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5月27日 百人一首の日、海軍記念日、かるた忌
花ノ名前 花ことば 誕生花として
カタバミ 喜び・心の輝き ×
シデ 装飾 ○
ツルバラ いつも美しい・愛 ○
ヒナギク 純潔・お人よし・無邪気・明朗 ○
フランスギク 忍耐・寛容 ×
ヘリオトロープ 愛よ永遠なれ・永久の愛
献身的な愛・熱望 ○
∞…∞ 5月27日・今日という日 ∞…∞
田澤麻衣 (1986) タレント
小向美奈子 (1985) タレント
柳沢 敦 (1977) サッカー
山根良顕 (1976) タレント、アンガールズ
Kadota"JAW"Kousuke (1976) PE'Z、サックス
松本 渉 (1976) 俳優
MATSU (1975) EXILE
赤松芳朋 (1974) SOPHIA、Dr.
萩野 崇 (1973) 俳優
平井久司 (?) アニメーター、アニメデザイナー
北川博敏 (1972) 野球
東風孝広 (1972) 漫画家 「カバチタレ!」
小磯勝弥 (1972) 俳優
本田理沙 (1971) タレント
つの丸 (1970) 漫画家 「みどりのマキバオー」
あずまきよひこ (1968) 漫画家 「あずまんが大王」
高橋美枝 (1968) 歌手
白鳥智士 (みんなのれっず) (1967) 元AURA、Vo.
三又忠久 (1967) タレント、ジョーダンズ
石川よしひろ (1967) ミュージシャン
ポール・ガスコイン (1967) サッカー
玉城一石 (1963) 腹話術師、いっこく堂
塩谷育代 (1962) ゴルフ
釋 英勝 (?) 漫画家 「ハッピー・ピープル」
相本久美子 (1958) 女優
内藤剛志 (1955) 俳優
北見敏之 (1951) 俳優
岡田裕介 (1949) 俳優
植田まさし (1947) 漫画家 「コボちゃん」「かりあげクン」
薩摩剣八郎 (1947) 俳優
西岡たかし (1944) 元 五つの赤い風船
ヘンリー・キッシンジャー (1923) 政治家
真田重蔵 (1923) 野球
クリストファー・リー (1922) 俳優
中曽根康弘 (1918) 政治家
中野忠晴 (1909) 歌手
小堀杏奴 (1909) エッセイスト
レイチェル・カーソン (1907) 環境問題専門家
沢田正二郎 (1892) 俳優
ミース・ファン・デル・ローエ (1886) 建築家
ジョルジュ・ルオー (1871) 画家
広瀬武夫 (1868) 軍人
アメリア・ブルーマー・ジェンクス (1818) 女性運動家
亀山天皇 (1249) 天皇
○ 三世一身の法を廃し、位階に応じた面積の墾田の私有を認める[墾田永年私財法](743)
○ 藤原定家によって小倉百人一首が完成(1235)
○ 初めて日本に来た象を8代将軍吉宗が見物(1729)
○ 米東インド艦隊が浦賀に来航、通商を要求(1846)
○ 山陽線全線開通(1901)
○ ロシアのバルチック艦隊と日本海海戦始まる(1905)
○ 全国農民組合結成(1928)
○ ピカールが気球で人類初の成層圏へ達す(1931)
○ サンフランシスコの金門橋完成(1937)
○ 韓国で光州事件起こる(1980)
○ 張本選手、3千本安打達成(1980)
○ 神戸市須磨区の中学正門前で早朝,近くの小6生の切断された頭部が見つかる。6/28顔見知りの中3男子を逮捕(神戸小学生殺害事件)(1997)
日本海海戦の日
1905年(明治38年)のこの日、日露戦争で東郷平八郎が率いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に勝利した。
戦前の海軍記念日。
百人一首の日
1235年(文暦2年)のこの日、藤原定家の撰による『小倉百人一首』がまとまったことにちなんで。
オークス・レディースデー(5月最終日曜日)
陸軍記念日(ニカラグア)
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
百人一首の日(5.27)
5月27日は「百人一首の日」です。
これは藤原定家の『明月記』の文暦2年(1235)5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めにより和歌百首を書写し、これが嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとあって、これが百人一首の初出ではないかと考えられたことによります。
予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。
雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。
さて、明月記の文章は読みようによっては、選んだのは「彼の入道」つまり頼綱であって定家は単に書いただけとも読めます。
しかし現在の定説としては、やはり百人一首を選んだのは定家本人であり、この記事より少し前に選定が終わっていたと考えられています。
この件に関して詳しいことは「百人一首」(島津忠夫訳注・角川文庫ソフィア)の巻末解説をごらんください。
諸説が整理されています。
藤原定家(1162-1241)は新古今和歌集の撰者として知られていますが、必ずしもこの和歌集に満足しておらず、改めて百人の歌人の歌を一首ずつ選ぶというこの「百人一首」を編集したとも言われています。
この新古今和歌集に関わった人でもう一人後鳥羽上皇も、やはりこの和歌集に満足しておらず後に改訂版を作成しています。
秋の田のかりほの庵のとまを荒みわが衣手は露に濡れつつ
足引きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかもねん
花の色は移りにけりな徒らに我が身よにふるながめせしまに
千早振る神代も聞かず龍田川唐紅に水くぐるとは
恋すてふ我名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか
瀬を速み岩にせかるる滝川の割れても末に逢はんとぞ思ふ
百人一首といえば、現代では「かるた」というイメージがあるのですが、百人一首のかるたが作られたのは17世紀初頭と考えられます。
戦国末期から安土桃山時代にかけて、西洋から現在のトランプやタロットの原型のようなカード(カルタ)が入ってきました。
これに刺激を受けて国内でもいろいろなカルタが製作され、最も古い物では、元和年間(1615-1624)頃に作られた百人一首カルタが現存しています。
カルタが登場する以前は、百人一首は歌仙絵などの形で鑑賞されていました。
カルタの発達については、上記「百人一首」の解説や、「日本のかるた」(濱口博章・山口格太郎著/保育社カラーブックス)の巻末解説をごらんください。
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