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5月14日 温度計の日・種痘記念日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アイリス 愛・消息・あなたを大切にします・伝言・優雅
恋のメッセージ・使者・変わりやすい ○
オダマキ のろま・移り気・勝利の誓い
心配して震えている・不品行・愚鈍・負け知らず
別れた恋人・かならず手に入れる ○
オダマキ(紫) あの人が気掛かり・勝利への決意 ×
ペチュニア(ピンク)自然な心 ○
ワスレナグサ 真実の愛・私を忘れないで ○
∞…∞ 5月14日・今日という日 ∞…∞
ウォーターハウス美希 (1986) タレント
ウォーターハウス亜耶 (1986) タレント
石井智也 (1984) 俳優
麻見奈央 (1982) タレント、BONITA
吉野紗香 (1982) タレント
柴田亜衣 (1982) 水泳
市川大佑 (1980) サッカー
霧賀ユキ (?) 漫画家
豊田綾乃 (1976) アナウンサー
秋谷智子 (1976) 声優
日村勇紀 (1972) タレント、バナナマン
柏田貴史 (1971) 野球
下川健一 (1970) サッカー
後藤孝志 (1969) 野球
松井大典 (1968) モデル
T2ya (?) 音楽プロデューサー
高橋和興 (河合 宏) (1960) 俳優
佐戸井けん太 (1957) 俳優
古尾谷雅人 (1957) 俳優
ベイダー (1956) プロレス
くらもちふさこ (1955) 漫画家 「おしゃべり階段」
大間ジロー (1954) 元オフコース、Dr.
樋口裕一 (1951) 作家、白藍塾主宰
ロバート・ゼメキス (1952) 映画監督
鈴木博之 (1945) 建築史家
ジョージ・ルーカス (1944) 映画監督
桑原征平 (1944) アナウンサー
伊藤 勲 (1942) 野球
佐原健二 (1932) 俳優
井上八千代 (1905) 舞踏家
前川国男 (1905) 建築家
斉藤茂吉 (1882) 歌人
徳川家慶 (1793) 徳川幕府将軍
ガブリエル・ファーレンハイト (1686) 科学者
北条時頼 (1227) 室町幕府執権
○ 英国のジェンナー、種痘の実験に成功 (1796)
○ 幕府が渡辺華山・高野長英ら弾圧。蛮社の獄(1839)
○ 勝海舟、神戸海軍繰錬所を開設(1863)
○ 大久保利通暗殺さる(1878)
○ 大リーグで史上初のナイター、実施(1935)
○ イスラエル共和国の建国が決定する(1948)
○ 横綱・大鵬引退(1971)
○ 信楽高原鉄道で列車衝突事故。死者42人(1991)
○ 横綱・千代の富士引退(1991)
種痘の日
1796年のこの日、エドワード・ジェンナーが8才の少年ジェームス・フィップスの腕に乳しぼりの女性サラ・ネルメスの手に出来た牛痘病変から採った材料を接種した。
これが種痘の最初である。
当時天然痘はもっとも恐ろしい病気の一つであったが、種痘による予防が可能となってから以後、天然痘による死亡者は劇的に減少し、1980年(昭和55年)5月に世界保健機構によって根絶宣言が為された。
温度計の日
温度計の発明者であるドイツの物理学者、ファーレンハイトの誕生日にちなんで。
華氏温度目盛り(°F)は彼の頭文字からとられている。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
アメフト最初の日(1874)
一説によれば1874年5月14日、初めてアメリカンフットボールの試合が行われたとされます。(15日という説もある)
対戦したのはハーバード大のチームとモントリオールのマックギル大学のチームでした。
ただ当時は、どちらかというとラグビーに近いものであったようです。
アメリカにフットボール(日本とアメリカではこれを昔は「サッカー」と呼ぶ)が紹介されたのは1867年であるとされています。
始めたのはプリンストン大学で当時はサッカールールですがプレイヤーは25人でした。
続いてラトガーズというところでもやはりサッカーを始めたのですが、プリンストン大学とはルールが異なっていました。
両者は1869年11月6日に親善試合をおこないますが、この時にルールの統一を図り、ボールを持って走ることと投げてパスすることが認められました。
しかしこの時はまだボールは丸いサッカーボールでした。
これ以降、このタイプのスポーツが各地の大学で盛んになります。
ルールは少しずつ変わって行っているので、どれが最初の「アメリカンフットボール」かというのは難しいと思うのですが、1874年のハーバードvsマックギルの試合はかなりラグビーに近いものであったようです。
1880年にはチームの人数が11人とされ、1882年には3回以内の攻撃でボールを5フィート進めたらファーストダウンとして続けてその場所から攻撃を続けられる制度が導入されます。
これによりアメフトは陣地の取り合いをするという、現在のアメフトに近いものになりました。(現在は4回以内の攻撃で10フィート進めばファーストダウン)
1883年には得点が次のように定められます。
ゴールが5点・タッチダウン(最後まで陣地を奪った時)後のキック4点・セーフティ(自分のエンドゾーン内で攻撃が停止してしまった場合)1点
しかし翌年には タッチダウンで4点、そのあとキックも決めたら2点と改訂されました。
なお現在は
ゴール3点・タッチダウン6点・セーフティ2点・タッチダウン後のキック1点・再タッチダウン2点
となっています。
アメフトのルールはだいたい1912年頃までに固まっています。
その後の大きな変更としては1945年にミシガン大学が始めた、攻撃と守備で選手をまるごと入れ替えてしまうという方式でしょう。
これはいったん1953年に禁止されますが1965年に正式に許可されて、今日ではこれが普通になりました。
最初のボウルゲームであるローズボウルは1902年に始まっています。
オレンジボウルが1933年、シュガーボウルが1935年です。
アメフトのビッグゲームは試合をおこなう球場を器に見立ててボウル(bowl)といいます。
ローズとかオレンジとかは、だいたいその土地の名産品を名前に取ったもので、これをまねて日本でもボウルゲームが導入された時、日本はやはりお米だろうということで、ライスボウルという名前が決まった経緯があります。
プロリーグのNFLが始まったのは1920年。
今日では、アメリカでは野球の大リーグ、バスケットのNBAと並ぶ人気観戦スポーツとなっています。
学生ではこの3つを掛け持ちする選手もしばしばおり、夏は野球、秋はアメフト、冬はバスケットというのが、彼らの毎年のスケジュールになっています。
一時期ハワイでアメフトの選手を盛んに日本の相撲にスカウトすることが行われていましたが、これはアメフトのラインの押し合いが、まさに相撲の押し合いと同じパターンであるからです。
アメフトは専門職のゲームであり、選手の役割がきれいに別れています(背番号でも区分けされている)。
大雑把にいうと、前方で押し合いをして陣地の奪い合いをするラインの選手と、ボールを投げてパスしたり持って走ったりするバックスの選手に分けられるのですが、ラインの押し合いはまさに体重と腕力の勝負になります。
小錦・曙・武蔵丸クラスの人たちが5人並んで押して来られたら、軽いラインマンしかいなチームはもう体重だけで吹き飛ばされてしまいます。
逆にバックスには小柄で素早いタイプの選手も多数います。
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