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4月 3日 いんげん豆の日、日本橋開通記念日、ペルー日本友好の日、神武天皇祭

花ノ名前      花ことば            誕生花として
アジアンタム  上機嫌・繊細・天真爛漫・無垢・無邪気 ○
アスター    思い出・追憶・後の祭り・信ずる恋
        同感・心くばり・変化         ○
クチべニズイセン  自己愛・うぬぼれ         ×
ゼラニューム    決心、君ありて幸福、真実の愛情  ○
ラッパスイセン   心づかい・尊敬          ○

∞…∞ 4月 3日・今日という日 ∞…∞

前田公輝   (1991)  タレント
堀江幸生   (1991)  タレント
瀬戸山清香   (1987)  EARTH
ゆか (加藤有加利)   (1985)  歌手、RYTHEM
仲根かすみ   (1982)  タレント
日置由香   (1980)  タレント
須之内美帆子   (1976)  タレント
鈴木崇大   (1976)  タレント、タカアンドトシ
佐藤哲夫   (1976)  タレント、パンクブーブー
高橋由伸   (1975)  野球
上原浩治   (1975)  野球
大泉 洋   (1973)  タレント
瀬能あづさ   (1973)  タレント、元CoCo
KENKI   (1972)  タレント、どーよ
東根作寿英   (1972)  俳優
黒沢 薫   (1971)  ゴスペラーズ
藤吉信次   (1970)  サッカー
田辺誠一   (1969)  俳優
クハラカズユキ   (1969)  ミッシェル・ガン・エレファント、Dr.
金本知憲   (1968)  野球
坂本サトル   (1967)  シンガーソングライター
冨永み〜な   (1966)  声優
大榎克己   (1965)  サッカー
前田 勝   (1965)  タレント、ティーアップ
伊藤雄彦   (1965)  アナウンサー
千住真理子   (1961)  バイオリニスト
エディ・マーフィー   (1961)  俳優
藤井 暁   (1960)  アナウンサー
刈屋富士雄   (1960)  アナウンサー
氏神一番   (1959)  カブキロックス、Vo.
霧島一博   (1959)  相撲
若乃花幹士 (二代目)   (1953)  相撲
仁科亜季子   (1953)  女優
岩本恭生   (1952)  タレント
ボナ植木   (1952)  手品師、ナポレオンズ
森田正光   (1950)  ウエザーキャスター
中島らも   (1952)  作家
大谷直子   (1950)  女優
横山セツオ   (1946)  タレント、横山ホットブラザーズ
カトリーヌ・スパーク   (1945)  女優
野呂圭介   (1937)  俳優
芳村真理   (1935)  タレント
井出正敬   (1935)  JR西日本相談役
橘家圓蔵 (八代目)   (1934)  落語家
有馬稲子   (1932)  女優
ヘルムート・コール   (1930)  政治家、ドイツ首相
前田武彦   (1929)  放送作家、タレント
ミヨシ梅木   (1929)  女優
酒井 広   (1926)  アナウンサー、司会者
マーロン・ブランド   (1924)  俳優
ドリス・デイ   (1924)  歌手
吉葉山潤之輔   (1921)  相撲
金田一春彦   (1913)  学者
杉浦 茂   (1908)  漫画家 「猿飛佐助」
鳳谷五郎   (1887)  相撲
北 一輝   (1883)  思想家
長塚 節   (1879)  歌人
物集高量   (1879)  国史学者

 ○ 聖徳太子、「憲法十七条」を制定(604)
 ○ 鎌倉に大地震。鶴岡礼拝殿が高潮で流失(1241)
 ○ 独眼竜政宗の十男宗勝、流罪に(1671)
 ○ 箱館・択捉島に外国船出没との知らせが、松前・津軽・南部の各藩に届く(1847)
 ○ 福沢諭吉が慶應義塾を開校(1868)
 ○ 雑誌「日本人」創刊(1888)
 ○ 植樹祭開始(1895)
 ○ 大隈重信と岩崎小弥太が援助して創立された東京フィルハーモニー、第1回公演(1910)
 ○ 新しい日本橋、開通式(1911)
 ○ スターリン、共産党書記長となる(1921)
 ○ 切符の自動販売機が国鉄に登場(1930)
 ○ プロ野球に初のウグイス嬢登場(1947)
 ○ 仮面ライダー、放送開始(1971)

日本橋開通記念日
1911(明治44)年、東京の日本橋が木橋から石橋に架け替えられた。
日本橋は、江戸時代から現在まで日本の道路交通の中心となっており、橋の中央に国道の起点となる「日本国道路元標」が設置されている。

いんげん豆の日
いんげん豆を中国から伝えたといわれる隠元禅師の命日にちなんで。

愛林の日
1895年(明治28年)のこの日、植林祭が始められたことにちなんで。

清水寺・みずの日
1998年(平成10年)に京都市の清水寺をはじめとする全国の「清水寺」でつくる「全国清水寺ネットワーク」が制定。
「し(4)み(3)ず」(清水)の語呂合わせ。心、自然環境の浄化を訴える。

悪天の特異日
天気が悪くなる確率の高い日。

シーサーの日
「シー(4)サー(3)」の語呂合せ。

神武天皇祭
神武天皇崩御の日。皇霊殿で祭典が行われる。

こよみのページ開設記念日
2000年4月3日、こよみのページが開設される(勝手に記念日!)。

ペルー日本友好の日
ペルー政府が1989(平成元)年8月20日に制定。
1899年、日本人移民790人が佐倉丸でペルーのアンコン港に上陸しました。

隠元忌
日本黄檗宗の開祖・隠元禅師の1673(寛文13)年の忌日。
明の禅僧で、1654(承応3)年に渡来し、その時に隠元豆など様々なものを日本に齎しました。


十七条憲法発表(604)
推古天皇12年は十七条憲法(とおあまりななおち・いつくしきのり,じゅうななじょう・けんぽう)を発表しました。

一に曰く、和をもって貴しとなし、さかふることなきを宗とせよ。
二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
三に曰く、詔を承りては、必ずつつしめ。君をば天とす。
四に曰く、郡卿百寮、礼をもって本とせよ。
五に曰く、むさぼりを絶ち、欲することを捨て、明らかに訴訟を弁めよ。
六に曰く、悪を懲らしめ、善を勧むるは古の良き典なり。
七に曰く、人おのおの任あり。つかさどること乱れざるべし。
八に曰く、郡卿百寮、早くまいりて、遅く退でよ。
九に曰く、信はこれ義の本なり。毎事に信あるべし。
十に曰く、忿を絶ち、瞋を捨て、人の違ふことを怒らざれ。
十一に曰く、功過を明らかにみて、賞罰をと必ず当てよ。
十二に曰く、国司・国造は百姓に斂らざれ。国に二君あらず。
十三に曰く、諸の官に任せる者、同じく職掌を知れ。
十四に曰く、郡臣百寮、嫉み妬むことあることなかれ。
十五に曰く、私を背き公に向くは、これ臣が道なり。
十六に曰く、民を使ふに時をもってするは、古の良き典なり。
十七に曰く、それ事を独断むべからず。必ず衆と論ふべし。

当時お隣の中国では南北朝の混乱を制して随が成立し強大な権力が出現したところでした。
この時代に実質的に政治を動かす立場にたった聖徳太子は国の基盤をいそぎしっかりとさせなければ、日本は中国の属国になってしまうという危機感を抱いていたと思われます。

そこではじめて憲(基本)となる法を定め、群臣・群雄の意志の統一を図ろうとしたものと思われます。

特に第一条の「和をもって貴しとし」や十二条の勝手な税金を取ってはいけないという条文などは、大王(天皇)家を中心にこの国はまとまるのだということを明確に宣言したものになっています。

天皇(推古天皇)を叔母(母の姉)・義母(妻の母)に持ち、時の実力者蘇我馬子をも大叔父(祖母の兄)・義父(別の妻の父)に持ち、自らも摂政に任じられていた、まさに権力の中枢に位置した聖徳太子故に効果を持ったものであったのでしょう。

なお、聖徳太子とは
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。

また、本名は厩戸(うまやど・うまやと)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説もあります。


隠元禅師(1592-1673)
4月3日はインゲン豆を日本に持ってきた、日本黄檗宗の祖・隠元禅師の命日です。
この日は「インゲン豆の日」にもなっています。

隠元禅師は1592年中国の福建省で生まれました。

幼い頃父が旅行に出たまま行方不明になり、成人してからその父を探しに旅に出ます。
しかし見つからないままある時お寺に泊まっていて、菩薩と相みまえることが父と会うことに等しいのではないかということを思い至りました。

いったん故郷に戻って在家のまま仏を崇拝していましたが、母が亡くなると29歳の時出家、広慧寺の密雲のもとで悟りを開き、その法嗣の黄檗山萬福寺住職費穏のもとで臨済宗の正伝を得ます。
そして46歳の時費穏のあとをついで萬福寺住職となりました。

しかし、その頃中国(明)は北方民族(清)の侵入によって混乱していました。
寺もあちこちで焼き討ちに遭い、もう国も滅亡寸前という感じです。
そんな中日本の長崎の興福寺の逸然がぜひ日本に来て正統な禅を広めてくださいと熱心に誘っていました。
もう祖国では教えを広めるどころか自分たちの身の安全も危うい状況で、隠元は63歳でしたが、大決断をし、弟子20人たちを連れて日本へ渡って来ます。
将軍徳川家綱は彼を厚くもてなし、中国にいた時と同じ萬福寺というお寺を京都に建てさせました。

隠元の流れの禅はその山号を取って黄檗宗と呼ばれています。
基本的には臨済宗の系統ですが、禅宗には珍しく念仏を使います。
また中国から来ていますのでお経など用語が全て中国読みになるという特徴があります。

隠元の来日により、日本の禅はその厳しい戒律などを見て大きな影響を受け、それぞれまた新たな自己改革をしていくことになります。
一番大きな影響を受けたのは親戚に当たる日本臨済宗よりもむしろ曹洞宗の方であったとも伝えら
れます。

インゲン豆はこの隠元が禅の普茶料理の材料として普及させたものです。
原産地は中南米のようです。
僧は肉や魚の類を原則として食べませんので、タンパク質の補給源として豆は貴重なものです。
お茶を飲む習慣を持ち込んだ栄西、沢庵漬けの沢庵、など禅僧と食事というのは良好な関係にあるのではないでしょうか。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ




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