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6月 5日 世界環境デー(国連)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
オモダカ 高潔・信頼 ○
ホタルブクロ 愛らしさ・誠実・忠実・正義 ○
マリーゴールド 可憐な愛情・健康・嫉妬
別れの悲しみ・友情・予言 ×
マリーゴールド(八重)いつもかわいい ×
∞…∞ 6月 5日・今日という日 ∞…∞
愛里 (1984) モデル、タレント
西端さおり (1984) タレント
ラナhanakoマキサック (1984) 歌手
金子統昭 (1981) RIZE、Dr. Vo.
後藤武敏 (1980) 野球
hiro:n (1979) 歌手
高樹千佳子 (1979) タレント
猪口有佳 (1978) 声優
大河内奈々子 (1977) タレント、女優
鈴木隆行 (1976) サッカー
吉田 恵 (1976) タレント
水原恵理 (1976) アナウンサー
波田陽区 (1975) タレント
野村明大 (1972) アナウンサー
小松美幸 (1971) タレント
中嶋朋子 (1971) 女優
野口幸司 (1970) サッカー
春やすよ (1961) 漫才師
東ちづる (1960) 女優、タレント
久保田麻三留 (1959) アナウンサー
アン・ルイス (1956) 歌手
中本 賢 (1956) 俳優
檀 ふみ (1954) 女優
えびはら武司 (1954) 漫画家 「まいっちんぐマチコ先生」
今井伊佐男 (1954) アナウンサー
ガッツ石松 (1949) タレント、ボクシング
三笑亭夢之助 (1949) 落語家
津村節子 (1928) 作家
古川 薫 (1925) 作家
大友柳太朗 (1912) 俳優
ルース・ベネディクト (1887) 人類学者
ジョン・メイナード・ケインズ (1883) 経済学者
後藤新平 (1857) 政治家
豊原国周 (1835) 浮世絵師
アダム・スミス (1723) 学者
○ 藤原広嗣の乱で廃された太宰府を復活(745)
○ 北条時頼が三浦一族を滅ぼす。宇治合戦(1247)
○ 後醍醐天皇が京都に凱旋(1333)
○ 井原西鶴、2万3500句の新記録を樹立(1684)
○ フランスのモンゴルフィエ兄弟が世界初の熱気球(1783)
○ 新選組、池田屋襲撃(1864)
○ 気象庁が毎日の定時観測を開始(1875)
○ 春分の日、秋分の日決定(1878)
○ 嘉納治五郎が下谷永昌寺に講道館の前身となる柔道場開設(1882)
○ 日本が万国赤十字条約に加入(1886)
○ 東郷平八郎海軍元帥が87歳で死亡。わが国初の国葬に(1934)
○ ミッドウェー海戦で、日本が4空母を失う(1942)
○ 国立国会図書館開館(1948)
○ アメリカ大統領候補のロバート・ケネディが銃撃され翌日死亡。42歳(1968)
○ 新宿副都心の超高層ビル第一号・京王プラザホテル開業(1971)
熱気球記念日
1783年の今日、南フランスのアノネでモンゴルフィエ兄弟が大きな風船に薪をいぶした煙を詰め、熱気球を約2.4キロメートル離れた隣村まで飛ばすことに成功。
これが世界初の熱気球の実験とされることから設けられた記念日。
落語の日
落語家の春風亭正朝が「らくご」を「6」「5」の語呂合せして提唱。
世界環境デー
1972年(昭和47年)のこの日、国連人間環境会議が人類のために人間環境の保全と改善を目標とする「人間環境宣言」を採択したことを記念して設けられた。
11日までの1週間は「環境週間」として、各地で環境問題をテーマにした催し物が開かれる。
たまごの日
毎月5日。日本養鶏協会、日本卵業協会など関係団体が制定。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
八木・宇田アンテナの数奇な歴史
1920年頃東北帝国大学ではマグネトロンの研究が開始され、1924年頃、海軍大尉で大学に派遣されていた学生が実験中に、金属棒を置くと受信電波が増大するという奇妙な現象を見つけた。
この報告を聞いた八木秀次は、「これは意味のある新しい現象だ」と直感し、助手達に命じてさまざまな実験を繰り返し、金属棒の驚くべき効果を発見します。
1925年12月29日には八木アンテナの基礎理論を完成し、講師の宇田新太郎に実用化のための研究をさせ、2種類の特許を取得し、1926年7月には英国および米国に特許を申請し、それぞれ特許を取得しています。
1926年の2月に八木と宇田は最初の英文報告書を公表します。
1928年に八木・宇田の連名で論文が出され,特許は八木単独で出されましたので「八木アンテナ」と呼ばれていましたが、詳細設計は宇田新太郎が担当したことから八木・宇田アンテナと呼ばれるようになりました。
1928年の夏に八木は米国を訪問しIRE等で日本の短波研究の状況について講演して高い評価を受けます。
これに刺激を受けたGE社はマグネトロンの研究を強力に推進しています。
日本では無視されましたが、米国では大きな賞賛を受けたのです。
1930年頃には米国で八木・宇田アンテナは悪天候や夜間(視界不良)に飛行機が空港に着陸するときの誘導システムに使用されるようになります。
1940年の「バトル・オブ・ブリテン」ではドイツ軍の空爆に対抗するために、飛来するドイツ軍の飛行機を早期に発見し防空体制を整える(早期警戒用)ためのレーダーが多く設置されましたが、それには八木・宇田アンテナも使用されましたし、
夜間や悪天候に乗じて飛来する飛行機を迎撃するために戦闘機に八木・宇田アンテナが取り付けられ、夜間や雲の多い天候でも爆撃機を発見して攻撃できるようになり、ドイツの飛行士たちに「空飛ぶヤマアラシ(Fliying
Porcupine)」と恐れられていました。
1942年2月25日シンガポール戦の後で、英国レーダ技師のノート(ニューマン文書を参照)を見付けその中に「Yagi
antenna」という言葉があり、日本の情報将校が「Yagi」という記号が日本語であることを知らなくて、捕虜の技術者にその意味を尋ねたら日本人でアンテナの発明者の名前だと聞かされても信じられなかったという話は有名です。
1941年12月7日(現地時間(日曜日)午前7時02分)に米軍がオアフ島の北のオパナに設置したレーダーで日本軍が真珠湾を攻撃する飛行機を約200km北方に発見しましたが、味方の飛行機と誤解しこの情報は生かされませんでしたが、この真珠湾のレーダーには八木・宇田アンテナが使用されていました。
1942年4月18日の「東京初空襲」で日本もレーダーの必要性に気付かされ開発に力を入れ始めます。
やっと八木・宇田アンテナと岡部が発明したマグネトロンに日本人の関心が向けられるのでした。
1942年6月5日ミッドウェー海戦で日本連合艦隊が謎の敗北を喫し、太平洋戦争の敗北が決定的となったのですが、日本軍のミッドウェー島への奇襲攻撃を失敗させたレーダーにも八木・宇田アンテナが使用されていたことが分かるのは終戦後のことです。
すなわち、日本人(敵国)の特許なので使用するのに許可も要りません。
また、八木アンテナが発明されていなければ、米国レーダーは出来ていませんでした。
八木アンテナが発明されていなければ、戦争はどうなっていたでしょうか?
追記
終戦直後、八木は米国による戦時中の研究開発についての事情聴取に対し、民間と軍部の協力が十分で無くかなりの不満を抱いていたことを話しています。
八木アンテナの共同開発者である宇田新太郎は1951年に米国を訪問したときに米国でテレビ放送の受信用に八木・宇田アンテナが非常に多く使用されているのに驚きました。
八木の後輩で「ニューマン文書」の再発見者である佐藤源貞は英国のレーダーに八木・宇田アンテナが使用されていたことや広島・長崎に投下された原爆に爆発する高度を測定するために八木・宇田アンテナが使用されていたこと等を知り、驚きと共に八木・宇田アンテナの皮肉な運命に思いを馳せることになります。
戦後テレビ放送が世界中で開始され広く普及するようになるとこの八木・宇田アンテナは世界中の屋根を占領してしまいました。
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