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3月12日 サンデーホリデーの日、サイフの日、パンの日(毎月)、豆腐の日(毎月)
東大寺二月堂お水取り(奈良市東大寺二月堂)(3/12〜3/13)
遊園地の日(日本遊園地協会、毎年3月第2日曜日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
エニシダ きれい好き・謙遜・上品・清楚・博愛 ○
ツクシ 意外・驚き・向上心・努力 ○
ポプラ 敏感・哀歌・勇気・度胸 ○
ヤナギ わが胸の悲しみ・愛の悲しみ・自由・従順・素直 ○
レンゲソウ あなたは幸福です・私の苦痛をやわらげる・感化
私の幸福・心が柔らぐ ○
∞…∞ 3月12日・今日という日 ∞…∞
大塚ちひろ (1986) タレント
佐藤勇人 (1982) サッカー
佐藤寿人 (1982) サッカー
小野真弓 (1981) タレント
我那覇美奈 (1981) 歌手
斎藤千和 (1981) 声優
種村有菜 (1978) 漫画家 「神風怪盗ジャンヌ」
徳永 愛 (1977) タレント、元東京パフォーマンスドール
神田伸一郎 (1977) タレント、ハマカーン
藤井宏和 (1975) タレント、飛石連休
椎名へきる (1974) 声優、歌手
磯部公一 (1974) 野球
平井善之 (1973) タレント、アメリカザリガニ
りの (1973) 声優
ジョージ・アリアス (1972) 野球
DJ MITSU (1972) nobodyknows+、DJ
SHU (宮崎秀一郎) (?) JURASSIC、G. Vo.
ユースケ・サンタマリア (1971) タレント、俳優
佐藤信人 (1970) ゴルフ
鬼塚勝也 (1970) ボクシング
肥後かおり (1969) ゴルフ
ホルヘ・デリー・バルデス (1967) サッカー
すぎやま現象 (1966) イラストレーター
神崎ゆう子 (1966) 歌手
勝俣州和 (1965) タレント、K2
陣内貴美子 (1964) バドミントン
森永奈緒美 (1964) タレント
上條淳士 (1963) 漫画家 「TO-Y」
響野夏子 (1963) ピアニスト
DAIAMOND☆YUKAI (田所 豊) (1962) RED WARRIORS、Vo.
銀色夏生 (1960) 詩人
野宮真貴 (1960) 元PIZZICATO FIVE、Vo.
二井原実 (1960) ラウドネス、Vo.
やくみつる (1959) 漫画家
池波志乃 (1955) 女優
ルパート・ジョーンズ (1955) 野球
後藤真寿美 (1955) 声優
ほしの竜一 (1955) 漫画家 「騎士ガンダム物語」
飯合 肇 (1954) ゴルフ
沢田ユキオ (1953) 漫画家 「スーパーマリオくん」
奥寺康彦 (1952) サッカー
ライザ・ミネリ (1946) 女優
林家こん平 (1943) 落語家
吉森みき男 (1942) 漫画家
青芝フック (横山フック) (1937) 漫才師、元 漫画トリオ
江崎玲於奈 (1925) 学者
平松守彦 (1924) 政治家、大分県知事
大平正芳 (1910) 政治家
志村 喬 (1905) 俳優
関屋敏子 (1904) 声楽家
徳川斉昭 (1800) 水戸藩主
ジョージ・バークリ (1685) 哲学者
○ イギリス軍艦3隻が函館港に入港(1855)
○ 明治政府が日曜を休日、土曜を半休とする(1876)
○ 海軍兵学校で日本初の運動会(1904)
○ アメリカ飛行団の空中サーカス、初公開(1911)
○ ジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本交通公社の前身)創立(1912)
○ 中国革命の父・孫文、北京で没。59歳(1925)
○ 「アンネの日記」のユダヤ人少女アンネ・フランク(Frank,Anne)がベルゲン・ベルゼン収容所で殺される。15歳(1945)
○ 太平洋側に大雪。東京都心の積雪30cmは観測開始以来の記録(1969)
○ 終戦を信じずルバング島に隠れ住んでいた元日本兵の小野田元少尉、帰国(1974)
奈良・東大寺二月堂お水取り
春の訪れを告げる年中行事のひとつ。12日の夜、鐘の合図と共に籠松明が本堂の回廊を駆け抜け、その火の粉を体に浴びると、除災になるという。
行事名の由来は、13日の午前2時に堂前の若狭井の水を汲み、加持して本尊に供えるところからきている。
サンデーホリデーの日,半ドンの日
1876(明治9)年、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されました。
それまでは、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていました。
しかし、欧米との交易等で不便があったため、欧米と同じ仕組みに改めることとしました。
1871(明治4)年から皇居で毎日正午に大砲(午砲・ドン)を撃っており、土曜日はドンとともに仕事が終わることから、丸の内に勤める人たちの間で「半ドン」と呼ばれるようになりました。
ドンは全国の都市で行われるようになり、それとともに「半ドン」という言葉も全国に広まりました。
また、オランダ語で日曜日を意味するzondag(ゾンターク)が訛って「ドンタク」となり、土曜日は半分が休日であることから「半ドンタク」略して「半ドン」となったとする説もあります。
パンの日
パン食普及協議会が1983(昭和58)年3月に制定。
1842(天保13)年4月12日に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを焼いたのが、日本初のパンと言われています。
この日を記念して毎月12日をパンの日としています。
サイフの日
「さ(3)い(1)ふ(2)」の語呂合わせから。
モスの日
モスフードサービスが制定。
1972(昭和47)年、東武東上線成増駅前に初めてモスバーガーの実験店がオープンしました。
国旗の日(ベネズエラ)
独立記念日(モーリシャス)
1968(昭和33)年、アフリカ沖インド洋上の島国・モーリシャスがイギリスから独立しました。
聖グレゴリウスの祝日
教皇権を確立し、典礼書や聖歌をまとめた大教皇、グレゴリウス一世の命日。
菜の花忌
昭和前期の詩人・伊東静雄の1953(昭和28)年の忌日。
季節の花に因み菜の花忌と呼ばれます。
3月最終日曜日に長崎県諌早市の諌早公園で追悼行事が行われます。
これとは別に、2月12日の司馬遼太郎の忌日も「菜の花忌」と呼ばれています。
奈良・東大寺二月堂お水取り
春の訪れを告げる年中行事のひとつ。12日の夜、鐘の合図と共に籠松明が本堂の回廊を駆け抜け、その火の粉を体に浴びると、除災になるという。
行事名の由来は、13日の午前2時に堂前の若狭井の水を汲み、加持して本尊に供えるところからきている。
サンデーホリデーの日,半ドンの日
1876(明治9)年、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施されました。
それまでは、1868(明治元)年9月の太政官布告により、31日を除く1と6のつく日を休日としていました。
しかし、欧米との交易等で不便があったため、欧米と同じ仕組みに改めることとしました。
1871(明治4)年から皇居で毎日正午に大砲(午砲・ドン)を撃っており、土曜日はドンとともに仕事が終わることから、丸の内に勤める人たちの間で「半ドン」と呼ばれるようになりました。
ドンは全国の都市で行われるようになり、それとともに「半ドン」という言葉も全国に広まりました。
また、オランダ語で日曜日を意味するzondag(ゾンターク)が訛って「ドンタク」となり、土曜日は半分が休日であることから「半ドンタク」略して「半ドン」となったとする説もあります。
パンの日
パン食普及協議会が1983(昭和58)年3月に制定。
1842(天保13)年4月12日に伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを焼いたのが、日本初のパンと言われています。
この日を記念して毎月12日をパンの日としています。
サイフの日
「さ(3)い(1)ふ(2)」の語呂合わせから。
モスの日
モスフードサービスが制定。
1972(昭和47)年、東武東上線成増駅前に初めてモスバーガーの実験店がオープンしました。
国旗の日(ベネズエラ)
独立記念日(モーリシャス)
1968(昭和33)年、アフリカ沖インド洋上の島国・モーリシャスがイギリスから独立しました。
聖グレゴリウスの祝日
教皇権を確立し、典礼書や聖歌をまとめた大教皇、グレゴリウス一世の命日。
菜の花忌
昭和前期の詩人・伊東静雄の1953(昭和28)年の忌日。
季節の花に因み菜の花忌と呼ばれます。
3月最終日曜日に長崎県諌早市の諌早公園で追悼行事が行われます。
これとは別に、2月12日の司馬遼太郎の忌日も「菜の花忌」と呼ばれています。
2011年(平成23年)
九州新幹線が博多−鹿児島中央間で全線開通。
1995年(平成7年)
65歳以上の独居老人が211万人と、初めて200万人を突破。厚生省の94年国民生活基礎調査。
1948年(昭和23年)
最高裁が死刑を合憲と判決。
1925年(大正14年)
中国・辛亥革命の指導者・孫文が北京で病死。58歳。
江崎玲於奈(1925-)
ノーベル物理学賞受賞の物理学者・江崎玲於奈は大正14年(1925)3月12日大阪府で生まれました。
第三高等学校から、東京帝大に進学。物理学科卒業後、神戸工業、東京通信工業(現ソニー)、などに勤務。
1960年にIBMに移り、後に日本アイビーエム取締役になっています。
「エサキダイオード」の発明に至る現象は1957年ソニー時代に発見されたものです。
当時ソニーではFMラジオのための高周波特性の良いトランジスタの開発に取り組んでいました。
2T7と呼ばれるこのトランジスタはソニー半導体部の塚本哲男が考案したものでした。
トランジスタは半導体の組合せで出来ています。
基本的には4価の物質(シリコンやゲルマニウム)に3価または5価の不純物を混ぜ、その結果できる正孔や余剰電子が電気の運び手となります。
3価の物質を混ぜて作った正孔(電子の不足)が電気を運ぶタイプをp型半導体、5価の物質を混ぜて作った電子が電気を運ぶタイプをn型半導体といいます。
p型半導体とn型半導体を接合させた時、
p→nに電圧を掛けると
p型半導体の中では電子が電極方向に移動して接合面付近に正孔が多数発生します。
n型半導体の中では電子が接合面方向に移動し、接合面付近多数の電子がたまります。
するとその電子は接合面を越えてp型半導体内に移動しますので、結果的に電気が流れることになります。
n→pに電圧を掛けると
p型半導体の中では電子が接合面方向に移動し、接合面付近の正孔をどんどん埋めてしまいます。
n型半導体の中では電子が電極方向に移動し、接合面付近にはほとんど電子がなくなります。
結果的に接合面付近に電気の運び手が無くなり、電気は流れません。
ということで、交流を直流に変換するための整流器を作ることができます。
これをダイオードといいます。
トランジスタはpnp或いはnpnという形に半導体を3つ接合したものです。
この時、両側の半導体部分をコレクタ・エミッタといい、真ん中の半導体部分をベースと言います。
このベースをとても薄く作ること、エミッタのほうがコレクタより不純物濃度が高い(電荷の運び手が多い)のがミソです。
例えばnpn結合の場合、通常の状態でコレクタ→エミッタ間に電圧を掛けてもコレクタ→ベース間がnp結合なので、電流は流れません。
しかしここでベース→エミッタにも電圧を掛けると、これはpn結合で電流がちゃんと流れる上に、エミッタからベースに入った電子がp型半導体内の正孔を埋めていき、更に一部はそのまま勢い余ってコレクタにまで入ってしまいます。
結果的にコレクタ→エミッタにも電流が流れることになります。
コレクタ→エミッタ間の電流は、ベースの電圧が大きいほど大きくなるので電流の増幅効果が得られます。(電流の流れは伝統的に電子の移動方向と逆向きとして表現される)
塚本が考案した2T7は4価の物質としてゲルマニウムを使ったnpn型のトランジスタでしたが、従来5価の物質としてアンチモンを使っていたのを燐に変えたのがオリジナルでした。
良質の高周波トランジスタを作るためには不純物の量を多くしなければならなかったのですが、アンチモンは原子番号が大きい為大量に混ぜるとゲルマニウムの結晶がうまく育ちにくいという問題が起きていました。
しかし燐だと小さいため、この問題を回避できたのです。
ところがこの新型トランジスタの量産を始めた段階になって大量の不良品が出てしまいました。
あまりの歩留まりの悪さに悲鳴をあげて研究所の江崎らが調査に駆り出されました。この時、彼らはある一定濃度の燐を混ぜた時にある電圧で突然電気特性が悪化するという現象を見つけだしました。
5価の燐がたくさん混ざれば、それだけ電子がたくさん余りますから、たくさん電気が流れるはずです。
そしてその流れる量は、掛ける電圧が高ければ高いほどたくさんになるはずです。
それにも関わらず、ある電圧を越えると電圧を掛けるほど電気が流れにくくなり、またある電圧を越えるとまた電圧に応じて電流が増えていくという「コブ現象」が見つかります。
この現象は燐の濃度がある限界以下であれば起きないことが分かったので、ソニーはそれでやっと安心して新型トランジスタの量産ができるようになったのですが、江崎はこの現象の原因は何だろうかと考え、これはトンネル効果によるものに違いないという結論に到達します。
電子のような素粒子の居場所というのは本来確率によってしか表すことができないので、電子が通常エミッタからベースへ移動することができないと言っても、この壁の向こう側に全く出現しないというのは量子力学の『不確定性原理』に反します。従って本来この接合面を通ることができるはずのない電子が実はトンネルを抜けたかのようにベース側に出現することも可能なはずです。これがトンネル効果と呼ばれるものです。
これは量子力学によってのみ説明することができ、古典的な物理学理論には反する現象です。
江崎が考えた概要はこうです。
トランジスタにおいてエミッタ内の電子は実はベースの電圧の助けがなくても、トンネル効果によって接合面を飛び越えることができるのでである。
それがベース電圧がかかることにより大量の電子が供給され飛び越える電子も多くなる。
もちろん先程の説明のようにして境界を越える電子もある。
これが通常のトランジスタの動作状態。
ところがある水準を超えて電圧が高くなるとエミッタ側の電子の電位が高すぎて接合面の向こう側にその状態で出現することができなくなり、トンネル効果が起きにくくなる。
このためこの領域では電圧を高くするほど流れる電流が減少する。
しかしそのトンネル効果の起きる電子が完全に無くなると、通常のpn接合によって流れる電子だけになってしまい、再び電圧を掛けるほど大量の電子が流れるようになる。
これと同じことはトランジスタではなくダイオードでも、不純物濃度を高くすれば起こすことができます。これが「エサキダイオード」です。
江崎はこの成果を同年秋の物理学会で発表しましたが、国内の学者の反応は極めて冷たいものでした。しかし江崎はそれを翌1958年アメリカの雑誌に投稿、ブリュッセルで開かれた国際会議でも発表しました。
するとこれにシリコンバレーの生みの親でもある、トランジスタ研究の先駆者ウィリアム・ショックレーが反応。絶賛したことから、江崎の研究は大いに注目を集めることとなりました。
エサキダイオードはスイッチング素子として使用した時、非常に速い反応をするため、高速のコンピュータを制作するのにたいへん役に立つと期待されました(現在ではコンピュータはMOS型トランジスタに主力が移ってしまい、エサキダイオードは使用されていない。エサキダイオードの現在の主な使用用途はマイクロ波の発振回路である)。
結局江崎は1960年からアメリカのIBMに移り、その後もこの方向の研究を続け、1973年、一連の研究に対してノーベル物理学賞が授与されました。
そして、江崎がノーベル賞をもらってはじめて日本の学会は慌てて江崎の評価をしはじめた、というのは湯川秀樹・広中平祐などと同様です。
江崎は1992年にはつくば大学学長に選ばれ、その後、茨城県科学技術振興財団理事長、つくば国際会議場館長、芝浦工業大学学長、教育改革国民会議座長などを歴任しています。
コンピュータによる天気予報(1959)
1959年3月12日
気象庁が天気予報にコンピュータを使用し始める。
天気予報の予測計算システムというのは、原理的には非常に単純なものです。
日本近辺の空気の状態を一定サイズのブロックに区切り、そのブロック内の気温・湿度・気圧・風速・風向などといった気象データを観測により設定します。
そしてそこから、力学の計算式に基づき、偏微分方程式を数値的に解いて空気の移動・水蒸気の蒸発などの現象をシミュレーション計算します。
昔のコンピュータ予測がなかなかうまく当たらなかったのは当時のコンピュータの性能では、この空気のブロックのサイズをかなり大きく(数十km単位)取らざるを得ず、計算が粗くなっていたためです。そこで1960年代頃は、一応最高級のコンピュータを使用して予測計算を実行するものの、それは参考にするだけで、実際はベテラン予報官が天気図を見て、勘で予報図を作成していました
1960年代の超大型計算機は現在の低価格パソコンの1000分の1か1万分の1程度の性能だったのではないかと思われます。
ところが1980年頃になってきますと、コンピュータの性能が上がってきて計算で使用する空気ブロックのサイズが細かくなってきたことから、段々ベテラン予報官の勘で作成した予報図より最初にコンピュータが予測計算して算出した予報図の方が、実際になった天気図に近いということが多くなります。
そこで1980年代半ば頃には、勘で予報図を作るのは中止され、コンピュータで算出した予報図がそのまま発表されるようになりました。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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