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5月15日 沖縄本土復帰記念日、イスラエル共和国独立記念日、いちごの日、お菓子の日
ストッキングの日・ヨーグルトの日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
カーネーション あなたを熱愛する・情熱・熱烈な愛情
白色:愛の拒絶 ○
カーネーション(ピンク)熱愛・美しい仕種 ○
サツキ(ピンク) 節制 ×
ワスレナグサ 真実の愛・私を忘れないで ○
∞…∞ 5月15日・今日という日 ∞…∞
桜井結花 (1993) タレント
藤原竜也 (1982) 俳優
大塚みな (1981) タレント
井上康生 (1978) 柔道
渡辺和洋 (1976) アナウンサー
八木田麻衣 (1976) タレント、元 東京パフォーマンスドール
荒木定虎 (1974) タレント
西島洋介山 (1973) ボクシング
武井宏之 (1972) 漫画家 「シャーマンキング」
桐咲了酒 (霧咲遼樹) (1971) 作家
沢田謙太郎 (1970) サッカー
フランク・デブール (1970) サッカー
ロナウド・デブール (1970) サッカー
辰吉丈一郎 (1970) ボクシング
鈴木幸恵 (1966) タレント、元セイントフォー
藤田恵美 (1963) Le Couple、Vo.
本西厚博 (1962) 野球
暁 光夫 (1962) 浪曲漫談
m.c.A・T (富樫明生) (1961) ミュージシャン
井上俊次 (1960) 音楽プロデューサー、ランティス社長
大森うたえもん (1959) タレント
あろひろし (1959) 漫画家
長谷直美 (1956) 女優
江夏 豊 (1948) 野球
美川憲一 (1946) 歌手
前田忠明 (1941) 芸能レポーター
麻生 渡 (1939) 政治家、福岡県知事
東 峰夫 (1938) 作家
マドレーン・オルブライト (1937) アメリカ国務長官
美輪明宏 (1935) タレント、歌手
伊丹十三 (1933) 映画監督
隆 巴 (宮崎恭子) (1931) 演出家、脚本家
井上光晴 (1926) 作家
菊村 到 (1925) 作家
瀬戸内寂聴 (1922) 作家、僧侶
大竹省二 (1920) 写真家
ポール・サミュエルソン (1915) 経済学者、大学教授
丹羽兵助 (1911) 政治家
福田蘭堂 (1905) 尺八奏者、随筆家
有馬秀子 (1902) バー経営者
西東三鬼 (1900) 詩人
市川房枝 (1893) 政治家
村野藤吾 (1891) 建築家
水野利八 (1884) ミズノ創業者
ピエール・キュリー (1859) 物理学者
寂室元光 (1290) 僧侶
北条時宗 (1251) 室町幕府執権
○ 水野忠邦が天保改革を行うと宣言(1841)
○ 上野彰義隊の戦い(1868)
○ アメリカ初のプロ野球チーム誕生(1869)
○ アメリカ、ボーイング空中輸送が女性スチュワーデスによる機内サービスを始める(1930)
○ 犬養首相射殺。5・15事件(1932)
○ 女性専用おしゃれ煙草「麗」、発売(1932)
○ 初のナイロン製靴下が全米で発売(1940)
○ 英国、クリスマス島で第1回水爆実験(1957)
○ 沖縄本土復帰(1972)
○ セブンイレブン、日本の1号店、豊洲に(1974)
○ Jリーグ開幕。初代王者はヴェルディ川崎(1993)
沖縄本土復帰記念日
1972年(昭和47年)のこの日、戦後27年間アメリカの統治下にあった沖縄が日本に返還され、沖縄県としてスタートしたのを記念した日。
5.15事件記念日
1932(昭和7)年、5.15事件が起こった。
海軍の青年将校・古賀清志中尉らと陸軍士官学校の生徒らが首相官邸等を襲撃し、犬養毅首相が射殺された。
国家改造、軍部政権樹立のため、東京を混乱に陥れようとしての決起したもの。
翌日、内閣は総辞職し、海軍大将斎藤実を首班とする挙国一致内閣が発足して、政党内閣制に終止符が打たれました。
前日に来日して犬養首相と面会する予定だったチャップリンも標的になっていたが、直前に急遽予定を延期して大相撲観戦に行った為に難を逃れた。
国際家族デー
国連が制定した国際デー。
国連総会は1993年(平成5年)に毎年5月15日を「国際家族デー」として記念することを決定。
各国が家族問題に対する認識を高め、家族関連の問題に取り組む能力を高めるため。
聖ソフィアの日
聖ソフィアは天候の変化を気遣うやさしい聖女として信仰される。
5月の寒暖の激しさに体調を崩さないように配慮する日。
ヨーグルトの日
ヨーグルトを研究したロシアのメチニコフ博士の誕生日。
明治乳業が制定した。
博士はブルガリアに長寿者が多いのはヨーグルトに含まれる乳酸菌が原因であることをつきとめた。
また免疫に関する研究によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。
ストッキングの日
1940年(昭和15年)にアメリカのデュポン社がナイロン・ストッキングを全米で発売した。
それまでアメリカのストッキング市場は日本の絹製のもので独占されていたが、これ以降、ナイロン製のものに王座を明け渡した。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
沖縄本土復帰(1972)
5月15日は沖縄の本土復帰記念日です。
太平洋戦争後アメリカに占領されていた沖縄は40年前の明日、昭和47年(1972)5月15日に日本領に復帰しました。
昭和20年の4月から6月に掛けての激しい戦闘でここが米軍の手に落ちて以来27年ぶりの復帰であり、戦争で取られた領土が交渉で戻ってきたのは希有なこととして、交渉を成功させた佐藤栄作首相は後にノーベル平和賞を受けます。
しかしその代償は大きく、沖縄を米軍は自由にベトナム・中東など各地の戦役の拠点として引き続き使用し、猛烈な住民の抵抗が続く中、まだ日本はその基地の規模を縮小を実現することができずにいます。
当時本土復帰後もアメリカがここに基地を維持することを認める口約束の上で初めて復帰交渉が成功したのであったことが、長い年月を経た今明らかになっています。
沖縄県の範囲は北は沖縄本島の少し北の伊平屋島(北緯27度)から南は波照間島(北緯24度)まで、東は太平洋にポツンと浮かぶ北大東島(東経131度)から西は台湾のすぐ近くの与那国島(東経123度)まで、領域の面積は約20万平方キロと本州全体の面積に匹敵する広さを持ちながら、陸部の面積は総合計でも2000平方キロで全国で4番目に狭い県でもあります。
歴史に最初に名前が出てくるのは7世紀頃で「流求」と呼ばれていましたが、この名称は現在の沖縄と台湾を含む地域を指すことばです。
後に現在の沖縄を大琉球、台湾を小琉球と呼ぶようになりました。
1187年舜天が最初の王朝を作り、1326年からは中山・北山・南山の三山分立の時代が始まります。
この頃混乱に乗じて多くの倭寇がこの地域を拠点として東シナ海を荒らし回りました。
しかしやがて1429年に尚巴志が三山を次々に攻略して沖縄を統一、琉球尚王朝を築きます。
その後貿易の拠点として繁栄を続けますが、1592年日本を統一した豊臣秀吉が琉球にも賦役を求め、更に1609年には日本の薩摩藩島津氏が出兵して占領。
王朝を従属させて、奄美を直轄地として奪った上、以後朝貢を要求しました。
しかし王朝は存続を認められたため江戸時代琉球では中国との国交も引き続き維持しています。
またその微妙な沖縄の地位が薩摩藩に莫大な富をもたらし続けました。
当然それが明治維新の原動力の一つになります。
1853年日本に来たペリーはその足で琉球にも寄り、琉米修好条約が結ばれます。
しかし日本はここを自国の領土であると強く主張、同じく領有権を主張する中国(清)も振り切って明治12年(1879)強引にここに「沖縄県」を設置、以後ここが日本固有の領土であることを既成事実化していきます。
琉球尚王朝はこの沖縄県設置とともに廃止されました。
昭和19年10月10日以降の米軍の空襲と、昭和20年4月1日から6月23日まで続いた米軍沖縄上陸作戦では軍人民間人あわせて20万人もの犠牲が出ます。
戦争終結後もアメリカは沖縄と奄美(1953復帰)・小笠原(1968復帰)を日本から切り離して管理、すぐに戦争の始まった朝鮮、引き続いてもめたベトナム他インドシナそして果てしない戦いの続く中東へと軍隊を派遣するための前線基地・中継基地として沖縄は使用されてきました。
その間アメリカ軍は沖縄の人々を従属国の人間として見下した扱いをし、その風潮は復帰後67年たった今も大きくは変わっていません。
フランク・バウム(1856-1919)
「オズの魔法使い」の作家、フランク・バウム(Lyman Frank
Baum)は1856年5月15日、ニューヨーク州のChittenangoに生まれました。
(「フランク・ボーム」と書いている人も多い。英語読みすればボームなのだろうが、ドイツ語っぽい気がしてバウムと読んでいる人が多い。実際はどちらなのだろうか.....)
身体が弱かったため学校には行かずに家で勉強し、20代になってからは俳優や雑誌記者など多数の仕事に従事、やがて1899年に最初の作品「Father
Goose」を発表、そして1900年に「オズの魔法使い」が大ヒットして、人気作家になりました。
なお彼は多数のペンネームを使用しており、下記のようなものがあります。
Schuyler
Staunton, Laura Bancroft, Captain Hugh Fitzgerald,Suzanne Metcalfe, Floyd Akens,
Edith Van Dyne, George Brooks,Louis F. Baum, John Estes
Cooke
バウムは「オズの魔法使い」の序文でこのようなことを書いています。
幾世代もの人に語られて来た昔からのおとぎ話は今や子供たちの本棚の中では「古い話」という所に入れられているかも知れません。
型にはまった魔神や小人や妖精などは、物語に恐ろしい寓意を強調するため作者が考案した身の毛のよだつ血も凍るような出来事とともに消してしまい、もっと新しい「不思議な物語」を作る時代が来ています。
現代の学校教育には道徳の時間が入っています。ですから現代の子供達は不思議物語の中に娯楽だけを探し、不愉快な出来事はみんなあっさり省いてしまうのがよいでしょう。
この考えを心に置いて「オズの素晴らしい魔法使い」の話は今日の子供たちを喜ばせるためだけに書きました。この物語は心を痛めるできごとや悪夢などは除外されており、不思議と楽しさだけが入っている現代的おとぎ話にしあげたつもりです。
ここに「イソップ物語」や「グリム童話」のような教訓付きの物語から脱した純粋娯楽童話を開始しよう、というわけです。
これはある種児童文学の革命であったかも知れません。
なお、作者自身によるオズの物語は下記の14作品です。
1900
The Wizard of Oz オズの魔法使い (初版:The Wonderful Wizard of Oz)
1904 The Land of
Oz オズの虹の国 (初版:The Marvelous Land of Oz)
1907 Ozma of Oz オズのオズマ姫
1908
Dorothy and the Wizard in Oz オズと不思議な地下の国
1909 The Road to Oz オズへつづく道
1910
The Emerald City of Oz オズのエメラルドの都
1913 The Patchwork Girl of Oz
オズのつぎはぎ娘
1914 Tik-Tok of Oz オズのチクタク
1915 The Scarecrow of Oz
オズのかかし
1916 Rinkitink in Oz オズのリンキティンク
1917 The Lost Princess of Oz
オズの消えたプリンセス
1918 The Tin Woodman of Oz オズのブリキの木樵り
1919 The Magic of Oz
オズの魔法くらべ
1920 Glinda of Oz オズのグリンダ(バウムは1919年5月6日に亡くなった。これは死後出版されたもの。)
ストッキングの日(5.15)
5月15日は「ストッキングの日」です。
まぁほんとに色々な記念日があるものですね。
これは1860年5月15日に、アメリカで初めてのプロ野球チーム、シンシナティ・レッド・ストッキングが発足したのを記念したものです。
というのは真っ赤な嘘で(^^;
1940年5月15日にアメリカのデュポン社が初めてナイロン製ストッキングを発売したのを記念するものです。
(1860年5月15日にレッド・ストッキングが発足したのは事実ですが、偶然の一致という奴でしょう)
ストッキング(昔はフルファッションと言った)はそれまでは絹製が主力でしたが、デュポンはハーバード大学のウォーレス・カロザースをスカウトして来て新繊維の研究を進め、1935年ナイロンの開発に成功します。
商品化のメドが立った1938年に発表した時のキャッチフレーズは「石炭と水と空気から出来ていて、鉄のように強くクモの糸のように細い」でした。
「ナイロン」の語源は「ノーラン(伝線しない)」です。
日本では戦争が終わってアメリカ文化が流入し始めるとモンペをスカートに履き替えた女性たちがまず進駐軍経由でナイロン製ストッキングを手に入れ始めます。
そして1951年には東洋レーヨンがナイロンの生産を始め、翌1952年には郡是製糸(現グンゼ)がナイロン製ストッキングを発売しました。
こういう初期のナイロン製ストッキングは今では信じられない話ですが絹製のものより高価でした。
絹より丈夫なのでそれでも売れた訳です。
当時のストッキングは後ろに1本まっすぐに入った縫目(シーム)が一種のシンボルでした。
戦時中で物資のない時代、女性たちの中にはストッキングを履いているように見せるために脚に絵の具を塗って、きちんとシームも描いたりする人もいました。
きれいにまっすぐ描くより、どこか少し曲げた方が本物っぽく見えるなどという話もありました。
絹と違ってナイロン製の場合は、ほんとうはここに縫目を入れる必要はないのですが、縫目がないと恥ずかしいという意見が強く、わざわざシームを作っていました。
その常識に挑戦したのが厚木編織(現アツギ)でした。
1961年厚木は「ねえねえ君々履いてないのかい?わかってないのね、履いてるのよ」というCMを流して、シームレス・ストッキングのブームを創出しました。
流行ってみるとシームレスの方が、シームをまっすぐに履く面倒がなくて楽なので、それ以後ストッキングは縫目が無いのが当たり前になってしまいます。
なお、ナイロンの発明者カロザースはデュポンがナイロンを発表する以前に謎の自殺をしてしまいます。
当時このプロジェクトは極秘でしたので彼の死亡記事には『合成ゴムの研究者』という肩書きがつけられていました。
自殺の原因は、社内で研究の主導権を取れなくなった為など色々言われていますが、よくは分かっていないようです。
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