戻る ▲トップページ

5月19日 ボクシング記念日・トークの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
クルミ       知恵・野心・知性         ○
シャクヤク   はにかみ・慎ましやか・恥じらい・内気 ○
ハクサンチドリ 間違い・誤解・素晴らしい・美点の持主
          陽気               ○
フクシア(ツリウキ草) センスのよさ         ×
ラン          美人             ×

∞…∞ 5月19日・今日という日 ∞…∞

ロシナンテ   (1997)  タレント、ロバ
三觜要介   (1989)  俳優
宮前るい   (1983)  タレント
山田大起   (1982)  スキー、ノルディック複合
田中丈資   (1982)  俳優
安藤政信   (1975)  俳優
島袋光年   (1975)  漫画家 「世紀末リーダー伝たけし!」
高橋マイケル   (1974)  バスケットボール
サンドロ・チャベス・デ・アシス・ロサ   (1973)  サッカー
荒木久美子   (1970)  ディスコ評論家
SATSUKI   (1969)  元 ZOO
奈良原浩   (1968)  野球
荘口彰久   (1968)  アナウンサー
山崎慎太郎   (1966)  野球
佐藤孝輔   (1964)  俳優
都築和彦   (1962)  漫画家
四方晴美   (1957)  女優
桑名晴子   (1956)  歌手、タレント
大塚芳忠   (1954)  声優
デビッド・ヘルフゴッド   (1947)  ピアニスト
鈴木博文   (1954)  ムーンライダーズ
アンドレ・ザ・ジャイアント   (1946)  プロレス
牛 次郎   (1940)  漫画原作者 「包丁人味平」
井口保子   (1938)  アナウンサー
沢島 忠   (1926)  映画監督
大川 功   (1926)  CSK創業者
ポル・ポト   (1925)  政治家、カンボジア
マルコムX   (1925)  黒人運動指導者
ホー・チ・ミン   (1890)  政治家、ベトナム
薄田泣菫   (1877)  詩人
西田幾多郎   (1870)  哲学者
三宅雪嶺   (1860)  ジャーナリスト
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ   (1762)  哲学者

 ○ 織田信長軍が桶狭間の戦で今川義元軍を破る(1560)
 ○ 幕府が日本人の海外渡航を厳禁し、ポルトガル人とその家族を海外追放とする(第4次鎖国令)(1636)
 ○ 宮本武蔵、没。62歳(1645)
 ○ 横浜駅(現在の桜木町駅)開業(1872)
 ○ ハレー彗星が地球に大接近(1910)
 ○ 対仏ベトナム独立同盟(ベトミン)が結成(1941)
 ○ 経営者団体連合会(経団連)結成(1947)
 ○ 白井義男、ダド・マリノに判定勝ち。日本初の世界フライ級選手権獲得(1952)
 ○ 公団住宅が、初の入居者募集を行う(1956)
 ○ 科学技術庁が開庁(1956)
 ○ 自民党、衆議院で新安保条約を強行採決(1960)
 ○ 今村昌平監督「楢山節考」、カンヌ映画祭でグランプリ(1983)
 ○ 貴花田(16)が7戦全勝で幕下優勝し、柏戸の年少記録を33年ぶりに更新(1989)
 ○ 雲仙・普賢岳噴火で土石流発生。住民避難(1991)


ボクシング世界チャンピオン誕生記念日
1952年(昭和27年)のこの日、ボクシング世界フライ級タイトルマッチで挑戦者の白井義男が判定勝ちし、日本人初のチャンピオンになった。

同窓会の日
懐かしい再会と感動の場である同窓会により多くの人々に参加してもらおうと、Web同窓会「この指とまれ!」などを運営する「株式会社ゆびとま」が制定。
日付は連休になる確率の高いことから毎月第3土曜日とした。

アタチュルク記念日(トルコ)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


桶狭間の戦い(1560)
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いが行われ、尾張の小大名・織田信長が東海の雄・今川義元の大軍を破る大金星をあげました。
当時は戦国末期。
力のある大名は京都にのぼって天皇に認められ、もう名ばかりの存在となっている室町幕府に代わって天下に号令したいと考えていました。
そして東海の雄といわれた今川義元はまさに今京都へ行こうと兵を動かしますが、通り道に尾張の織田がいました。
しかし織田は今川から見ればごくごく小さな勢力。
戦闘というほどのものも必要無いであろうと考えていたかも知れません。

今川の大軍がやってくる。

その知らせを受けた清洲城の織田家重臣たちは「かくなる上は籠城して頑張るしかない」と口々に言います。
その言葉を聞いて無言の信長。
彼は結論を出さないまま重臣たちを解散させ、敦盛を舞います。

そして深夜。
信長は突然出陣の準備を命じます。
集まったのはほんのわずか数百名。
その僅かの手勢の一部を別働隊に任命。
彼らに急ぎ遠く離れた城を急襲させます。
今川は織田がそちらを攻めて来たか?と大軍をそちらに向けますが、その隙に織田本隊は一路今川義元が陣取る桶狭間の山の上を目指していました。

今川は大軍を分散させて進軍していた上に、多くの兵を織田の陽動作戦に惑わされてあさっての方に派遣してしまいました。
かくして、今川の本陣付近にいた兵の数は短時間で集めた織田の兵より少ない状態にありました。
戦争の基本はその戦場において相手より多い人数で戦うことです。
織田信長は頭脳的プレーでこれを実現。
総勢では自軍の数倍になる今川義元と互角以上の戦いをすることに成功しました。

しかも夜中。
ふいをつかれた今川軍は崩れ、義元はあっけなく討ち取られてしまいます。
その討ち取られた所を見た織田軍の足軽の中に、かつては今川軍の足軽をしていて、昔の自分の殿様が目の前で首を取られるのを見、乱世の無常を感じた者がいました。
木下藤吉郎。
後の豊臣秀吉の若き日の姿です。

織田信長の勝利はしばしば奇跡と言われますが、本当は信長が慎重な作戦の末に勝ち取ったものです。数年前から今川は織田の領地を突破するのに備えて織田家中にスパイを潜入させ様子を探らせていました。これに対して織田信長はそのスパイを発見するもしばらくはそのままにしておき、その間に彼の筆跡を腹心の部下に習得させます。そして時期を見て捕らえ密かに処刑。代わりにその筆跡を真似た偽の報告書を数年にわたって今川の元に届けさせていました。

当時の戦争は高度な情報戦です。

最後の決戦の時にも当然家臣の中にまだスパイがいることが予想されました。重臣たちが口々に籠城を叫んでくれたのは信長にとって非常に助かることでした。あるいはわざとそう言わせたのかも知れません。当然、織田は籠城するつもりだという情報が今川のもとに届きます。そこで突然出陣。戦争は相手の機先を制しなければいけません。

その上で更に陽動作戦。織田も今川にスパイを潜入させていますので、相手の場所は十分把握しています。かくして信長は今川義元のいる桶狭間の山の上に迫ることができました。(桶狭間が谷間というのもよくある誤解。今川がいくら油断してもそんな不利な場所に本陣は構えない。実際は小高い山の上らしい。)


『楢山節考』がカンヌでグランプリ(1983)
1983年5月19日、今村昌平監督の『楢山節考』が第36回カンヌ映画祭のグランプリを受賞しました。
今村監督は1997年の『うなぎ』で2度目のグランプリ受賞となりましたが、カンヌ映画祭のグランプリを2度取ったのはフランシス・コッポラ、エミール・クストリッツァ、ビレ・アウグストの3人しかいませんでした。

『楢山節考』は姥捨山伝説を題材にしたもので原作は深沢七郎さん(1914-1987)。
深沢さんのデビュー作(1956)です。
深沢さんは日劇ミュージックホールのギタリストをしていて、この小説は楽屋で書き上げたということです。
衝撃的な素材であるだけに過去色々な人が舞台や映画で取り上げており、木下恵介監督・田中絹代主演のものもありましたが、今村監督のものは主演は坂本スミコです。

今村昌平監督は大正15年東京生まれ。
松竹大船撮影所で小津安二郎監督や川島雄三監督のもとで助監督を務め、のち日活に移って1958年「盗まれた欲情」で監督デビュー。
数々の作品を手がけたのち1974年横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校/川崎)設立。
1983年の「楢山節考」1997年の「うなぎ」でカンヌ映画祭グランプリを獲得したほか、1987年「ZEGEN」1990年「黒い雨」も同祭に出品しています。
ここ最近は数年に1本というゆったりしたペースで映画を作っているようです。

姥捨山というのはもう働けなくなった老人を山に捨ててくるという風習ですが、こういう風習が日本に実在したのかについては両論があって決着がつきません。

ある年齢になったら捨てられるとか足腰が立つものは自主的に山に入るという話がある一方で、昔話には村で困ったことがあった時に捨てられた老人達が出した知恵で乗り切ったというもの、また捨てに行く息子の身体を捨てられる母親が心配しているのに感動して、捨てずにそのまま戻ってきたなどという話もあります。
しかし普段はそういう風習がなかったとしても、飢饉などの時には老人達は実際、若い者たちに優先的に食糧を与え、自ら山に入ったかも知れません。






▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ