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4月 5日 横町の日、ヘアカットの日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
イチジクノ木    子宝に恵まれる・実りある恋・豊富
          裕福・平安            ×
ムラサキハナナ(オオアラセイトウ) 知恵の泉     ○
ワスレナグサ(青) 真実の愛・誠の愛         ○

∞…∞ 4月 5日・今日という日 ∞…∞

三浦春馬   (1990)  タレント
中田あすみ   (1988)  タレント
酒井 寿   (1981)  俳優
小笠原満男   (1979)  サッカー
海東 健   (1979)  俳優
フェルナンド・モリエンテス   (1976)  サッカー
ドミンゴ・グスマン   (1975)  野球
趙 成a (チョ・ソンミン)   (1973)  野球
住吉美紀   (1973)  アナウンサー
大野まりな   (1972)  声優
川原亜矢子   (1971)  女優、モデル
西川史子   (1971)  タレント、形成外科医
千堂あきほ   (1969)  タレント
杉浦 幸   (1969)  女優
熊埜御堂智   (1969)  サッカー
藤本憲司   (1969)  アナウンサー
野村萬斎   (1966)  狂言師
境 鶴丸   (1964)  アナウンサー
寺田体育の日   (1962)  タレント、ふうりんかざん
谷口浩美   (1960)  マラソン
庄野賢一   (1959)  作曲家
川勝良一   (1958)  サッカー
小林 覚   (1956)  囲碁棋士
藤城和明   (1956)  野球
鳥山 明   (1955)  漫画家 「DRAGON BALL」
潘 恵子   (1953)  声優
淡口憲治   (1952)  野球
藤田淑子   (1950)  声優、歌手
伊沢正名   (1950)  写真家
木原美知子   (1948)  水泳
吉田拓郎   (1947)  シンガーソングライター
グロリア・マカパカル・アロヨ   (1947)  フィリピン大統領
田辺靖雄   (1945)  俳優、歌手
細田博之   (1944)  政治家
原田大二郎   (1944)  俳優
ファイティング原田   (1943)  ボクシング
板東英二   (1940)  タレント、野球
畠山みどり   (1939)  歌手
若生智男   (1937)  野球
コリン・パウエル   (1937)  アメリカ国務長官
三宅秀史   (1934)  野球
ロジャー・コーマン   (1926)  映画監督、映画プロデューサー
グレゴリー・ペック   (1916)  俳優
ヘルベルト・フォン・カラヤン   (1908)  指揮者
ベティ・デイビス   (1908)  女優
内田魯庵   (1868)  評論家、作家
則子女王   (1850)  皇族
八条隆英   (1702)  公卿

 ○ 琉球王、島津家に降伏(1609)
 ○ 大英博物館の誕生(1753)
 ○ 高田屋嘉兵衛、没(1827)
 ○ 東京府、女子の断髪を禁止(1872)
 ○ 映画法公布(1939)
 ○ 日本癌学会創立(1941)
 ○ 第一回知事、市長、区町村選実施(1947)
 ○ ミスタージャイアンツ、長嶋茂雄、プロ野球デビュー。金田投手に4三振(1958)
 ○ 神戸市民が米領事館前に反戦のため座りこみ(1965)
 ○ 「イタイイタイ病」、公害病第1号指定(1967)
 ○ 中国、天安門事件(1976)
 ○ 浅草国際劇場、閉場(1982)
 ○ 明石海峡大橋、開通(1998)

小笠原返還記念日
1968年(昭和43年)のこの日、当時、小笠原諸島の立法、行政、司法権を握っていたアメリカとの間で小笠原返還協定が締結された。
同年6月に日本に復帰。

ヘアカットの日
1872年(明治5年)に東京府が女子の断髪禁止令を出したことによる。

デビューの日
1958(昭和33)年、読売巨人軍の長嶋茂雄がデビューしました。
これに因んで、その年デビューした新人にエールを送る日。

横町の日
横町の温かさを知ってもらおうと制定。
「よこ」と「4」「5」の語呂合わせから。

たまごの日
毎月5日。日本養鶏協会、日本卵業協会など関係団体が制定。

植木日(Arbor Day)
(韓国) 韓国の国土緑化の日。

達治忌
詩人・翻訳家の三好達治の1964(昭和39)年の忌日。


小笠原返還(1968)
昭和43年4月5日、日米間で小笠原返還協定の調印が行われました。
これにより戦後アメリカに占領されていた小笠原諸島が22年ぶりに日本に返されることになりました(実際の返還は同年6月26日)。

太平洋戦争終了後アメリカは昭和21年1月9日の覚え書きで奄美・沖縄・小笠原において日本の行政権を停止することを宣言。
これらの地域はアメリカの占領下に置かれました。
これに対して日本の吉田茂首相は「奄美はあまり軍事的な意味はないだろうから返してくれ」と主張、1953年8月8日にアメリカはこれを受諾。
同年12月25日に日本に返されました。
しかし小笠原および沖縄は引き続きアメリカが実効支配を続けました。

その後この問題は長く続きますが、吉田の愛弟子・佐藤栄作は首相に就任するとアメリカとの友好関係を強める施策を進めるとともに、国内に小笠原・沖縄の返還に対する強い運動が起きており、返してもアメリカが軍事的に利用するのは構わないから、返してくれた方がアメリカにとっても良いのではないかと巧みにアメリカを説得。
そして1967年のジョンソン・佐藤会談でその方向がほぼ合意に達し、まず1968年に小笠原、そして佐藤の任期終了直前の1972年に沖縄の返還にこぎつけます。
いわば佐藤は吉田がやり残した、この問題をほぼその政権担当時間のほとんどを掛けてやり遂げたのでした。
佐藤はソ連(現ロシア)との北方領土返還の交渉も進めていましたが、そちらを妥結させる前に首相の座から去ることとなり、その後こちらの交渉は30年間にわたって全く進行していません。

小笠原諸島は伊豆諸島(北緯32〜35度)・豆南諸島(30〜31度)の更に南、北緯27度付近に点在する島で、行政区域としての小笠原村の中には北緯24〜25度付近に点在する硫黄列島も含まれています。

【概略の配置】(等幅フォントで見て下さい)
         孀婦岩          中鳥島

              聟島
         西ノ島  父島
              母島
北大東島
南大東島      北硫黄島
          硫黄島
沖大東島      南硫黄島       南鳥島

      沖鳥島

この小笠原には古くから太平洋の様々な人が訪れていた可能性がありますが、歴史的な記録に残っている最古は1543年にスペイン船サン=ホワン号が目撃したというものです。
この島は恐らく硫黄列島と思われます。

その後文禄2年(1593)に信州出身の探検家・小笠原貞頼がここを探訪し、上陸して島の物産を持ち帰り、徳川家康に献上しています。
小笠原諸島という名前はこの小笠原貞頼にちなんで付けられたものです。

その後、延宝3年(1675)に、幕府が調査隊を派遣し測量をおこなって地図を作製しましたが、この時に父島・母島などの名前が付けられたとされています。
命名は200年後、文久年間の水野開拓隊ではという説も有力。

その後幕府はこの島々の運営を積極的には進めようとせず、この地区には欧米の船が次々に来航した。
1830年には5名の様々な国籍の西洋人を含むハワイ系の人々が来訪して入植を始めました。
この人たちが小笠原の最も古い定住者ということになります。
1853年に日本に来訪して開国を要求したペリーは小笠原についても調査し、ここを軍事占領してアメリカ領を宣言したいと考えていましたが、占領について大統領の許可が下りず、調査だけして帰国しています。

しかしペリーがここを調査したということが日本に伝わると、幕府は慌てて文久元年(1861)12月、水野忠徳を責任者とする開拓隊を派遣し、住民達に古い地図を示してここは元々日本領であったと宣言します。
これに対してアメリカやイギリスでも領有を宣言する動きがあったものの両者ともこの島々の経営に
は消極的で、結局この日本のやや強引な領有宣言は国際的に承認されてしまいます。
以来、この島ではハワイ−欧米系の住民と、この時期以降、日本本土から開拓のために移住した住民とが、比較的穏和に共存してきたようです。


日本は更に明治24年に硫黄列島を領有、明治31年には南鳥島も小笠原島庁に組み込みました。
この時アメリカ人のRosehillという人が日本の領有宣言と前後して南鳥島の占有を試みますが、日本はただちに軍艦を派遣してそれを阻止。
この後日米の協議により、アメリカはこの島も日本領と認めました。
沖鳥島の領有宣言はこれよりずっと後の昭和6年になります。

太平洋戦争が激しくなると日本は小笠原の住民に本土に避難するよう要請。
昭和19年に強制疎開となります。
後のブッシュ大統領(前ブッシュ大統領の父)がこの時の小笠原攻防戦に参加して対空砲火で撃墜される経験をしています。

やがて終戦になった後、GHQは欧米系の島民にだけ帰島を許可し、その後ずっとアメリカの基地として小笠原を使用。
しかしその後の外交努力により1968年返還がなって、日本系の住民も20年ぶりに帰島することができました。
その後更にこの島に興味を持って移住して来た人たちもあり、小笠原は様々な文化の交流の中で、琉球(沖縄&台湾)とは別の意味で文化のクロスロードとなっています。

小笠原諸島の主な島の名前は下記の通りです。

 聟島列島(北緯27度30〜40分 東経142度8〜13分)
   聟(むこ)島・鳥島(A)・北之島・中ノ島・笹魚島・
   媒(なこうど)島・鳥島(B)・針ノ岩・蛸岩・眼鏡岩・
   嫁(よめ)島・前島・後島
 
 父島列島(北緯27度0〜12分 東経142度9〜14分)
   父島・南島・巽島・東島・烏帽子岩・中通島・
   兄島・西島・瓢箪島・人丸島
   弟島・孫島・弁天岩・北磯
 
 母島列島(北緯26度32〜42分 東経142度8〜14分)
   母島・向島・鬼岩・
   鰹鳥島・中鰹鳥島・小鰹鳥島・丸島・二子島・平島
   姉島・北鳥島・南鳥島・ローソク岩・二本岩・三本岩
   妹島・鳥島(C)・野羊島・鍋岩・
   姪島・鳥島(D)・四本岩

 西ノ島(27N15 140E52)
   西ノ島・(西ノ島新島−1973年火山活動により生成,翌年西ノ島と結合)

 硫黄列島(火山列島)
   北硫黄島(25N25)・硫黄島(24N45)・南硫黄島(24N15)

 その他
   南鳥島(24N18 153E59 日本最東端 アメリカはマーカス島と呼んでいた)
   沖鳥島(20N25 136E04 日本最南端)
   中鳥島(30N05 154E10 幻の日本最東端....現在多くの地図からは抹消)

その後
1945年(昭和20年)9月3日 - アメリカ軍駆逐艦ダンラップ号にて、小笠原の日本軍降伏を調印。

1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍総司令部と覚書を交わす。
覚書により、小笠原諸島の行政権は日本から分離された。
戦後 - サンフランシスコ講和条約によりアメリカ海軍の占領下に置かれた。

1946年(昭和21年)10月 - 連合軍総司令部が欧米系の旧島民とその家族135人のみに帰島を許可。
うち129人が帰島する。

1946年(昭和21年) - 小笠原支庁・村役場が東京都下谷区下谷小学校に移転する。

1948年(昭和23年) - 小笠原支庁・村役場が港区に移転する。

1952年(昭和27年) - 対日講和条約の発効により、小笠原の施政権が分離、各村役場が廃止され、役場の一般事務は東京都総務局行政部地方課分室で行われる。

1953年(昭和28年)4月28日 - 小笠原支庁廃止

1965年(昭和40年) 5月 - 第1回墓参団が渡島する。

1967年(昭和42年)11月16日 - 小笠原諸島の日本への返還が決まる。

1967年(昭和42年)12月 - 日本政府に小笠原復帰準備対策本部を設置。

1968年(昭和43年)4月 - 日米間で小笠原復帰協定が締結された。

1968年(昭和43年)4月16日 - 南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の締結について国会の承認を求めるの件につき、閣議決定。

1968年(昭和43年)5月22日 - 協定締結につき、国会で承認される。

1968年(昭和43年)5月27日 - アメリカ合衆国へ協定を通告。協定第6条により、アメリカ合衆国政府が日本国政府から受領した日の後30日目の日(同年6月26日)に協定は効力を生ずる。

1968年(昭和43年)6月12日 - 協定を公布(昭和43年条約第8号)。

1968年(昭和43年)6月26日 - 協定が発効し、日本に返還。東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属する。
戦前の旧大村、旧扇村、袋沢村、旧北村、旧沖村および旧硫黄島村は、小笠原村となる。
かつて小笠原支庁直轄だった北硫黄島、南鳥島、沖ノ鳥島および西之島も小笠原村の区域となる。

1969年(昭和44年) - 本土と小笠原を結ぶ無線電話回線が開通した。

1970年(昭和45年) - 小笠原復興計画が閣議決定。

1972年(昭和47年) - 東京電力が小笠原父島内燃力発電所の操業を開始。
(120V/60Hzから100V/50Hzへ)

1972年(昭和47年) 10月16日 - 小笠原諸島を国立公園に指定。
小笠原支庁母島出張所および小笠原村役場母島支所の設置

1974年(昭和49年) - 父島および母島の全域を都市計画区域に指定。
小笠原復興計画(改定10箇年計画)が閣議決定。

1976年(昭和51年) - 時雨ダムが完成。父島ケーブルテレビが開局。

1979年(昭和54年) 3月31日 - 小笠原諸島復興特別措置法が小笠原諸島振興特別措置法と改正される。

1979年(昭和54年) 4月22日 - 村議会議員および村長の設置選挙

1979年(昭和54年) 4月23日 - 小笠原村が真の自治体として発足し村政が確立する。
(それまでは東京都小笠原支庁長が村長職務執行者であった。)

1981年(昭和56年) 12月24日 - 小笠原村基本構想を議決。

1983年(昭和58年) 6月21日 - 通信衛星による電話のダイヤル即時通話開始。

1984年(昭和59年) - 小笠原諸島振興特別措置法延長・改正。

1984年(昭和59年) 10月1日 - 小笠原諸島周辺海域の海難救難・外国漁船密漁取締りなどの目的で全国52番目の海上保安署として小笠原海上保安署が開設。

1989年(平成元年) - 小笠原諸島振興特別措置法が小笠原諸島振興開発特別措置法と改正。
村政確立10周年。
父島と母島から考古学調査始まる。

1990年(平成2年) - 国土利用計画法の監視区域(200m²以上)に指定。
北硫黄島の考古学調査。

1991年(平成3年) - 7月前半、北硫黄島で本島諸島にはみられない文化をもつ人たちの遺跡が見つかった。
調査団は石野遺跡と名付けた。

1994年(平成6年) - 天皇・皇后が小笠原諸島を行幸啓する。
小笠原諸島振興開発特別措置法の一部改正。

1995年(平成7年) - 国土利用計画法の監視区域(500m²)に再指定。

1996年(平成8年) - テレビ地上波放送開始。

2011年(平成23年) - 小笠原諸島がユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録される。
日本国内の自然遺産は白神山地(青森県・秋田県)、屋久島(鹿児島県)、知床(北海道)に続く4か所目。

2011年(平成23年) 7月2日 - インターネット接続用の通信回線を通信衛星経由による接続から海底光ケーブルを利用した接続へ切替工事を実施。
同日の午前5時より高速インターネット接続サービスの提供を開始。

以上です。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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