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5月25日 広辞苑記念日、食堂車の日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ニチニチソウ    友情・楽しい思い出・若い友情   ○
パンジー      平穏・私を想ってください
          物想い・純愛・心の平和      ×
ラナンキュラス   光輝を放つ・名誉・名声・お祝い
          移り気・晴れやかな魅力・忘恩
          美しい人格            ○

∞…∞ 5月25日・今日という日 ∞…∞

上野樹里   (1986)  タレント
北條隆博   (1986)  俳優
YUTA (相原憂太)   (1984)  Kids Alive、Vo.
弓削智久   (1980)  俳優
空知英秋   (1979)  漫画家
小林 尽   (1977)  漫画家 「School Rumble」
tohko (トーコ)   (1977)  歌手
シェイン・コスギ   (1976)  俳優、タレント
だいたひかる   (1975)  タレント
うすた京介   (1974)  漫画家 「すごいよ!マサルさん」
古山あゆみ   (?)  声優
石田ひかり   (1972)  女優
エンジェル・エチェバリア   (1971)  野球
雪乃五月   (1970)  声優
波留敏夫   (1970)  野球
二ノ宮知子   (1969)  漫画家 「のだめカンタービレ」
陣内大蔵   (1965)  シンガーソングライター
障子久美   (1964)  ミュージシャン
カイヤ   (1962)  タレント
ヒロ斉藤   (1961)  プロレス
堀 広道   (1960)  俳優
陣次郎   (1959)  MEN'S5、Bass
伊丹哲也   (1958)  伊丹哲也&Side By Side
後藤達俊   (1956)  プロレス
江川 卓   (1955)  野球
桂 小枝   (1955)  落語家
門倉 聡   (1954)  作曲家
ダディ竹千代   (1953)  ダディ竹千代&おとぼけCATS
ケント・ギルバート   (1952)  弁護士、タレント
中原 俊   (1951)  映画監督
友部正人   (1950)  シンガーソングライター
葛城ユキ   (1949)  歌手 ※1952生まれ説も
小倉智昭   (1947)  ニュースキャスター
荒木経惟   (1940)  写真家
菊池武夫   (1939)  ファッションデザイナー
豊田有恒   (1938)  作家
米倉健司   (1934)  ボクシング
ジム・マーシャル   (1931)  野球
横溝正史   (1902)  作家
浜田広介   (1893)  童話作家
佐々木更三   (1900)  政治家
ヨシプ・ブロズ・チトー   (1892)   政治家、ユーゴスラビア
イゴール・シコルスキー   (1889)  航空機設計製造家
エドワード・ジョージ・ブルワー・リットン   (1803)  作家
ラルフ・ウォルト・エマーソン   (1803)   思想家

 ○ 富士山噴火(864)
 ○ 足利尊氏が湊川の戦いで楠正成らを破る(1336)
 ○ ジャンヌ・ダルク、火あぶりの刑に(1430)
 ○ アルゼンチンがスペインから独立(1820)
 ○ ロンドン動物園に初のチンパンジー(1835)
 ○ 札幌農学校でクラーク博士が提唱していた第1回運動会が開催される[学校運動会の初め](1878)
 ○ 日清戦争後、台湾が独立を宣言(1895)
 ○ 私鉄の山陽鉄道に日本初の食堂車(1899)
 ○ 21カ条要求による日中間の条約が調印(1915)
 ○ 皇居が米機に爆撃されて炎上(1945)
 ○ 通産省設置法公布(1949)
 ○ 「広辞苑」初版発行(1955)
 ○ プロ野球八百長事件で西鉄の3選手が永久追放となる[黒い霧事件](1970)
 ○ アメリカ映画「スター・ウォーズ」が公開される(1977)

広辞苑初版発行の日
1955年(昭和30年)のこの日、岩波書店発行、新村出編の広辞苑の初版が出た。
初版以来長い歴史を誇り、百科事典も兼ねた国語辞典としてデビューして版を重ねるごとに収録項目を増やしてきた。
初版は14年間で100万部。以後部数を重ね累計は1000万部を超える。

納本制度の日
昭和23年(1948)5月25日、国立国会図書館が納本の受付を開始。
国会図書館は平成20年に納本制度60周年を記念し、納本受付開始のこの日を「納本制度の日」と定めた。

天神縁日
天神様の縁日(毎月25日)

食堂車出発の日
1899年(明治32年)のこの日、山陽鉄道の神戸・広島間で、日本で初めての食堂車が走行した。

革命記念日(アルゼンチン)
1810年この日、ブエノスアイレス太守領が本国イスパニアから離脱して臨時政府を作り、ブエノスアイレス州だけが独立した。
1816年、「ツクマン会議」でラプラタ各州が「ラプラタ合衆国」の結成を決め、共和国として改めて独立したことを記念して制定。
首都はブエノスアイレス。

独立記念日(ヨルダン)

有無の日
第62代天皇・村上天皇の967(康保4)年の忌日。
「有無」は村上天皇が急な事件のほかは政治を行わなかったことから。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


食堂車の日(5.25)
5月25日は「食堂車の日」です。
日本初の食堂車は、1899年5月25日に私鉄の山陽鉄道(現・西日本旅客鉄道の山陽本線)が運行した官設鉄道京都 -山陽鉄道三田尻(現・防府)間の列車に連結した食堂付き一等車がお目見えしたのを記念するものです。

山陽鉄道は神戸から下関に至る鉄道幹線を敷設したいという政府の意向を受けて、関西の財界人が中心になり1888年設立された鉄道会社で、神戸側から工事を始め、全線開通は1901年になります。

この間、この会社は色々と新しい試みを行っており、1896年赤帽を配置、1898年列車にボーイを乗務させ、1899年食堂車を開始、1900年には寝台車を始めています。

(その後この会社は1907年鉄道国有法により国鉄に吸収され、1987年のJR発足でJR西日本の所属となります。)

当初は瀬戸内海航路への対抗とともに1等車の付随施設の側面が大きかった。
この車両は、山陽1227-1229号で国有後のホイシ9180形と考えられています。
食堂営業は山陽鉄道の直営の後、神戸の「自由亭ホテル」(後の「みかど」)の請負となりました。
官営鉄道(国鉄)では1901年12月15日に新橋駅-神戸駅間の急行2往復に連結され「精養軒」が運営し、日本鉄道では1903年に「仙台ホテル」(現:「ウェルネス伯養軒」)の請負いによって導入されました。

このときは1・2等車(現・グリーン車)の客しか使用できず、官営鉄道・日本鉄道でも同様でした。
利用区分を設定した理由として、利用者層の日常的な生活習慣などを考慮、3等車の客には当時行儀の悪い者が多かったため、1・2等客に不愉快な気持ちを抱かせないようにする配慮、あるいは本来の座席より良い車両で漫然と時間をすごすことの防止であったとされます。
その後、1903年10月から山陽鉄道では閑散時間帯には3等客への部分開放を行いますが、3等車から1・2等車内を通って食堂車へ来るのは禁じられ、駅に停車しているときに車両の外を移動することと身なりを整えることが求められたといいます。
鉄道院でも、1919年8月から「一部食堂車に改造を加え、あるいはその連結位置を変更」して列車全体の旅客に開放しました。
食堂車を挟んで1・2等車と3等車を分ける施策は、戦後の初期(1950年代)まで続けられた。

食堂車はかつては鉄道での旅の中で重要な地位を占めていました。
その頃は、汽車で長旅をするというと、食堂車に行くのが楽しみで仕方なかったという人が多くいました。
しかし、昭和50年代頃以降は、食事時に混み合う食堂車よりも駅弁で済ませる人が多くなったこと、列車の速度が上がって乗車中に食事をする必要性が減少したこと、などを原因として食堂車はさびれていき、現在食堂車を連結しているのは、グランドひかり・北斗星・トワイライトエクスプレスの3つのみです。
(一部のこだまにも連結されているが営業しない)


広辞苑記念日(5月25日)
『広辞苑』(こうじえん)とは、岩波書店が発行している中型の国語辞典である。

戦前から定評のあった『辞苑』を大幅に改訂した『広辞苑』が発売されたのは、1955(昭和30)年5月25日のことです。

新聞広告の内容では、編者は京都大学の言語学者・新村出(しんむら・いずる)博士。
広告文には「戦前に百貨的語彙の豊富と説明の明快ともって定評のあった『辞苑』の改訂増補に着手して以来十余年、その間史上未曾有の転変を経て、新しい時代の要求に応ずる新しい辞書の必要は切実となった。
いまここに国語学的内容と百科的事項とを一層整備し、旧『辞苑』の特色をいかしつつ、しかも全く面目を一新にして世に現れる『広辞苑』は正にこの切実な社会的要望にこたえんとするものである。
現代に最も適応した生きた辞書こそ本書である」・・・とあります。
そして、最新の国語―百貨辞典 収載語彙(ごい)20万語。と大書してある。価格は、定価2000円がこの時は期間限定特価1800円となっています。

この当時、公務員の初任給8700円、喫茶店で飲むコーヒー1杯が50円です。
今の価格に換算すれすれば、4〜5万円になる高額な辞書が、大ベストセラーになったというのだから凄い。
しかし、何故、分厚く、難解な辞書がベストセラーとなるほど売れたのであろうか?

年輩の人なら、日本人モデルの草分け的存在である伊藤絹子を知っているだろう。
ミス・ユニバースは、1952(昭和27)年にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロングビーチで初めて行われ、日本もこの第1回大会から、参加している。
そして、翌・1953(昭和28)年第2回大会で、伊東絹子が、日本人初となる入賞(第3位)を果たし、「8頭身美人」が当時の流行語にもなった。

1955(昭和30)年5月の『広辞苑』(初版)には、今までの『辞苑』にはなかった「8頭身」の言葉が収録され、「身長が頭部の長さの8倍あること。女性のもっとも美しいスタイルとされる」と記載されている。

『広辞苑』は、昭和44年に第2版、昭和58年に第3版、平成3年に第4版、平成10年に第5版、平成20年に第6版が刊行され、この最新版である第6版では第5版収録の全23万項目を徹底的に再検討した上で、現代生活に必須の1万語を厳選して新収録し、総項目数は約24万語、(3074ページ)となっている。

岩波書店の第6版『広辞苑』のPR文には、“21世紀の言語生活にいっそうかなった辞典にすべく、一般語については、新しい意味や用法の広がりを的確に捉えることに重点をおきました。
百科項目については、現代の急速な社会の変動やさまざまな分野での研究の進展、科学技術の進歩に伴って生じた新しい動きを反映させています。」と書かれている。

初版での「8頭身」の収録は、初版当時から、その収録にその時代の語彙を反映していたことを示していた一つの例といえるだろう。
現在、中型国語辞典(10〜20万語規模の辞典)としては三省堂の『大辞林』と並ぶ両雄である。
最近では携帯機器に電子辞書の形で収録される事も多い。

この『広辞苑』の前身である『辞苑』は、1930(昭和5)年末、当時、東京で民俗学や考古学の専門書店兼学術出版社「岡書院」を経営していた岡茂雄が、岩波茂雄と逢って話していた時に出た、当時のような不況下では、辞書や教科書、そして講座などのシリーズが良いという話から、中・高生から家庭向き国語辞典刊行の企画を思いつき、旧知の間柄だった新村出に依頼したのが発端であったそうです。
しかし、新村は当初、そのような辞典を作ることに興味がなく断ったようだが、作るなら本格的な大辞典を作りたいという思いがあったらしい。
岡の重ねての依頼に、「昔、高等師範で教え子であった溝江八男太が手伝ってくれるなら、やつてみてもよい」と渋々承諾したという。
そして、その溝江の進言により、百科的内容の事典を目指す事となったようです。

書名は、岡が新村の考案した数案の中から決めたが、「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』に因んだものだといいます。
しかし編集が進むに連れ膨大なになることから、零細な岡書院の手に余ると判断した岡は、大手出版社へ引継ぎを打診。
岩波には断られるも、岡の友人渋沢敬三を通して事情を知った博文館社長大橋新太郎よりの申し入れがあり、『辞苑』は博文館へ移譲されたようです。

『辞苑』移譲後も、編集助手の人事や編集業務上の庶務、博文館との交渉等の一切は岡が担当し、新村出を中心とする編集スタッフを補佐した。
1935(昭和10)年に『辞苑』は完成。
刊行されると同時に増刷という、好調な売れ行きを見せた。

しかし、収録した内容には不十分な部分もあり、すぐに岡より改訂版の話が持ち上がり、『辞苑』編集時に版元(博文館)との間で行き違いがあった新村は改訂には難色を示していたようだが、再び岡と溝江に説得され、改訂に取り組むこととなった。

改定作業半ばに外来語を考慮していない事に気付き、フランス文学者であり、新村の次男である新村猛を1940(昭和15)年より編集スタッフに加えるが、初めは外来語担当であった猛が、編者の息子であることに乗じて国語項目の書直しや百科項目の拡大を父より叱責を受けるほど行ったため、1941(昭和16)年に予定されていた改訂版刊行は頓挫し、改訂作業が遅れ、完成の目途が立たない内に、第二次世界大戦が勃発。
空襲開始と共に編集部は場所を転々とし、最後は博文館社長邸の一室で猛と2名程の婦人スタッフで実務に当たっていたが編集作業は中断する。

戦後、疎開先から帰京した岡は新村家など数ヶ所に残しておいたために空襲の戦火から免れた『辞苑』改訂作業時の版下になる清刷り(校正刷り)を基に、博文館に『辞苑』改訂版刊行の意思を尋ねるが拒絶される。
その旨は新村出には伝えられたが、その後、猛の交渉により、改訂版は、発行元を代え、岩波書店から刊行されることとなった。

改訂作業は、猛を中心に編集スタッフを揃え取り組むが、そこには、予想外の難問がひかえていた。
それは、戦後の日本の社会情勢が一変しており、使用される言葉そのものも大きく変化し、旧仮名遣いは新仮名遣いに改められ、多くの外来語が生活の中にも入り込んでいた。
又、新語も次々と誕生しており、それらの語も採り上げなければならなかった。

結局、戦後10年を経過した1955(昭和30)年の今日・5月25日に『広辞苑』の書名で発行されたのだが、この発行に際して、博文館との軋轢(あつれき)を懸念した岡は、書名の『辞苑』の引継ぎに異を唱えたが、結局書名は『広辞苑』と決めらたようだが、その後岡の予想通り、“岩波書店と博文館の間で裁判沙汰が起こる事となった。

大手の出版社である岩波書店が『辞苑』の改訂版を刊行する以上は、本来、博文館から版権を譲り受け刊行されるはずである。
『辞苑』と『広辞苑』では名前が似ていて商標上の問題がある。

この『広辞苑』の前身である『辞苑』は、1930(昭和5)年末、当時、東京で民俗学や考古学の専門書店兼学術出版社「岡書院」を経営していた岡茂雄が、岩波茂雄と逢って話していた時に出た、当時のような不況下では、辞書や教科書、そして講座などのシリーズが良いという話から、中・高生から家庭向き国語辞典刊行の企画を思いつき、旧知の間柄だった新村出に依頼したのが発端であったそうです。
しかし、新村は当初、そのような辞典を作ることに興味がなく断ったようだが、作るなら本格的な大辞典を作りたいという思いがあったらしい。
岡の重ねての依頼に、「昔、高等師範で教え子であった溝江八男太が手伝ってくれるなら、やつてみてもよい」と渋々承諾したという。
そして、その溝江の進言により、百科的内容の事典を目指す事となったようです。

書名は、岡が新村の考案した数案の中から決めたが、「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』に因んだものだといいます。
しかし編集が進むに連れ膨大なになることから、零細な岡書院の手に余ると判断した岡は、大手出版社へ引継ぎを打診。
岩波には断られるも、岡の友人渋沢敬三を通して事情を知った博文館社長大橋新太郎よりの申し入れがあり、『辞苑』は博文館へ移譲されたようです。

『辞苑』移譲後も、編集助手の人事や編集業務上の庶務、博文館との交渉等の一切は岡が担当し、新村出を中心とする編集スタッフを補佐した。
1935(昭和10)年に『辞苑』は完成。
刊行されると同時に増刷という、好調な売れ行きを見せた。

しかし、収録した内容には不十分な部分もあり、すぐに岡より改訂版の話が持ち上がり、『辞苑』編集時に版元(博文館)との間で行き違いがあった新村は改訂には難色を示していたようだが、再び岡と溝江に説得され、改訂に取り組むこととなった。

改定作業半ばに外来語を考慮していない事に気付き、フランス文学者であり、新村の次男である新村猛を1940(昭和15)年より編集スタッフに加えるが、初めは外来語担当であった猛が、編者の息子であることに乗じて国語項目の書直しや百科項目の拡大を父より叱責を受けるほど行ったため、1941(昭和16)年に予定されていた改訂版刊行は頓挫し、改訂作業が遅れ、完成の目途が立たない内に、第二次世界大戦が勃発。
空襲開始と共に編集部は場所を転々とし、最後は博文館社長邸の一室で猛と2名程の婦人スタッフで実務に当たっていたが編集作業は中断する。

戦後、疎開先から帰京した岡は新村家など数ヶ所に残しておいたために空襲の戦火から免れた『辞苑』改訂作業時の版下になる清刷り(校正刷り)を基に、博文館に『辞苑』改訂版刊行の意思を尋ねるが拒絶される。
その旨は新村出には伝えられたが、その後、猛の交渉により、改訂版は、発行元を代え、岩波書店から刊行されることとなった。

改訂作業は、猛を中心に編集スタッフを揃え取り組むが、そこには、予想外の難問がひかえていた。
それは、戦後の日本の社会情勢が一変しており、使用される言葉そのものも大きく変化し、旧仮名遣いは新仮名遣いに改められ、多くの外来語が生活の中にも入り込んでいた。
又、新語も次々と誕生しており、それらの語も採り上げなければならなかった。

結局、戦後10年を経過した1955(昭和30)年の今日・5月25日に『広辞苑』の書名で発行されたのだが、この発行に際して、博文館との軋轢(あつれき)を懸念した岡は、書名の『辞苑』の引継ぎに異を唱えたが、結局書名は『広辞苑』と決めらたようだが、その後岡の予想通り、“岩波書店と博文館の間で裁判沙汰が起こる事となった。

大手の出版社である岩波書店が『辞苑』の改訂版を刊行する以上は、本来、博文館から版権を譲り受け刊行されるはずである。
『辞苑』と『広辞苑』では名前が似ていて商標上の問題がある。

折口が『辞林』『辞苑』は百科全書の小さいもので、ほんとうの意味での語彙ではないという。
「ある範囲の単語を集めて、一定の順序に並べた書物」

独立行政法人国立国語研究所 が刊行している『分類語彙表』(語を意味によって分類・整理したシソーラス【類義語集】)のようなものではないということではないか。
などと解釈している。

2004年の『分類語彙表―増補改訂版―』 の収録総数は、101,070件という。
だいたい普通の『岩波国語辞典』、それから『新明解国語辞典』など小型国語辞典と言われているもので、6万から7万ぐらい語彙が入っている。
『広辞苑』は20 万、日本で最大の『日本国語大辞典』というのが、40万は入っていると言われている。

特別な言語その他の専門家ではない我々が普通使う語彙は、小型の国語辞典レベルで、だいたい入っていると考えていいという。

普通の字引は、単語が並んでいて、その単語の形から意味を知るためのものだが、シソーラスというのは、逆に意味から形の方へいく。
こういうことを言いたいのに、どういう言葉があるのか、それを探すものである。

「語彙」は、簡単に言えば、語の集まりであるが、日本語の語彙の数は、他国とくらべて非常に多いと言われているようだ。
日本語は、例えば、美人でも、「8頭身美人」のほか、「色白美人」「見返り美人」「秋田美人」「八方美人」などというように、「美人」と言う言葉に他の言葉をつけて新しい言葉を作りやすいからだろう。
そんな語彙の多さがが日本語の豊かな表現力をつくり上げているのだろうが、よく最近の日本人には、日本語の語彙力が不足しているなどと言われているのを耳にする。

国立国語研究所第19回「ことば」フォーラム
“ことばを探す-語彙”の中でも、作家の神津カンナ(本名~津十月。こうづかんな)さんも、「言葉に遊ぶ」と題して、話されている中で、世代による語彙の違いを挙げ、若年層の語彙が貧弱になっているのではないかということを指摘し

例えば、子供が親に「怒られる」「しかられる」という場面では、かつては,「お目玉を食らう」「雷を落とされる」「お小言(こごと)を食らう」「説教される」「諭される」など、状況に応じた使い分けがあり、その言葉を聞いただけで、どの程度のことでどのくらい怒られたのか、場面が想像できたが、若い世代は状況にかかわらず「怒られる」という一つの言葉だけで済ますようになって、もっと的確な言い方があるのにそれが使えなくなってきている。
ことへの憂慮を示している。

子供時代にはどれも使っていた言葉であるが、「お目玉を食らう」「雷を落とされる」「お小言を食らう」などといった言葉は、今では聞かなくなった。

1992年に『逆引き広辞苑』という辞典(見だし仮名の逆順読み配列の辞典)が出版された。
電子辞書の中にも入っているが、見出しを末尾から検索する。
調べたい言葉の後ろの読みを入力するとその読みに関連するいろいろな言葉が出てくる。

逆引き広辞苑の使い方にもあるように、例えばあめと入力すると、「雨」の他「大雨」「小糠雨」「しのつく雨」などが登場、参照にしたがって「雨(さめ)」「時雨(しぐれ)」に飛べばそれぞれ「秋雨」「霧雨」「村雨」「樹雨」、「春時雨」「夕時雨」などが一覧でき、日本人の雨についての多彩な感性が一目瞭然・・・。
慣れれば、結構いろいろなことに使えそうです。





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