ移動途中に貝殻が堆積している箇所を発見(6月20日)し、後日発掘調査が行われることとなった。
これが日本で初めて行われた考古学の科学的な発掘調査であり、日本の考古学の出発点となった。

ハンセン病を正しく理解する週間
根強く残るハンセン病に対する誤解や社会的偏見を正し、正しい認識を持つための週間。
ハンセン病は遺伝する病気ではなく伝染力の極めて弱い病原菌による慢性の感染症で、日常生活において感染することは極めて少い。
すでに医学の発達により他の感染症と同様に完治する病気である。

国旗の日(6月第3月曜日・アルゼンチン)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


海外移住の日(6.18)
明治41年(1908)6月18日、日本から初の集団移住者781名を乗せた笠戸丸がブラジルのサントス港に到着しました。
神戸を出発して以来2ヶ月の航海の後のことでした。

新天地に色々な夢を見て入植した人たちは厳しい現実に辛い生活を送りながら、あるものは挫折しあるものは成功して農場主になりました。

笠戸丸は6000総トンで平均速度約10ノット。
船足は遅いが長距離航行に優れており、明治時代後期から昭和初期にかけて、外国航路や内台航路(当時)用の船舶として用いられた。
ハワイやブラジルへ移民が開始された時に移民船として使われたことでもよく知られています。
(移民用としては、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切って使用していました。
最大1000人程度の移民を収容できたようです)

1900年(明治33年) - イギリスの造船会社(Wigham Richardson & Co.,Newcastle,England )で建造、竣工され、ロシアの船会社(Russian Volunteer Fleet Association)で貨客船Kazan号として使用された。

1905年(明治38年) - 日露戦争中、旅順港内で被弾し沈座していたのを日本海軍が浮揚し捕獲。
日本海軍に移籍し「笠戸丸」と改名。

1906年(明治39年) - 海軍省より東洋汽船が運航委託を受け、ハワイへ移民646名を運ぶ。

1908年(明治41年) - 皇国殖民会社(社長:水野龍)の依頼によりブラジルへ第一回移民781名を運ぶため、サントス港に向け神戸港を出航。

その後漁業工船に改造され、漁業会社を転々とします。
1910年(明治43年) - 大阪商船が内台航路(神戸 - 門司 - 基隆)に使用するため傭船。

1912年(明治45年) - 海軍省から大阪商船に払い下げ。
同社の南米航路に使用される。

1930年(昭和5年) - 大阪商船から個人に売却され、いわし工船に改造。

1931年(昭和6年) - 東洋工業に売却される。

1932年(昭和7年) - フィッシュ・ミール工船に改造。

1934年(昭和9年) - 新興水産に売却され、後に太平洋漁業に移籍する。

1939年(昭和14年) - 日本水産に移籍、後に日本海洋漁業の所有となる。

1945年(昭和20年) - ソ連軍により捕獲、乗組員を下船させ、数名の病人をのせたまま爆破。
最後は、貨客船として一番はじめに籍を置いた国であるソ連の手によって、太平洋戦争終結直前カムチャツカ沖で爆沈されるといった数奇な運命をたどりました。
また、戦争後も乗組員はシベリア抑留とりました。


当時の第一回の笠戸丸移民の最後の生存者の中川トミさん。
1997年に天皇皇后両陛下がブラジルを訪問なさった際に、歓迎式典に招かれていました。

中川トミさんは100歳の誕生日祝いを前に自宅で大往生されました。
数日前の息子さんの結婚65年記念日にも参加カラオケを4曲も歌ったとのこと。
誰もが2008年の日本移民100周年のお祝いまでは元気に過ごして欲しいと願っていましたが天寿を全うされました。

NHKでも放送され、日本の各紙でも取り上げられる有名人ですが、神戸新聞の正平調にも取り上げられておりました。

お子さんたちは日本に出稼ぎに来ていると1997年の時には報道されていました。




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