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6月 7日 母親大会記念日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アサギリソウ 光・脚光・喝采・慕う心 ○
クチナシ とてもうれしい・幸福者
私はあまりにも幸せです・喜びを運ぶ
清潔・清浄・夢中・優雅 ○
シラー 志操堅固・辛抱強さ・多感な心
悲しい・哀れ・不変 ○
ニガヨモギ 冗談・からかい・平和 ○
バラ(黄) 君のすべてが可憐・嫉妬・薄れ行く愛・美○
∞…∞ 6月 7日・今日という日 ∞…∞
カレン・ロバート (1985) サッカー
浅見れいな (1983) 女優
塩谷 瞬 (1982) 俳優
河野英喜 (1980) カメラマン
松田 純 (1979) タレント
ジュン (藤本 順) (1979) KING BOTHERS、Dr.
矢部美穂 (1977) タレント
アレン・アイバーソン (1974) バスケットボール
穴井夕子 (1974) タレント
板橋 恵 (1973) バレーボール
本杉美香 (1972) タレント、C.C.ガールズ
揚田・あき (あがりた亜紀) (1972) タレント
カフー (1970) サッカー
大神友明 (1970) サッカー
永島浩之 (1967) 元いんぐりもんぐり
阪倉裕二 (1967) サッカー
田中滋実 (1966) アナウンサー
徳永善也 (1964) 元チェッカーズ、Dr.
田中澄子 (1964) 女優
三戸華之介 (1962) 元アンジー、Vo.
玉元妙子 (二見妙子) (1962) 元フィンガー5
つだ♀まさごろ (1962) 画家、詩人、ミュージシャン
白井一幸 (1961) 野球
岡崎 郁 (1961) 野球
手塚理美 (1961) 俳優
ジェームズ・パチョレック (1960) 野球
荒木飛呂彦 (1960) 漫画家 「ジョジョの奇妙な冒険」
小林武史 (1959) 音楽プロデューサー
川口雅代 (1959) ディスクジョッキー、声優
プリンス (1958) 歌手
薩洲洋康貴 (1957) 相撲
若原 瞳 (1954) 女優
ロベルト・マルカーノ (1951) 野球
岸部四郎 (1949) タレント、俳優
越本隆志 (1943) ボクシング
中島啓之 (1943) 競馬騎手
トム・ジョーンズ (1940) 歌手
清水マリ (1936) 声優
原田一夫 (1932) 声優
若山セツ子 (1929) 女優
南原宏治 (1927) 俳優
十返千鶴子 (1921) 評論家
脇田 和 (1908) 画家
渋谷天外 (二代目) (1906) 俳優
梅謙次郎 (1860) 司法学者
ポール・ゴーギャン (1848) 画家
エミール・ボワソナード (1825) 法律家
梅田雲浜 (1815) 武士
○ 仏軍艦が長崎に来航、漂流民保護を要求(1846)
○ 日清両国が互いに朝鮮出兵を通告する(1894)
○ 日本軍が台北を占領、台湾の独立運動を鎮圧(1895)
○ ノルウェーがスウェーデンからの分離を宣言(1905)
○ 世界最小国のバチカン市国誕生(1929)
○ 計量法公布(1951)
○ 第一回日本母親大会開催(1955)
(旧)計量記念日
通商産業省(現在の経済産業省)が1952(昭和27)年に制定。
1951(昭和26)年、それまでの「度量衡法」を全面的に改正した「計量法」が公布された。
翌1952(昭和27)年3月1日から施行され、1959(昭和34)年1月1日からは大部分が尺貫法からメートル法に変更された。
1993(平成5)年11月1日の「計量法」の全面改正にともない、現在の計量記念日は11月1日に変更された。
母親大会記念日
1955年(昭和30年)に東京の豊島公会堂で第1回母親大会が開催されたことによる。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
ゴーギャン(1848-1903)
1848年6月7日、タヒチを描いたことで知られる画家ポール・ゴーギャンがパリのノートル=ダム・ド・ロレット街に生まれました。
この年フランスは2月革命の動乱の中にありました。
12月にはナポレオン3世が大統領に就任。
共和派のジャーナリストであったポールの父は迫害を避けるためペルーに渡ります(父は途中で死亡)。
ポールは7歳の時までこの南米の地で過ごすことになります。
このことが彼の後の生き方に大きな影響を与えました。
1855年祖父の死亡に伴い帰国、オルレアンの叔父のもとで中学・高校を卒業、その後水夫になって南米航路に乗船。
この頃母を亡くしています。
その後兵役を経て、株式の仕事に従事、人に勧められて23歳頃から絵を描き始めました。
28歳の時にサロンに初入選。
その後次第に印象派に傾倒していき、自らも描くと同時にコレクションも始めます。
1882年金融恐慌があり、ゴーギャンは株式の仕事を断念。
画家として独立しようとして妻の実家のあるコペンハーゲンに移りますが、開いた個展は散々。
その後今までのコレクションを切り売りして生活する羽目になりました。
1885年ゴーギャンは妻の実家の人々とあまり行っていなかったこともあり、息子だけを連れてパリに戻ります。
しかし苦しい生活は相変わらずでした。
1888年にはゴッホとともにアルルで生活しますが、ゴッホの耳切事件の後、別れてパリに戻ります。
そしてさらなる迷いの時期を経て、1891年、突如としてタヒチに渡りました。
この南太平洋の島で、ゴーギャンは現地の13歳の少女を愛人にして、傷心のまま制作を続けます。
彼はこの南洋の文化が気に入りましたが、やはりお金の問題で行き詰まってしまいます。
そこでいったん1893年帰国。
しかし何らかの事情が好転する筈もありませんでした。
解決を見いだせないまま1895年再びタヒチへ。
そして今度は14歳の少女を新しい愛人にして暮らし始めます。
ゴーギャンはこのタヒチにもだんだん西洋文化が流入してくることを嫌い、更に1901年タヒチから1500km北東のヒヴァ・オア島に移ります。
ここが彼の最期の地になりました。
生活苦の中、現地の人たちともいさかいを起こしたりしつつ、1903年5月8日死去。
現地で埋葬されました。
彼は株式マン時代は趣味で絵を描くことで幸福な生活を送っていましたが、画家一本になってからは、とにかく不遇な暮らしをしており、本人も心の迷宮に迷い込んだまま、どうにもそこから抜け出すことができませんでした。
そんな中、心の奥底から絞り出すようにして描いた不朽の名作が『我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?』(1897)でしょう。
彼はこの直前に自殺を決意、翌年には一度自殺未遂を起こしています。
画面は暗く、彼の苦悩がそのまま叩きつけられているかのようです。
仏像のような青い像、林檎のような果実をもぎる人、食べる人、寝ている子供と女たち、頬杖をつく老婆、とかげを踏む鳥、..... 深すぎて理解できません。
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