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5月 3日 憲法記念日、ひろしまフラワーフェスティバル (〜5・広島市)
     博多どんたく(〜4・福岡市)、KOBEメリケンフェスタ(神戸市)
     横浜開港記念みなと祭国際仮装行列 (横浜市)


花ノ名前      花ことば            誕生花として
スズラン      幸せの再来・幸福・純潔・純愛
          清らかな愛・繊細         ○
タンポポ      真心の愛・神のお告げ・別離・軽率
          思わせぶり・明朗な歌声      ○
ボタン       壮麗・恥じらい・高貴・富貴    ○

∞…∞ 5月 3日・今日という日 ∞…∞

ナリタブライアン   (1991)  競走馬
田村領平   (1984)  野球
為末 大   (1978)  陸上競技、障害
真島ヒロ   (1977)  漫画家 「RAVE」
壱智村小真   (1977)  声優
Klaha   (?)  MARICE MIZER、Vo.
茅田砂胡   (?)  作家
義山亭石鳥   (1973)  漫画家
熊倉裕一   (1971)  漫画家 「王ドロボウJING」
沢田玉恵   (1970)  女優
丹羽貞仁   (1969)  俳優
片寄明人   (1968)  GREAT3、Vo.
掟ポルシェ   (1968)  ロマンポルシェ。
イバン・クルーズ   (1968)  野球
大久保乃武夫   (1967)  タレント、ポカスカジャン
サム・グレコ   (1967)  空手家
リカちゃん (香山リカ)   (1967)  人形
湯上谷ьu   (1966)  野球
野村宏伸   (1965)  俳優
梅乃里昭二   (1964)  相撲
相原コージ   (1963)  漫画家 「コージ苑」
松尾伴内   (1963)  タレント
薔薇憂鬱彦   (1963)  作家
上田早苗   (1963)  アナウンサー
古田三奈   (1963)  歌手
水玉螢之丞   (1959)  イラストレーター
藤田光則   (1958)  ダンガンブラザースバンド、Bass
福田裕彦   (1957)  キーボード奏者
笹路正徳   (1955)  音楽プロデューサー
岩井友見   (1951)  女優
大空遊平   (1951)  漫才師
三宅裕司   (1951)  タレント、俳優
クリストファー・クロス   (1951)  歌手
カーリー西條   (1949)  料理研究家
酒井くにお   (1948)  漫才師
岩崎紘昌   (1946)  西洋アンティーク評論家
ジミー・ウィリアム   (1946)  野球
橋 幸夫   (1943)  歌手
ベレ・チャスラフスカ   (1942)  体操
ジェームズ・ブラウン   (1933)  歌手
島田啓三   (1900)  漫画家 「冒険ダン吉」
陣幕久五郎   (1829)   相撲
大村益次郎   (1825)  戦術家
ニッコロ・マキャヴェリ   (1469)  政治学者

 ○ 後醍醐天皇、徳政令を発布(1334)
 ○ 江戸幕府、糸割符法を開始(1604)
 ○ 土方歳三が五稜郭に戻る(1869)
 ○ 東京気象学会設立(1882)
 ○ 大阪で初の地下鉄、梅田〜心斎橋間開通(1933)
 ○ 「風と共に去りぬ」ピューリッツアー賞に(1937)
 ○ 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷(1946)
 ○ 日本国憲法施行(1947)
 ○ 常磐線三河島駅で脱線・衝突。死者160人(1962)
 ○ 三重県の鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリ自動車レース大会が開催される(1963)
 ○ プロ野球巨人軍の王貞治選手が対阪神戦で史上初の1試合4打席連続本塁打を放つ(1964)

憲法記念日
日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
1947年(昭和22年)の今日、日本国憲法が施行されたことによる。
日本国憲法は「主権在民」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」を三つの柱にしている。
天皇を象徴とするこの憲法はポツダム宣言に基づいた連合国の占領下の国会において定められたもののため、連合国から押し付けられた憲法として、改憲を望む声もある。
しかし、平和憲法と高く評価する人も多く、この日は、改憲派、護憲派のそれぞれが集会などを開き、自分達の主張をアピールする。

世界報道自由の日
1993(平成5)年12月20日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1991(平成3)年、ユネスコと国連によってナミビアのウィントフークで開かれていた「アフリカの独立、多元主義的な報道の促進に関するセミナー」で、「アフリカの独立、多元主義的な報道の促進に関するフイントフーク宣言」が採択された。
民主主義にとって表現の自由は必要不可欠なものであり、表現の自由の侵害に対して抗議行動を起こすよう世界に呼びかける日。(World Press Freedom Day)

リカちゃんの誕生日
タカラから発売されている人形「リカちゃん」の誕生日。
「リカちゃん」は牧美也子の漫画キャラクターをもとに作られ、1967(昭和42)年7月に発売された。
5月3日生まれの小学5年生で、父親は海外へ単身赴任中、母親はファッションデザイナーという設定になっている。

ゴミの日
「ご(5)み(3)」の語呂合わせ。

可有忌(かゆうき)、木綿忌
誹風柳多留の編者、呉陵軒可有(天明8年5月29日(1788年7月2日)没)を偲ぶ法要が龍宝寺で行われる。

で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ


憲法記念日(5.3)
昭和22年(1947)5月3日3日本国憲法が発布されました。
それを記念して昭和23年7月の「国民の祝日に関する法律」で、この日が祝日と定められました。

その後この憲法は全く改正を加えられることなく継続し、天皇象徴制・三権分立・民主主義・人権尊重・平和主義などをうたっています。

憲法に関してよく議論されるのが第九条の問題です。

 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
     国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
     国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

   (2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを
     保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これを作った時には国連の平和維持機能への期待が高く、軍隊を自国で持つ必要はないという考え方があった訳ですが、その期待は朝鮮戦争でもろくも崩れてしまいます。
結果、当時の日本の法律に優先するGHQ指令で警察予備隊が創設され、それは保安隊→自衛隊と発展してきました。
現在では自衛隊は実戦経験こそないものの軍備的には世界で5本の指に入る強力な軍隊であるとも言われています。(上は多分アメリカ・ロシア・イギリス。中国・インドとはやってみないと分からない所....やって欲しくないですが)

ここまで来たら憲法を改訂したほうがすっきりすると思うのですが、この憲法が愚かな政治家に愚かな考えを懐かせない抑止力になっていることも事実であり、これは当面このままで良いのかも知れません。

アメリカの政府高官が昔言ったとか言わなかったという話で、日本政府と軍事問題を話し合おうとすると二言目には「日本国憲法では」と言われて、うんざりする。
しかしイギリス政府と話し合おうとすると、あいつらは今度は「マグナカルタでは」と言いだしやがる、と。

イギリスの憲法マグナカルタは1215年に定められたものでなんと800年近くたっていますが、イギリス人はこの「大憲章」を改訂しようとはせず解釈の変更で800年間やってきています。
日本人とイギリス人というのは性格的に似たところがあるのかも知れません。

なお、日本国憲法の前文にはこうもあります。

  われらは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去
  しようと務めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。

この文章が日本が国連を通して軍事力を行使することを認めていると一般には言われています。
また第六十六条2項には

  内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。

という条項があります。
文民でなければならないというのは、要するに現役の軍人は大臣になれないという意味であり、ここにも暗に軍隊の存在を認める文章が紛れ込んでいます。

『われらは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう
と務めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ』

アメリカなどは文字主義の強い国ですので法律に定められていないことは実行しない、といった風潮などもあり、法律の解釈が絡んで凄まじい数の訴訟が起きる訴訟国家です。
日本の憲法が65年も改正されていないのはおかしい、などと不改正に対する批判をする人もありますが少し論点が外れているような気もしますし、また、全てを法律で決めないといけないと考える考え方もアメリカの影響の受けすぎという気もします。

日本の軍備に関しては上記にあげた前文の記述と戦争放棄をうたった9条とがもともと矛盾しており、今軍備ができると明記した憲法に変えて愚かな政治家が愚かな戦争をやったりするようにしたら全く愚かな選択です。

明治維新以前に日本が侵略戦争をやったのは、4世紀の神功皇后の朝鮮出兵以降の朝鮮半島の倭国領経営時代・7世紀の天智天皇の白村江の戦い・16世紀の豊臣秀吉と3回しかありません。
憲法を改正する場合は、その前に国会から愚かな政治家を駆逐してからやりたいものです。


朝日新聞襲撃事件(1987)
1987年5月3日20:15頃、西宮市の朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った男が侵入、二階編集室にいた記者に向けて発砲。
小尻和博記者(当時29歳)が死亡。
犬飼兵衛記者(当時42歳)も重傷を負いました。

事件の3日後に共同通信などに「赤報隊」を名乗るものから犯行声明があり、同年1月24日に朝日新聞東京支社へも発砲していたことを明らかにしました。
このグループは、その後、朝日新聞名古屋本社でも無人の食堂で発砲した他、朝日新聞静岡支社に時限爆弾を仕掛け、中曽根康弘・竹下登両元首相に脅迫状を送ったり、韓国系の団体の施設に発煙筒を投げ込むなどの行動を続けましたが、その後、表だった活動を停止し、ずっと沈黙しています。

事件の性質からこのグループは右翼系の過激団体と推測されましたが、警察では過激な行動を取る団体については左翼系については1960〜1980年代に活発な活動をしていたためいろいろ情報が収集されていたのですが、右翼系の団体ではこういう活動をするものが過去になかったため、全くデータがなく、結局、現在にいたるまで、この「赤報隊」のことについては何も分かっていません。
事件は全てもう時効になっています。

元々の赤報隊というのは明治維新の時に、東進する官軍の先駆けを務め、これからは将軍の時代ではなく天皇が直接統治する時代になるのだ、ということを通り道の地域で宣伝してまわったグループなのですが、後に、赤報隊に広報させていた政策(税金の半減など)が実現できないことが分かり、官軍は赤報隊に「偽官軍」の汚名を着せて処刑してしまったものです。
リーダーは相楽総三という人でした。
この時代には会津戦争なども含め、不条理な事が多く起きています。

現代では赤報隊は多少の行き過ぎなどもあったものの基本的には殉国の士というイメージが強く、そのあたりが朝日新聞事件を起こした団体がその名前に使わせてもらった理由なのかも知れません


赤間神宮先帝祭(5.3)
1999年の赤間神宮(山口県下関市)の先帝祭は5月3日のみで終わりました。

例年は5月3日に上臈参拝などの神宮内での行事が行われ、4日に源平合戦・巌流島決戦などが行われていたのですが、この年からはこういった一連の行事を3日に全部やってしまうことになりました。

赤間神宮は源平の壇ノ浦合戦で亡くなった安徳天皇をお祀りする神社で、昔はお寺だったのですが、明治以降は天皇家が仏教から神道に変わったのに合わせて神社になりました。
異国風の赤い山門が特徴的です。

安徳天皇は平清盛の孫。
清盛が元気な時はまさに平家繁栄の象徴でしたが、その平家も、清盛が亡くなると、源氏が勢いを盛り返し、義経の天才的戦術にもやられて天皇とともに西海まで追いつめられることになりました。

この戦いで負けを悟った清盛の妻・二位尼とともに入水。
続いて入水しようとした天皇の母で清盛の娘・建礼門院は源氏の兵にすくい上げられて余生を京都・大原で過ごすことになります。
時代は無情です。

その平家を追い落とした源義経も兄の頼朝に追われる身となって東北平泉で自刃。
その頼朝も征夷大将軍になるも落馬事故であっけなく死亡。
その直系の血もまもなく絶えて、時代は平家の一族である北条氏の天下となります。

安徳天皇の遺体と霊は三種の神器のひとつ草薙剣とともに今も壇ノ浦の海中にあるそうです。


七尾青柏祭(5.3-5)
5月3日から5日まで、能登半島七尾市では日本最大級の曳き山で知られる青柏祭(せいはくさい−国重要無形民俗文化財)が行われます。(2日も一部行事が行われます)

青柏祭は、大地主神社(山王神社)の春祭りです。

祭の主役は巨大なことから「でか山」と呼ばれている曳き山。
市内の鍛冶町・魚町・府中町の3ヶ所に伝わるもので、高さ12m超、車輪の直径は2m、重さ20トン以上で、大きさ2mほどの人形を飾り付けて、歌舞伎の名場面などを再現します。
この巨大な曳き山が七尾市内を巡行します。

今年のお題は鍛冶町−七尾城評定の場、府中町−奥州安達ケ原三段目、魚町−連獅子信長出陣の場です。

人形の配置は時間帯によっても変わります。
運行は3日の夜から5日深夜まで。
途中4日の昼には大地主神社、5日午後2時には御祓川の仙対橋に3台の曳き山が集合します。
見に行かれる方は、これを狙うのもよいでしょう。

【見どころ】
5月2日 夕刻、市内の人形宿に「でか山」の人形が飾られます。
5月4日 正午過ぎ、3台の「でか山」が大地主神社(山王神社)にそろいます。
5月5日 午前11時半頃、能登食祭市場前に3台の「でか山」がそろいます。
その後、七尾駅前(ミナクル・パトリア)と御祓川河畔に向かい再び3台の「でか山」がそろいます。

http://www3.city.nanao.lg.jp/event-topics/svEveDtl..


喜多川歌麿(1753?-1805)
文化2年(1805)江戸後期の代表的な浮世絵師の一人、喜多川歌麿(1753?-)が亡くなりました。

江戸浮世絵は狩野派・土佐派といった公式の絵師たちの流れから外れた町絵師たちの手によって隆盛をほこりました。

その様式を確立したのは菱川師宣(1618頃-1694)で、その直系に鳥居清信・鳥居清長ら鳥居派の絵師たちがいます。
そして華麗な世界初の多色印刷・錦絵の手法を確立したのは鈴木春信(1725?-1770)です。

大きな流れをつくったのは歌川派と葛飾派系で、前者は歌川豊春(1735-1814)を祖とし、歌川豊国(1769-1825)・歌川(安藤)広重(1797-1858)らの俊才を生み、その伝統は現代の伊東深水(1898-1972)まで受け継がれました。

後者は宮川長春(1682-1752)を祖とし、勝川派の祖・勝川春章(1726-1792)、葛飾派の祖・葛飾北斎(1760-1849)、渓斎英泉(1790-1848)などを生みだしています。

特に葛飾北斎は師の勝川春章から学んだ浮世絵の伝統に西洋絵画の手法も付加して新しい感覚の浮世絵を創造し、代表作・富嶽三十六景は逆にヨーロッパの印象派に影響を与えました。

(歌川派がずっと「歌川」の名前を継いで来た、いわば正統派であるのに対して、宮川・勝川・葛飾・渓斎といった流れはどんどん名前を興しています。いわば異端の流れともいうべき所でしょう。前者はいわばクラシック、後者はいわばロックです。)

しかしこういった大きな絵師系列から外れた所からも優秀な絵師は出ており、その代表が、喜多川歌麿と東洲斎写楽(1794-1795に活動)でしょう。

この二人はいづれも天才版元・蔦屋重三郎が発掘して売り出した絵師です。

このうち写楽は当時はあまり人気が出ずにわずか10ヶ月で活動を停止しています。

(写楽について「誰が写楽か?」という議論がよくあるのですが、結局のところ、写楽は写楽(斎藤十郎兵衛)だというのが、一番信頼できるように思います。現代でもパッと出てパッと消えるアーティストはいろいろな分野で多くいるわけで、無理に当時の他の誰かの変名ではないかと疑うのは、少し無理があるような気がしてなりません。
1997年 にはようやく斎藤十郎兵衛の過去帳が発見され、斎藤十郎兵衛が架空の人物ではなかったことがより確実になっています。)

歌麿の方は絶大な人気を得て、後世の浮世絵師にも強烈な影響を残します。

彼は美人画を得意とし、初期の頃は勝川派の影響を受けた作品なども描いていますがのちに独自の境地を開拓、寛政3年(1791)以降「美人大首絵」という新しいジャンルを確立しました。

代表作に「婦女相学十体」、「娘日時計」や寛政三美人の絵などがあります。




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