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6月 3日 測量の日(国土地理院1989)、ムーミンの日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アジサイ ほら吹き・移り気・あなたは冷たい
元気な女性・高慢・無情・辛抱強い愛情 ○
アマ あなたの親切に感謝 ×
スイカズラ 愛の絆・献身的な愛・友愛・献身の愛○
∞…∞ 6月 3日・今日という日 ∞…∞
長澤まさみ (1987) タレント、女優
竹島由夏 (1986) タレント
福士誠治 (1983) 俳優
秦 裕二 (1983) 野球
川崎宗則 (1981) 野球
鈴木桂治 (1980) 柔道
おおいわ千絵 (1979) 女優、タレント
櫻井健介 (1977) アナウンサー
満永ひとみ (1976) バレーボール
菅原 智 (1976) サッカー
ステファン・レコ (1974) キックボクシング
大内 登 (1974) タレント、元 ビビる
LEVIN (?) La'cryma Christi、Dr.
早瀬恵子 (1971) 女優
小林 健 (1971) 俳優
咲田めぐみ (1971) 女優
ジェームス岡田 (岡田英二) (1970) 俳優
貴水博之 (1969) 歌手、access
嶺川貴子 (1969) 元 L⇔R
長島三奈 (1968) ニュースキャスター
ハニホー・ヘニハー (1967) ボディービルダー
入来 智 (1967) 野球
道傳愛子 (1965) アナウンサー
斎藤哲也 (1964) アナウンサー
亀田誠治 (1964) 作曲家
ネルソン・リリアーノ (1964) 野球
唐沢寿明 (1963) 俳優
黒田知永子 (1961) モデル
佐野 稔 (1955) スケート
湯口敏彦 (1952) 野球
村上もとか (1951) 漫画家 「六三四の剣」「龍 -RON-」
スージー・クワトロ (1950) 歌手
マモル・マヌー (1949) 元ザ・ゴールデン・カップス、Dr.
倉田 誠 (1946) 野球
ミスター梅介 (1944) 法律漫談
和田 勉 (1930) 演出家
桜 京美 (1930) 女優
高島 修 (1929) 政治家
トニー・カーティス (1926) 俳優
上原賢六 (1924) 作曲家
アラン・レネ (1922) 映画監督
曾我廼家明蝶 (1908) 俳優
ジョセフィン・ベーカー (1906) 舞踏家
張 学良 (1901) 軍人、政治家(台湾)
北川冬彦 (1900) 詩人
島津保次郎 (1897) 映画監督
石坂泰三 (1872) 元東芝社長、元経団連会長
佐佐木信綱 (1872) 作家
坂田三吉 (1870) 将棋棋士
○ 荘園整理令、発布(1040)
○ オランダが西インド会社を設立(1621)
○ ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航(1853)
○ カルピスの広告が新聞に初掲載される。「初恋の味」のキャッチフレーズが大評判(1924)
○ 日独伊が蒋介石の国民政府を正式に承認(1929)
○ イギリス、王位を捨てたウィンザー公エドワード8世が、離婚した元シンプソン夫人ウォーリスと晴れて結婚(1937)
○ アナウンサーが街頭で人々に意見を聞く「街頭録音」第一回放送。テーマは「貴方はどうして食べていますか」(1946)
○ 阪急の福本豊、盗塁939の世界新記録(1983)
○ 雲仙普賢岳で火砕流発生。警官、消防団員、火山学者らが巻き込まれた。死者・不明者34人(1991)
測量の日
1949年(昭和24年)の今日、測量法が公布されたことを記念して建設省(現国土交通省)が1989年(平成元年)に制定。
雲仙普賢岳祈りの日
1991年(平成3年)のこの日、雲仙・普賢岳の大火砕流災害で43人の犠牲者が出た。
この犠牲者を追悼するために1998年(平成10年)長崎県島原市が制定。
ウェストン祭
イギリス人宣教師で日本アルプスを初めて踏破した日本近代登山の祖、ウェルター・ウェストンを偲んで、長野県上高地の梓川河畔にあるウェストン碑の前で献花、記念講演、合唱等が行われる。
みかんの日
毎月第1日曜日
ムーミンの日
「6」と「3」の語呂合わせからトーベ・ヤンソンの『ムーミン』を愛するファンによってつくられた。
ベビーディ(6月第1日曜日)
国王誕生記念日(マレーシア)
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
島原大火砕流(1991)
1991年6月3日午後4時頃、噴火活動中の長崎県島原の普賢岳で大規模な火砕流が発生。
死者43名という、日本の火山災害史に残る悲劇となりました。
亡くなったのは、警察官・消防団員・地元住民・火山研究者のほか、報道関係者14名、それに同行していたタクシー運転手4名、前日行われた選挙のポスターの撤去作業をしていた人2名も含まれていました。
普賢岳は200年前の1792年にも大噴火を起こしており、その時は眉山が崩壊して地元住民が大量に生き埋めになった上に、その土砂が海に流れ込んで津波のようになり対岸の天草まで大きな被害が出ています。
この時の死者は15000名と言われています。(島原大変・肥後迷惑)
火砕流というのは、火山から噴出された火山ガスや土砂が高速に山を駆け下りる現象で、その速度は時速100kmを越すこともあります。
この島原の火砕流でも亡くなった報道関係者が最後の交信で「もう逃げ切れない!」という悲痛な叫び声をあげています。
火砕流の被害として歴史上有名なのは1902年のモンブレー火山(マルチニーク島,西インド諸島)の噴火で、この時の火砕流の死者は29,000名にものぼっています。
日本でも、島原大変の数年前、浅間山の火砕流で1500名の死者を出したことがあります。
とにかく、ものすごい高速で高温ガスがやってくるので、逃げ切れない。
それが火砕流の怖さです。
今回の普賢岳の噴火は、1990年11月17日に始まりました。
活動は1994年春まで続き、1995年4月に活動休止の統一見解が発表されています。
この間に何度も火砕流や土石流が発生し、多くの被害が出ました。
当時の島原市長は鐘ヶ江管一さん。
地元の旅館を経営していましたが、この災害が起きる少し前に、市政に専念したいといって、その旅館を閉めていました。
それが幸いだったとご本人は語っておられました。
こんなことが起きたのでは、旅館の経営などと兼業は不可能だったと。
長いヒゲで防災服姿で飛び回る鐘ケ江氏の姿はTVにより全国に島原のシンボルとして映し出されました。
そのヒゲは災害がおさまるまで切らないことを誓って伸ばしていたものです。
そのヒゲは市長を引退し、新市長にバトンタッチしたあとの1992年12月18日、島原市内のお寺で剃髭式をあげて剃りました。
噴火対策に走り回った2年間の完全燃焼でした。
磐井の乱(527)継体天皇21年(527)8月1日、九州で大和朝廷に従わない筑紫国造・磐井に対して討伐命令が出ました。
物部麁鹿火(もののべのあらかい)が率いる大和の軍と九州を掌握していた磐井の軍は激しく戦いますが、現在の高良大社の立つ地、御井郡の戦いで大和側が勝ちました。
これは古代で最期の大規模な地方反乱でこれを制圧した大和朝廷はこの後欽明・敏達・推古などの名君が出て日本としての国家組織を整備していきます。
大和朝廷の歴史はいわゆる「三輪王朝」の実質的創始者・崇神天皇に始まり、日本武(やまとたける)・神功皇后の二代によって大きく勢力範囲が広がります。
神功皇后の子孫が「河内王朝」と呼ばれていますが、その中でも雄略天皇は非常にカリスマ性の高い天皇で、物部・大伴などの諸豪族も畏怖をもって彼に仕えていました。
しかし雄略が偉大すぎたばかりにその後継者たちは見劣りし、やがてただ乱暴なだけの天皇武烈が出るに至っては、人々の心は天皇から離れ、この天皇は(恐らく)殺されてしまいます。
そして豪族の間では、その後の天皇を誰に継がせるかというのが問題になりました。
最初丹波の国の倭彦王を擁立しようとしますが、倭彦王は大和朝廷の軍が迎えに行くと自分を討ちに来たのかと思いこんで逃げてしまいました。
そこで仕方なく次の候補として北陸から東海に掛けて広い範囲に勢力を握っていた越前の男大迹(おとど)王の所へ行きました。
男大迹王も大和朝廷の軍には驚きますが、彼は逃げたりはしないだけの肝っ玉がありました。
朝廷を代表して大伴金村が「あなたを次の天皇として擁立したい」といいますが、男大迹王はなかなかうんと言いません。
自分が次の天皇の有力候補の一人であることは当然認識していたでしょうが、それ故に、ここでうっかり「よし、
やりましょう」などと言えば「さては天皇の地位を狙う不届き者め」と言われて成敗される可能性もあると見てのことでした。
しかし大伴金村としては本気で彼を次の天皇にしたいと思っていますから、男大迹王に親しい人に仲介を頼むなど誠意を尽くして説明、ようやく男大迹王も承知して、ここに継体天皇が誕生します。
継体天皇の皇位継承には当然異論のある豪族たちもいました。
そのため彼はすぐに大和に入ることができず最初は河内で即位し、20年目(一書では7年目)にようやく大和に宮を移しています。
また彼は即位した当時既に57歳で妻と大きな子供たちもいましたが、既存勢力との融合のため、先々代の天皇仁賢天皇の娘手白髪姫を皇后に迎えます。
結果的にはこの手白髪姫が生んだ欽明天皇が、その後の皇統の祖となります。
大和に入ってやっと落ち着いたと思った時、九州で朝鮮に行こうとしていた大和朝廷の軍が筑紫国造の磐井に妨害されるという事件が起きました。
継体天皇21年6月3日のことでした。
当時磐井は九州の少なくとも北半分くらいを自己の勢力範囲に納め、大和の方が必ずしも一枚岩でないこの時期を見計らって、もう大和朝廷とは切り離した独自の国を作ろうと考え始めていました。
しかし、日本列島全体を完全に掌握しておきたいと同時に磐井のバックには朝鮮半島の新羅がおり、磐井を放置す
ることは朝鮮に国土を奪われることになると見た大和朝廷はこれを絶対に潰さなければならないと考え、最強の兵力を動かすことのできる物部一族の麁鹿火が自ら将軍となって九州へ赴くことにしました。
8月1日、天皇の名で討伐命令が出され、大軍が動員されますが、磐井の力も非常に大きく苦戦が続きます。
しかしとうとう11月11日、御井郡(みいのこおり)の戦いで、大和軍が勝利をおさめ、磐井は斬られて乱は終結しました。
磐井の息子の葛子は領地を一部大和朝廷に寄進して帰順の意を表明して許されます。
(筑後国風土記では、この時磐井は豊前国まで逃げて行方不明になったとされています。そこで大和朝廷の軍は腹いせに、磐井が生前作っていた自分の墓−岩戸山古墳−の回りに立っている石像の手や頭を叩き割ったりしたといいます。その祟りで付近で病気になる者が多かったとも記されています。)
この磐井が生前作っていた墓とされる八女市の岩戸山古墳は墳丘長が138mという巨大な前方後円墳で、多数の石人・石馬などが回りを取り囲み壮大な作りになっています。
非常にユニークな古墳ですので一見の価値があるのではないかと思います。
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