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12月28日 官庁御用納め、納めの不動、にわとりの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
クワイ       縁起がよい            ○
ザクロ(花)     円熟の美             ○
パイナップル    あなたは完璧・完全無欠      ○
パフィオペディルム 思慮深さ・変わりやすい愛情・変わり者○

∞…∞12月28日・今日という日 ∞…∞

岡田 唯   (1987)  美勇伝
村田修一   (1980)  野球
永沢喬之   (1979)  タレント、磁石
福田哲平   (1977)  タレント
福原 忍   (1976)  野球
井戸伸年   (1976)  野球
村井かずさ   (1975)  声優
パトリック・ラフター   (1972)  テニス
寺島しのぶ   (1972)  女優
十世・三宅藤九郎 (和泉祥子)   (1972)  狂言師
ベニー・アグバヤニ   (1971)  野球
豊嶋真千子   (1971)  声優
大庭伸公   (1971)  元GLAY、Dr.
レイモンド・ジョンソン   (?)  タレント
大清水さち   (?)  漫画家 「ツインシグナル」
富永美樹   (1970)  アナウンサー
雨宮塔子   (1970)  アナウンサー
細川和彦   (1970)  ゴルフ
ロドニー・ペトラザ   (1969)  野球
リーナス・トーバルズ   (1969)  リナックス開発
トータス松本   (1966)  ウルフルズ、Vo.
高井麻巳子   (1966)  タレント、歌手
越後和男   (1965)  サッカー
山口 香   (1964)  柔道
堀内孝人   (1962)  俳優
森下申一   (1960)  サッカー
一ノ矢充   (1960)  相撲
黒木真由美   (1959)  女優
友利 正   (1959)  ボクシング
藤山直美   (1958)  女優
デンゼル・ワシントン   (1954)  俳優
リチャード・クレイダーマン   (1953)  ピアニスト
藤波辰爾   (1953)  プロレス
北村 薫   (1949)  作家
佐々木恭介   (1949)  野球
大熊元司   (1941)  プロレス
渡 哲也   (1941)  俳優
石原裕次郎   (1934)  俳優、歌手
マギー・スミス   (1934)  俳優
曽根幸明   (1933)  作曲家
上原げんと   (1914)  作曲家
フォン・ノイマン   (1903)  数学者、コンピューター開発
畦地梅太郎   (1902)  版画家
倉橋惣三   (1882)  教育者
遠藤於菟   (1866)  建築家
トーマス・ウッドロー・ウィルソン   (1856)  アメリカ大統領

 ○ 平清盛、平重衡に命じ、南都興福寺を焼き討ち(1180)
 ○ ガリレオ海王星を観測(1612)
 ○ 八百屋お七の自宅放火がもとで江戸大火(1682)
 ○ メキシコ、スペイン軍を破り独立(1812)
 ○ 宇都宮駅前に初の駅弁。にぎり飯とたくあん。ひと包み、5銭(1886)
 ○ レントゲンがX線撮影に成功したことを発表(1896)
 ○ 大日本相撲協会設立(1925)
 ○ 宗教法人令を公布。宗教法人と認められた団体は自由に布教活動が可能に(1945)
 ○ アメリカの社会学者ルース・ベネディクトの日本人論「菊と刀」出版(1948)
 ○ バングラデシュが非常事態宣言(1974)
 ○ 俳優の田宮二郎が散弾銃で自殺(1978)

官庁御用納め
1873年(明治6)太政官布告第二号、「休暇日ヲ定ム」により官庁の公休日を1月1〜3日、6月28〜30日、12月29〜31日までと決めた事から。
なお、6月の公休日に関しては、同年の太政官布告第二百二十一号により取り消されている。

罪なき嬰児殉教の日(チャイルドマス)
この日、ヘロデ王がキリストの誕生を恐れて、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子をすべて殺害するように命令した。
キリストの身代わりとして罪なく殺された幼な子の為に、この日ミサが行われる。

シネマトグラフの日
1895(明治28)年、パリで映画をスクリーンに写すことに成功しました。

身体検査の日
1888年(明治21年)のこの日、文部省が直轄学校に対し、生徒の身体検査を行うよう訓令した。

ディスクジョッキーの日
ラジオプレスの上野修さんが提唱。 日本のディスクジョッキーの草分けである糸居五郎さんの命日。





相撲協会発足(1925)
大正14年12月28日、文部大臣の認可により財団法人大日本相撲協会が発足しました。

相撲は「日本の国技」といわれるほど、古くから行われていました。
8世紀には聖武天皇が相撲節会を開催。
その後、桓武天皇の時代から毎年天覧相撲が行われるようになりました。

しかし宮廷文化が衰えて鎌倉時代に入ると、こういったものは途絶。
相撲は庶民の文化として生き延びていきます。
そして江戸時代に入って、江戸と上方とで、相撲の商業的興行が行われるようになり、相撲は歴史の表舞台に復帰しました。
有名な第四代横綱・谷風梶之助は仙台藩お抱え力士で江戸で活躍しました。
通算成績は258勝14敗37分という、今ではとても考えられないような成績です。
また松江藩お抱えの雷電為右衛門は横綱にこそなれなかったものの、254勝10敗という、これまたとんでもない成績を残しています。

(雷電がなぜ横綱になれなかったのは、相撲史上の謎とされています)

明治以降も江戸−東京と大坂−大阪の相撲興行はそれぞれ協会を設立し活動を続けます。
力士によっては大阪・東京間で移籍する者もあったようです。

その両者が合同に向けて動き出した背景には大木戸の横綱問題がありました。
大木戸は大阪大角力協会の力士ですが、充分な力があるということで横綱に推挙され、大阪協会は吉田司家に横綱免許を申請します。
ところが司家側がこれを認めず話し合いも不調。
そこで大阪協会は強引に横綱を作り住吉大社で土俵入りを強行しました。
これがもとで大阪協会と東京協会の仲は険悪になりついに明治43年1月両者は絶縁状態になります。

しかしこの状態はよくないということでやがて和解の動きが出ます。
大正元年12月にようやく両者の話はまとまり、大木戸も正式の横綱として認められました。
そしてこれを機に両者の共同興行が行われたりもするようになり、やがて両組織を統一しようという所までいきます。

そのため大正14年9月30日財団法人設立の申請がなされ、12月28日認可がおりたものです。
翌年7月両協会の合併の調印がなされ、昭和2年1月両者は正式に統合されました。
本場所は年に4回、東京で2回と大阪で2回開かれることになりました。







で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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