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5月 4日 国民の休日(1989)、ラムネの日、ファミリーの日、競艇の日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
イカリソウ 人生の出発・君を離さない ×
イチゴ 先見・尊重と愛情・誘惑・甘い香り ○
イワナシ 恋のうわさ ×
スターチス(紫) 上品さ・しとやか ○
ヤマブキ 気品・待ちかねる・崇高 ○
∞…∞ 5月 4日・今日という日 ∞…∞
りょういち (1982) ジャパハリネット、Dr.
光永亮太 (1980) 歌手
大黒将志 (1980) サッカー
波戸康広 (1976) サッカー
大山アンザ (1976) タレント
マイク・ダーント (1972) Green Day、Bass
伊東貴明 (1971) 俳優
上山道郎 (1970) 漫画家 「怪奇警察サイポリス」
長谷川潤 (1968) 漫画家
菊池桃子 (1968) 女優、タレント
やまだひさし (1967) ディスクジョッキー、タレント
杉田あきひろ (1967) 歌のおにいさん
矢島晶子 (1967) 声優
笠原竜司 (1967) 俳優
山本はるきち (1960) 作曲家
島田 衛 (1959) ミュージシャン、GARDEN
島田 繁 (1959) ミュージシャン、GARDEN
馮 智英 (1956) ハイ・ポーズのおねえさん
江原正士 (1953) 声優
近藤房之助 (1951) ミュージシャン、元 B.B.クイーンズ
佐藤忠志 (1951) 塾講師、タレント
青山和子 (1946) 歌手
真理明美 (1943) 女優
永淵洋三 (1942) 野球
坂本 孝 (1940) ブックオフコーポレーション社長
小沢遼子 (1937) 評論家、政治家
正司花江 (1936) 女優
大内順子 (1934) 服飾評論家
樋口恵子 (1932) 評論家
仲谷 昇 (1929) 俳優
オードリー・ヘップバーン (1929) 女優
田中角栄 (1918) 政治家
ヴィークトル・スタルヒン (1916) 野球
前田山英五郎 (1915) 相撲
森繁久彌 (1913) 俳優
笹川良一 (1899) 日本船舶振興会会長
芹沢光治郎 (1897) 作家
小泉信三 (1888) 経済学者
ブルーノ・タウト (1880) 建築家
ルイ・テナール (1777) 化学者
池 大雅 (1723) 画家
相良頼房 (1574) 戦国武将
○ 藤原保則が陸奥の蝦夷制圧に出発(878)
○ 伏見城の天守閣、完成(1597)
○ エブソムでダービー初開催(1780)
○ 千葉勝五郎がラムネの製造販売許可を得る(1872)
○ 郷従道と大久保利通の会見が長崎で行われ、台湾出兵の実施が決まる(1874)
○ 独・仏・露、三国干渉。政府が遼東半島の全面放棄を決める(1895)
○ 第一回全国中学校陸上競技選手権大会開催(1919)
○ プロ野球第一号本塁打(1936)
○ TBSが外科医師の物 語「ベン・ケーシー」の放送を開始(1962)
○ 堀江謙一、ヨットで世界一周に成功(1974)
○ 女性初のマナスル登頂に日本女性山岳隊が成功.。女性で初めて8000メートル以上の山征服(1974)
○ サッチャー、英国史上初の女性首相に(1979)
祝日・休日
みどりの日・自然に親しむとともにその恩恵に感謝し豊かな心をはぐくむ日。
ラムネの日
1872年(明治5年)の今日、東京の千葉勝五郎氏がラムネの製造販売の許可を初めて得たことにちなむ。
エメラルドの日
コロンビアエメラルド輸入協会が制定。
「みどりの日」にちなみ、緑色の宝石エメラルドをPRする日(2006年までは4/29)。
ノストラダムスの日
1555年、フランスの占星術師・ノストラダムスが『百篇詩集(諸世紀)』を出版したことにちなむ。
競艇の日
競艇場のイメージの向上と競艇ファンの拡大をねらい、下関競艇場が制定した。
五四中国青年節(中華人民共和国)
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
日本女子隊マナスル登頂(1974)
昭和49年(1974)5月4日、遠藤京子さん率いる日本女子登山隊がヒマラヤ山脈のマナスル(標高8156m)に登頂成功、中世古直子さんら3名が世界で初めて8000m級の山の山頂に立った女性となりました。
マナスルは世界で7番目に高い山で、1956年に槙有恒さん率いる日本男子登山隊が初登頂に成功しています。
遠藤京子さんは最近はヒマラヤの植林運動と医療支援活動に力を注いでおり、森林破壊の進んでいる高地の緑を復活させるため「ヒマラヤン・グリーン・クラブ」を組織、しばしば緑化の作業で現地へ赴いています。
ラムネの日(5.4)
明治5年(1872年)の5月4日、東京で、千葉勝五郎という人が商業的なラムネの製造販売を始めました。
これを記念して5月4日はラムネ記念日となっています。
「ラムネ」を定義するのは微妙に難しいのですが、法的には玉栓で密封された炭酸飲料、ということになっているようです。
味は特に規定されていないのですが一般的な「ラムネ」は重曹とクエン酸の化合によって作られており、「ラムネ味」の正体はこの2つの成分(特に主としてクエン酸)です。
ラムネ的なものが最初に日本にお目見えしたのは、ペリーが浦賀に来航した時(1853)で、ペリー艦隊の乗組員が日本側の交渉役を接待しようと炭酸水を振る舞ったそうです。
このとき開封時の「ポン」という音に日本側の役人は発砲でもされたかと驚き、思わず刀に手を掛けたといいます。(但し当時はコルク栓)
このあとこの手の炭酸水は1860年代になると長崎経由で輸入されるようになるとともに、国内でも製造を始めるものが現れるのですが、実は誰が最初なのかというのは、どうもよく分かりません。
「ラムネの日」の元になっている千葉が最初ではないか、というのも実はひとつの説に過ぎません。
千葉説と並んで有力なのが、藤瀬半兵衛(兵五郎)という人が1865年に長崎で製造販売を始めたとするもので、彼は後に1890年に東京に進出しており、この店の2代目に付いてラムネの製造法を学んだのが、現代まで残る日東飲料の創業者・西尾福松です。
千葉説・藤瀬説のほかに、東京で1869年に鈴木乙松という人が始めたのが最初だという説などもあるようです。
年代的には各々の人はその年代に確かに製造を始めたのでしょうが、問題は商業的なレベルだったのかで、この付近は今後の研究を待たないと結論を出せないところのようです。
なお、三ツ矢サイダー(平野水−元々は自然の炭酸水)の創業は1884年です。
さて「ラムネ」という名前なのですが実は元々は「レモネード」です。
これが当時の日本人には発音しにくかったので、なまって「ラムネ」になってしまいました。
「ヘップバーン式ローマ字」がなまって「ヘボン式ローマ字」になってしまったのと似たようなものです。
この初期の頃のラムネ或いは炭酸水は、ペリーが持ってきたものと同様のコルク栓だったのですが、やがて1888年にガラス玉の栓で密封する方式が特許切れで誰でも利用できるようになると、この方式が爆発的に普及しました。
コルク栓を使うのに比べてガラス玉の栓は、栓が乾燥して栓が劣化し炭酸が抜けてしまう事故を防げる上に、瓶と栓のセットを完全に再利用することができてコスト的なメリットもあったのです。
しかもこのガラス玉で栓をするやり方は、学校の理科の実験でやった方もあるかも知れませんが、比較的容易に誰でもできるものです。
その後、大手の炭酸水製造メーカーは新しく開発された王冠栓に移行してしまうのですが、王冠栓は大規模な製造設備が必要なので、零細製造業者は相変わらず玉栓を使用し続けました。
このため「玉栓のラムネ」というのは、小さな町食堂や夜店・銭湯などで見られる、超庶民的な飲み物として生き残ることになったのでした。
そのラムネも一時期、昭和40年代頃には製造業者の後継者不足などで、あまり見ないものになっていた頃もあります。
しかしその後レトロブームでまずは王冠栓のラムネ味の飲料が復活し、その後「やはりラムネは玉栓がいい」とい
う消費者の声に応えて、近年では昔ながらの、玉栓方式のラムネをかなり見ることができるようになってきました。
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