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4月 7日 世界保健デー(WHO1949)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
アカツメクサ 勤勉・実直・豊かな愛 ○
アジアンタム 上機嫌・繊細・天真爛漫・無垢・無邪気 ○
クチべニ水仙 うぬぼれ・自尊心 ×
ディモルフォセカ 元気・無邪気・ほのかな喜び ○
∞…∞ 4月 7日・今日という日 ∞…∞
鉄腕アトム (2003) 漫画キャラ
明石亮太朗 (1989) 俳優
hiro (島袋寛子) (1984) 歌手、元SPEED
黒河貴矢 (1981) サッカー
新垣仁絵 (1981) 歌手、元SPEED
華月 (1981) Raphael、G.
玉山鉄二 (1980) 俳優
福岡サヤカ (1980) タレント
竹財輝之助 (1980) 俳優
ミスターシービー (1980) 競走馬
大萩康司 (1978) ギタリスト
佐藤雅俊 (1977) ACIDMAN、Bass
小野晋吾 (1975) 野球
葛山信吾 (1972) 俳優、歌手
志賀大士 (1972) アナウンサー
ヒデ (中川秀樹) (1971) タレント、ペナルティ
山口弘美 (1971) タレント
ビクター・クラーツ (1971) フィギュアスケート
赤堀元之 (1970) 野球
新堂敦士 (1969) ミュージシャン
ひのき一志 (1969) 漫画家 「ファミレス戦士プリン」
神山雄一郎 (1968) 競輪
宇徳敬子 (1967) シンガーソングライター、元 Mi-ke
小林靖子 (1965) 脚本家
山岡三子 (1964) キャスター
ラッセル・クロウ (1964) 俳優
カルロス・トシキ (1964) 歌手
青島健太 (1958) 野球
横本メイ (1958) タレント、歌手
西野 朗 (1955) サッカー
柴矢俊彦 (1955) ミュージシャン、元 ジューシィ・フルーツ
千うらら (1955) 女優
ジャッキー・チェン (1954) 俳優
甲斐よしひろ (1953) 歌手、甲斐バンド
山本容子 (1952) 画家
ジョン・オーツ (1949) ミュージシャン、ホール&オーツ
フローリアン・シュナイダー (1947) クラフトワーク
ゲルハルト・シュレーダー (1944) 政治家、ドイツ首相
フランシスコ・コッポラ (1939) 映画監督
パンチョ伊東 (伊東一雄) (1934) 野球評論家
田中茂樹 (1931) マラソン
竹村健一 (1930) 評論家
麻生美代子 (1927) 声優
團伊玖磨 (1924) 作曲家
ビリー・ホリデイ (1915) 歌手
坪内道則 (1914) 野球
グレート東郷 (1911) プロレス
宮城道雄 (1894) 作曲家
鈴木梅太郎 (1874) 科学者
小川未明 (1882) 児童文学作家
ジョルジュ・ビゴー (1860) 画家
ウィルアム・ワーズワース (1770) 詩人
徳川秀忠 (1632) 徳川幕府将軍
フランシスコ・ザビエル (1506) 宣教師
法然 (1133) 僧侶
○ 平将門、恩赦が下される(937)
○ 徳川家康が征夷大将軍を辞任(1605)
○ 幕府、交通取締りを強化(1716)
○ 「メートル」誕生(1795)
○ ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が初演される(1805)
○ 幕府、貿易・留学の海外渡航を許可(1866)
○ 清水の次郎長、賭博の罪で懲役7年の刑になる(1884)
○ 戦艦大和撃沈される(1945)
○ 鈴木貫太郎内閣が成立(1945)
○ 労働基準法公布(1947)
○ WH O(世界保健機関)設立(1948)
○ NHKテレビで「花の生涯」放送開始。大河歴史ドラマの始めとなる(1963)
○ 前年10月から東京・京都・函館・名古屋で起っていた連続ピストル射殺事件の犯人として永山則夫が逮捕される。新聞各紙は「類似事件の再発を防ぐため」として、未成年(19)でありながら、犯人の実名・写真入りで報道する(1969)
○ 名古屋での世界卓球選手権大会で、中国がアメリカ・チームを正式招待する(ピンポン外交の始まり)(1971)
○ キャプテンシステム初公開(1978)
○ NHK教育テレビでマイコン入門の放送が始る(1982)
労働基準法公布記念日
1947年(昭和22年)のこの日、労働基準法が公布された。
鉄腕アトムの誕生日
アトムは手塚治虫原作の漫画のキャラクター。
国産初のテレビアニメとして広く知られる鉄腕アトムの主人公のロボット。
公式設定によれば誕生日は、2003年4月7日。製作者は天馬博士とされている。
農林水産省創立記念日
1881年(明治14年)に農林水産省の前身となる農商務省が設置されたことから。
世界保健デー
世界保健機関(WHO)が1949(昭和24)年に制定。国際デーの一つ。
WHOは、1946(昭和21)年のこの日に、ニューヨークでの国際保健会議で採択された世界保健機関憲章によって設立された国連の機関です。
すべての人々が可能な最高の健康水準に到達することを目的としています。(World Health Day)
6代イマーム殉教日
(イラン)
放哉忌
俳人・尾崎放哉の1926(大正15)年の忌日。
鉄腕アトム(2003.4.7-)
2003年4月7日は鉄腕アトムの誕生日です。
この日に向けて色々なイベントが計画されているようです。
鉄腕アトムを作ったのをお茶の水博士と思っている人が多々ありますが、それはよくある間違いで、天馬博士です。
天馬博士が交通事故で死んでしまった自分の息子に似せて作ったロボットがアトムでした。アトムは初期の段階で色々悲惨な運命に遭うのですが、やがてお茶の水博士に引き取られて、そこでお茶の水博士によって作られたアトムのお父さん・お母さん・妹(ウラン)
と共に4人家族で暮らすようになります。
鉄腕アトムはSF界でこの時代に多く発表された、近代文明の行方に対する警鐘としての作品のひとつであり、作者の手塚治虫は同様の傾向の作品として「バンパイヤ」「マグマ大使」なども描いています。
こういう流れはアトムの作者・手塚治虫のいわば後輩である、石ノ森章太郎にも受け継がれており「サイボーグ009」や「仮面ライダー」「キカイダー」「ロボット刑事」などは鉄腕アトムへの巨大なオマージュとも取れます。
「アトム」は「原子」、「ウラン」は核物質の代表で、原子力の平和利用を願ったものでしょう。
ただしアトムの動力はウランによる核分裂ではなく、核融合であったようです。
鉄腕アトムが登場したのが1951年ですが(連載開始は1952年4月)、これは1952年11月にアメリカが水爆実験に成功するよりも前のこと。
手塚はおそらく当時最先端の技術動向を把握してこういう設定を考えたのでしょうか。
手塚は50年後には核融合がコンパクトな場所で起こせるようになるかも知れないと考え、この設定にしたのかも知れませんが、現状はかなり手こずっている状態です。
しばしば人間の想像力は技術の進歩を大きく先取りしています。
テレポーテーションなども以前は単なる空想の産物、あるいは原理的にありえない非科学的なこと、と考えられていたのが最近の量子物理学の研究で、そういう現象が存在することが理論的に確かなこととなっています。
「どこでもドア」のようなものが実現するにはこのあと100年以上かかるかも知れませんね…?
法然上人(1133-1212)
4月7日は法然上人の誕生会が行われます。
法然上人(1133-1212)は浄土宗の開祖とされている人です。
これは浄土宗の諸派が全て法然上人の弟子・孫弟子等々から始まっているためです。
浄土仏教の元祖は空也上人(903-972)まで遡りますが、浄土系の仏教が大きく飛躍するのは鎌倉時代の始め頃からになります。
平安時代の末期、既成の仏教ではしばしば仏教を広めるために、仏教に帰依すれば極楽浄土へ行けるが、帰依しなければ血の池や針の山などのある地獄へ落ちるといった論法が行われていました。
それはそれなりに効果があり、京都の公家たちが多数信者になり、お寺への寄進も多数ありました。
しかし、お寺への寄進などする余裕のない一般大衆はこの救済システムから疎外されていました。
ここで出てきた法然・証空・親鸞らの浄土系仏教の伝道者たちは阿弥陀(あみだ)が全ての人々を救済するまでは自分は仏にならないといったという阿弥陀の本願を頼りとし、その阿弥陀様に帰依する心を持って「南無阿弥陀仏」と一心に念仏を唱えれば必ず救われるということを庶民に広めたのです。
この分かりやすい教えのため、浄土系仏教は大きく発展していくことになります。
法然は美作国(岡山県)の生まれで、13歳の時比叡山に登り、源光の許でオーソドックスな修行を積み、18歳の頃には多くの経典を読破して優秀な学僧として将来を嘱望されます。
しかしそのころから法然はほんとうにこのような教えで人々を救済することができるのであろうか?
と疑問を持ち、やがて源光の許を辞して黒谷の叡空の所に移ります。
ここには当時多くの無冠の聖たちが集まり、厳しい求道の思索にあけくれます。
法然は黒谷で20年以上過ごすことになりますが、この間今までにも増して色々な仏典を読み、また一般大衆の集まる祈祷所などに赴いて人々と触れ合い、段々彼の思想は形としてまとまっていきました。
彼は特に中国の善導の思想を重視しました。
それは、極楽浄土への往生を一心に願い、常に念仏をしていれば、必ず阿弥陀仏がその者を救ってくれるという思想でした。
1175年、法然43歳。
時は満ちました。
法然はこの思想を元に一派を立て、教化を始めます。
その拠点にしたのは京都東山の吉水に立てた小さな庵でした。
彼の教えはそのわかりやすさから多くの人々の帰依を受けることになりますが、それは既成の仏教教団にとっては非常に危険な思想でもありました。
そのため彼は弟子たちともども激しい弾圧を受けることになり、とうとう1207年に「建永の法難」が起きます。
二人の弟子が死罪になり、法然及び数人の弟子が各地に流罪になりました。
しかしこれは結果的には浄土系仏教を全国に広めることになります。
法然は死の直前になってやっと許されて京都に戻り、数人の弟子に看取られて大往生をとげます。
そして彼の弟子の証空がその遺志をついで更に念仏を広め浄土宗西山派の基礎を作ります。
この証空の教えは京都の公家たちにも広く支持を得ました。
また法然と同時に流罪になっていた親鸞は京都に戻らず関東に赴いて浄土真宗の基礎を作ります。
なお法然の入滅の地に源智が廟を建てて供養したのが現在の知恩院の始まりです。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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