戻る ▲トップページ

3月27日 仏壇の日(1972)、さくらの日(日本さくらの会1992

花ノ名前      花ことば            誕生花として
カルセオラリア   御身に私の財産を捧げます
          私の伴侶・優美          ×
キンチャク草(カルセオラリア) 援助・我が伴侶     ○
ショウジョウバカマ 希望               ○
ゼニアオイ     恩恵・母の愛・温和・温厚・初恋
          信念・説得            ×
ポプラ       敏感・哀歌・勇気・度胸      ○

∞…∞ 3月27日・今日という日 ∞…∞

俵小百合   (1991)  タレント
オグリキャップ   (1985)  競走馬
阿部 薫   (1980)  俳優
カヨ   (1979)  POLYSICS、Key. Vo.
樫本大進   (1979)  バイオリニスト
篠塚ひろむ   (1979)  漫画家 「ミルモでポン!」
浦山一悟   (1978)  ACIDMAN、Dr.
塙 宣之   (1978)  タレント、ナイツ
金沢あかね   (1977)  タレント
征海未亜   (?)  漫画家 「東京ミュウミュウ」
石井太郎   (1975)  タレント、モジモジハンター
青木さやか   (1973)  タレント
池内万作   (1972)  俳優
デヴィッド・クルサード   (1971)  レーサー
浅子 覚   (1971)  プロレス
川島郭志   (1970)  ボクシング
マライア・キャリー   (1970)  歌手
ウエノコウジ   (1968)  ミッシェル・ガン・エレファント、Bass
小橋建太   (1967)  プロレス
梅澤春人   (1966)  漫画家 「BΦY−ボーイ−」
クエンティン・タランティーノ   (1963)  脚本家、映画監督
松本孝弘   (1961)  B'z、G.
津久井教生   (1961)  声優
網倉一也   (1956)  作曲家
山口良一   (1955)  俳優
パンチみつお   (1954)  タレント
高中正義   (1953)  歌手、ギタリスト
窪田 等   (1951)  ナレーター
左 時枝   (1947)  女優
吉川忠英   (1947)  ギタリスト
上村香子   (1946)  女優
宮本信子   (1945)  女優
ベブ・シルベッティ   (1944)  ミュージシャン
小林克也   (1941)  ディスクジョッキー、タレント
若林正人   (1938)  キャスター
赤瀬川原平   (1937)  作家
岸 洋子   (1935)  歌手
三好京三   (1931)  作家
田辺聖子   (1928)  作家
槐 柳二   (1928)  声優
梶山清六   (1926)  政治家
夢路いとし   (1925)  漫才師
高峰秀子   (1924)  女優、歌手
金子信雄   (1923)  俳優
遠藤周作   (1923)  作家
小沢栄太郎   (1909)  俳優
佐藤栄作   (1901)  政治家
セルゲイ・ミローノヴィッチ・キーロフ   (1886)  革命家
ウィルヘム・レントゲン   (1845)  学者
ド・ロ神父   (1840)  宣教師
溶姫   (1813)  徳川家斉の娘

 ○ 「各家に仏像・経を置いて礼拝供養せよ」 という天皇詔が出される(685)
 ○ 鎌倉大仏殿の上棟式(1241)
 ○ 松尾芭蕉、弟子の曾良とともに「奥の細道」六百里の旅へ出発(1689)
 ○ 大塩平八郎の乱、終結(1837)
 ○ 労働基準法、できる(1947)
 ○ 厚生省、イタイイタイ病の原因をカドミウムと発表(1968)
 ○ 世界初の宇宙飛行士ガガーリン、飛行訓練指導中に事故死。34歳(1968)
 ○ フジテレビの人気ドラマ「男はつらいよ」の放送が終わる。最終回で主人公が死ぬはずだったが、予告で知ったファンから助命嘆願が殺到、結局行方不明とし、やがて映画で復活、大長編シリーズ映画となる(1969)

仏壇の日
686年のこの日、『日本書紀』よると「仏舎を作り、仏像及び経を置き、礼拝供養せよ」との天武天皇の勅令が施行されたとのこと。
全日本宗教用具協同組合が制定。

さくらの日
日本さくらの会が1992年(平成4年)に制定した日で、日本を代表する花である桜への関心を高め、花と緑の豊かな国土づくりが目的。
72候の中に「桜始開」(さくらはじめてひらく)とある時期と、「さくら」と「咲く」がともに「3×9=27」であることから3月27日となったという。

赤彦忌
歌人・島木赤彦の1926(大正15)年の忌日。


伊達騒動(1671)
伊達騒動とは、寛文11年(1671)3月27日に、仙台の伊達藩の重臣達の間に刃傷事件があり、関係者のほとんどが死亡して問題の追求が不可能になり、何やら訳の分からないまま「伊達騒動」が決着してしまった騒動です。

当時伊達藩は幼い藩主伊達綱村を擁し、伊達一門筆頭の伊達兵部宗勝が藩主後見役として家老原田甲斐宗輔とともに実際の藩政を動かしていました。

これに保守派の伊達安芸宗重らが反発し、藩主毒殺未遂事件なども起こしながら両派の対立が深まります。
やがて寛文10年、伊達安芸は兵部一派が悪政を行っていると幕府に訴え、幕府から老中板倉重矩が派遣されて、取り調べが始まりました。

当時は徳川初期の激しい大名改易の嵐は一段落した所でしたが幕府としてはこのような巨大大名の勢力を削ぐにはいいチャンスでした。
この取り調べでは伊達兵部も原田甲斐もうまい返答ができず、保守派有利のうちに吟味は進みます。

そして最後の吟味が大老酒井雅楽頭忠清の屋敷で行われることになり、一同がそこに呼び集められるのですが、この時先に取り調べを終えて控え室に戻った原田甲斐は突然伊達安芸に斬りかかります。

安芸やその部下たちは即死、原田も騒ぎに気づいて駆けつけた酒井家の家臣に斬られ、居合わせた関係者がみな命を落としてしまったため、結局兵部一派が悪事をしていたのかどうかは追求不能になってしまいました。

この結果、原田甲斐の家は断絶とされその息子達も死罪、生き残った伊達兵部は土佐に流されますが、仙台藩62万石にはおとがめなしとなります。

この事件では古来原田甲斐はとんでもない極悪人のように言われていたのですが、仙台藩が結果的には安泰となったという結論と、甲斐の墓の微妙な位置に注目した山本周五郎は「樅の木は残った」を書き、原田甲斐は仙台藩分割を狙う酒井らから藩を守ったという忠臣説を提示して大きな反響を呼びました。


gooサービス開始(1997)
1997年3月27日 gooがサービス開始する。

日本国内のインターネット検索サイトというと、初期の段階ではNTTのサイトが頼りでしたが、その内ドラゴンが立ち上がり、やがてYahoo!が日本でもサービスを開始します。
こういったディレクトリ方式のサイトに対して、全文検索方式のものとして、日商岩井のOpenTextなども静かに? 動き出しますが、やはり goo の登場は大きかったと思います。

既存の全文検索エンジンの中で恐らく最大級のInfoseekがどちらかというと企業サイトやオフィシャルサイト的なものに強かったのに対してgooは個人サイトにめっぽう強く、そこから多数の同好の士の出会いがうまれたのではないかといわれています。

更には登録サイトが伸び悩みかつデッドリンクが増えすぎて収集がつかない状況に陥り始めていたYahoo!がgooと提携して、Yahoo!でヒットしなかったキーワードをそのままgooに流すようになったことで、Yahoo!もまた生き返ることになりました。


千利休(1522-1591)
千家流茶道の開祖とされる千利休(せいのりきゅう)は天正19年(1591)2月28日に秀吉の命により切腹しました。
千家ではその1ヶ月後を命日としていますが、その「1月後」の解釈が表千家と裏千家で異なるため、表千家では3月27日、裏千家では3月28日に利休忌を行い、追善の茶会をしているそうです。

千利休は大永2年(1522)堺で生まれ、幼名を与四郎といいました。
幼少から茶に親しみ、北向道陳・武野招鴎に茶道を習い、先人たちからも高い評価を受けて23歳の時宗易を名乗ります。

初め信長に仕え、信長の死後は秀吉に仕え重んじられました。
秀吉も彼を天下一の茶人と褒め称え、茶以外のことでも色々と自分の相談相手にします。
そして、天正13年には秀吉に従って宮中で茶会を催し、この時利休の名を受けます。

ところが突然天正19年2月13日、秀吉はいきなり利休に堺への退去を命じ、次いで26日には京都に呼び出して切腹を命じるのです。
なぜ急にそのようなことになってしまったのかは謎になっています。

千家はその後紫野大徳寺にいた利休の孫千宗旦が還俗して家を再興し、その次男の宗守が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家のそれぞれ祖となります。
これが三千家です。
裏千家の名前の起こりは宗室が父が家の裏庭に建てた隠居所を継いで始めたためで、表千家はそれに対する呼称です。
また、武者小路千家は京都の武者小路に宗守が茶室を建てて始めた為その名があるそうです。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ