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12月23日 天皇誕生日、テレホンカードの日(1983)、ふみの日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ペペロミア     かわいらしさ           ○
オリーブ      平和・知恵            ○
カトレア(紫)    優美な女性・優美な女心      ○
スペアミント    温厚・情の温かさ         ×
シャコバサボテン  つむじまがり・美しい眺め・冒険心 ○
プラタナス     天稟・天才・非凡         ○

∞…∞12月23日・今日という日 ∞…∞

林直次郎   (1990)  平川地一丁目
樫野有香   (1988)  Perfume
亀井絵里   (1988)  タレント、モーニング娘。
Yuri   (1983)  Mi、Key.
大谷允保 (大谷みつほ)   (1982)  タレント
山本康平   (1980)  俳優
柏原収史   (1978)  俳優
矢田亜希子   (1978)  女優
高橋奈苗   (1978)  プロレス
吉川正洋   (1977)  タレント、ダーリンハニー
柴田倫世   (1974)  アナウンサー
山崎まさよし   (1971)  シンガーソングライター
恵本裕子   (1971)  柔道
田中ちなみ   (1971)  女優
下田美馬   (1970)  プロレス
松久 淳   (1968)  作家
松岡英明   (1967)  ミュージシャン
おちまさと   (1965)  放送作家
越 和宏   (1964)  スケルトン
武藤敬司   (1962)  プロレス
いのまたむつみ   (1960)  イラストレーター
川井一仁   (1960)  ピットリポーター
綾辻行人   (1960)  作家
宮部みゆき   (1960)  作家
城之内ミサ   (1960)  作曲家
庄野真代   (1954)  歌手
仙波清彦   (1954)  ミュージシャン
原田悠里   (1954)  歌手
前田竹千代   (1952)  チャンバラトリオ
笑福亭鶴瓶   (1951)  タレント、落語家
桂 小軽   (1950)  落語家
つかせのりこ   (1945)  声優
水森亜土   (1939)  イラストレーター、ジャズシンガー
山本文郎   (1934)  アナウンサー
山口信夫   (1924)  旭化成会長
安倍能成   (1883)  教育者
江崎利一   (1882)  江崎グリコ創業者
岡田茂吉   (1882)  宗教家
徳田秋声   (1871)  作家
アンリ・ファーブル   (1823)  学者
光明天皇   (1321)  天皇 (北朝)

 ○ 足利直義、天竜寺船を元に派遣(1341)
 ○ 江戸幕府、日蘭(オランダ)和親条約を締結。長崎のほか箱館を開港し、オランダ人の信教の自由を認める等、従来の制限を大幅緩和(1855)
 ○ 石川倉次らが日本訓盲点字を完成(1890)
 ○ 南アフリカのダートが猿人の化石を発見する(1942)
 ○ 東条英機らA級戦犯7名、絞首刑執行(1948)
 ○ 初のスーパーマーケット「紀ノ国屋」が東京・青山に開店(1953)
 ○ 東京タワー完工式。高さはパリのエッフェル塔を凌ぐ333m。総工費28億円。120mの展望台まで1分のエレベーター、南は大島まで一望に見え東京の新名所に(1958)
 ○ フィギュアスケートの渡部絵美、国内大会8連覇(1979)
 ○ 電電公社(現在のNTT)、カード式公衆電話を新設(1982)

祝日・休日
天皇誕生日 天皇の誕生日を祝う
1933年(昭和8年)のこの日、現在の天皇(当時の皇太子)が誕生したことによる。
即位は昭和64年1月7日。

東京タワー完成の日
1958年(昭和33年)に東京・芝公園に東京タワーが完成した。高さは333メートル。

テレホンカードの日
1982年(昭和57年)のこの日、東京・数寄屋橋公園にカード式の公衆電話の第1号が設置されたのを記念してNTTが制定。





岡田茂吉(1882-1955)
真光系の教団や神慈秀明会・救いの光など少なくとも30以上の教団のルーツとなる世界救世教の創始者・岡田茂吉は明治15年(1822)12月23日東京浅草で生まれました。

祖父は裕福な質屋さんでしたが父親が店を没落させ、茂吉が生まれたころは店を失って露天商になっていました。
そういう父だけに茂吉は早くから自立の意志を見せ、はじめ画家を志しますが病気のため断念、代わりに鑑定眼を磨いて25歳の時、古美術商になります。

2年後には日露戦争の勝利に沸く世相に乗じて女性用のアクセサリーショップをオープン、彼自身のデザインによるアクセサリーが売れて店は大きな利益をあげます。この頃結婚。

しかし商売は好調でも相変わらず病気がちで「婦人病以外の病気は全部した」というほどだったそうです。
そして大正8年取引銀行が倒産したために突然破産の憂き目に遭い、しかも同年妻が死亡。
いきなりどん底にたたき落とされてしまいます。
その後何とか事業を立て直し再婚もしますが、世界恐慌、関東大震災と相次ぐ大きな波に巻き込まれその度に事業は挫折しました。

さすがに神に救いを求めるようになり大本に入信、自らも神懸かりの経験をして、昭和3年には商売をやめ昭和6年ころからは大本の伝道師として熱心に活動するようになります。
しかし大本の本部の方針と対立。昭和9年に脱退して同年5月応神堂設立、翌年大日本観音会結成。
浄霊による病気治療の活動を独自に始めました。しかしこの活動は医師法違反に問われ、警察の摘発を受けます。
その後も戦時中はかなり当局の目を意識した不自由な活動を余儀なくされました。

終戦後宗教の自由化に伴い、本格的な活動を再開。
いくつかの名称変更を経て、昭和25年に世界救世教を設立しました。
この頃から有名な手かざしによる浄霊法も積極的に始めます。
また自然農法に興味を持ち、化学肥料や農薬を使わない農業に熱心に取り組み、またその広報に務めました。
一方では元からの仕事兼趣味である美術の方でも多数の美術コレクションを集めています。
昭和30年2月10日死去。

なお教団名は「救世」を当初は「メシヤ」と読みましたが昭和32年からは普通に「きゅうせい」と読むようになっています。
茂吉の死後はさすがに求心力が薄れ、この教団から昭和34年に岡田光玉の真光(まひかり)、昭和45年には小山美秀子の神慈秀明会、昭和47年に大沼祐子の救いの光、などなどが独立して各々本体より大きく成長しています。






カード式電話登場(1982)
1982年12月23日 カード式公衆電話が登場

公衆電話は初期の頃、市内は10円で何分でも通話することができました。
そのため誰か一人がダラダラと長電話をしていると、その後ろにずらっと並んだ人たちは渋い顔で、その通話が終わるのを待っていたものです。

そこで、この迷惑な長電話追放のための施策として1970年、公衆電話は3分で打ち切られることになりました。
当時実施した調査により、通話の大半は2分程度以内で終わっていることにもとづいて行われたものです。
長時間通話するためには10円玉をたくさん投入する必要がある為長電話防止になるという訳でした。
この頃までの公衆電話というのは、その名の通りまさに「公共電話」であり、みんなの共有物だったのです。

その後、1972年に登場したのが100円玉の使える黄電話です。
これは特に長距離通話をする時に、10円玉をたくさん投入しなければならないのを解決するためのものでした。

しかしこの100円電話にはとんでもない欠陥がありました。
それは「釣り」が出ないという問題です。
悲惨なのは100円使うだろうと思って遠方に掛けたら、相手が不在だったとかいうケース。
そのため、当時の人々は自衛策として、最初10円で掛けて、相手が出たのを確認してから100円を投入するというわざをやっていました。
また、100円でお釣りが出ないのは、電電公社による横領に当たるとして、裁判を起こした人もいます。

この問題を解決したのは結局10年後に出たこのカード式電話でした。
電電公社は結局、きちんとお釣りの出る公衆電話を製作しなかったのです。
理由は説明されていません。

このカード式電話とともに登場した「テレホンカード」はその絵柄が良かったことから、全国に多数のコレクターを生みました。
初期の頃は、テレホンカード自体に連番が付いていましたので、その番号を頼りに完全収集を志していた人もありました。
今でも最初の100枚を全部持っているという人が全国にたぶん十数人存在すると思います。

またやがて自由にデザインできるテレホンカードというのが出ますと、これは結婚式の引き出物や葬式の香典返しなどに使用されるようになりまた会社の創立記念や大きなコンサート・フェスティバル等の記念品としても利用されるようになりました。

1983年から1996年くらいまでの10年ちょっとというのが、このテレホンカードの時代です。

テレホンカードの寿命を宣告することになったのは携帯電話の普及です。
1995年秋にPHSのサービスが開始されると、公衆電話とほぼ同じ料金で携帯型の電話が使えるとあって人々は大きくPHSに注目しました。
結局はPHSではあまり使い手がないと分かり、新規発売されたPHSではなく、従来型の携帯電話が大きく売れることになります。

この結果、携帯電話と、それでもまずまず売れたPHSとが普及したことにより多くの人がわざわざ公衆電話を探すより自分の携帯なりピッチで電話をするようになりました。

これにより「公衆電話」というものそのものの利用率が極端に低くなりテレホンカードもあまり利用されなくなってしまいます。

時代の移り変わりの激しさには、怖い物があります。




空海が長安到着(804)
延暦23年12月23日、遣唐使として中国に渡った空海が中国の長安の都に到着しました。

思わぬ長い道のりでした。

一行が九州を発ったのは7月6日のことです。順調に行けば数日で中国に到着するのですが、あいにく暴風雨が来ます。
そしてこのため4艘で仕立てた遣唐使船の内、第3船と第4船は沈んでしまいました。

この時、第1船に空海、第2船に最澄が乗っていました。日本の宗派仏教の元祖ともいうべき、このビッグ2は幸運にも難を逃れました。

船は暴風雨の後遺症で漂流。1ヶ月もかけて、中国南部に流れ着きました。

現地ではそんな場所に遣唐使が来たことがなかったので、本物かどうかもめます。
やっと向こうの係官を納得させ、それから陸路で長安まで行くことになります。
そして日本を発ってから5ヶ月もの日数をかけて、やっと目的地にたどりついたのでした。

長安についた最澄は、天台山で教義を学び経典の書写をさせて、1年ほどで帰国。
彼は唐に行く前に比叡山に延暦寺を開いていました。帰国後もここを拠点として天台の修行システムを整備していきます。

また空海は梵語を初めとする色々な予備知識をしっかり作った上で真言密教の大家・恵果を訪ね、その奥義を体得。
その後継者の一人となって3年後日本に帰国。
大量の経典・仏具を日本にもたらしました。
彼は国費留学生の最澄と異なり、一般の私費留学生でしたが、最澄の引き立てもあって天皇に認められ、京都に東寺、そしてやがて高野山に金剛峰寺を建てました。

その後、比叡山に学んだ僧の中から、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮など、また徳川家康の参謀・天海などが出ています。
ここは僧の学校として長く機能してきました。

一方の高野山に学んだ遊行僧たちは高野聖と呼ばれ、全国の庶民に仏教を広める役目を果たしました。

(ただし高野聖にも悪質なのもいて「ごまのはい(護摩の灰)」と呼ぶ。
 『これは弘法大師が焚いた護摩の灰だ』とか言って出自不明の灰を高く売りつけたりしていたからである)


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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