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12月21日 遠距離恋愛の日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ラケナリア     移り気              ○
カボチャ      大きさ・広大           ○
コルチカム     華美・私の最良の日は過ぎた・美徳 ○
スペアミント    温厚・情の温かさ         ×
ハッカ       貞淑・美徳・効能         ○
プラタナス     天稟・天才・非凡         ○

∞…∞12月21日・今日という日 ∞…∞

マイケル・メンツァー   (1991)  タレント
吉川ひなの   (1979)  タレント、女優
ドーター・コパ   (1979)  風水師
前川 涼   (1978)  漫画家
三重野瞳   (1977)  歌手
西手勝秋   (1975)  俳優
カリー・ウェブ   (1974)  ゴルフ
宮平秀治   (1973)  スキー、ジャンプ
はな   (1971)  モデル
木伏智也   (1971)  TVディレクター
山田かよ   (1970)  ゴルフ
谷繁元信   (1970)  野球
平川健太郎   (1970)  アナウンサー
月島 薫   (1970)  漫画家
飯田晴子   (1970)  漫画家
マーク・ケアー   (1968)  格闘家
草野正宗   (1967)  スピッツ、Vo.
宇治正高   (1967)  タレント、元イーグルス
ハーレー斉藤   (1967)  プロレス
岩岩岩岩   (1966)  俳優
本木雅弘   (1965)  俳優、シブがき隊
フローレンス芳賀   (1966)  タレント
恵 俊彰   (1964)  タレント、ホンジャマカ
幾原邦彦   (1964)  アニメ演出家
野呂五郎   (1963)  タレント
日野美歌   (1962)  歌手
佐藤 満   (1961)  レスリング
大森ゆかり (大森友伽里)   (1961)  プロレス
フローレンス・ジョイナー   (1959)  陸上競技
関口和之   (1955)  サザンオールスターズ
片岡鶴太郎   (1954)  タレント、俳優
牧村三枝子   (1953)  歌手
安斎 肇   (1953)  イラストレーター
榊原広子   (1953)  ダ・カーポ
ステファン・ジョン・ペリマン   (1951)  サッカー
神田正輝   (1950)  俳優
サミュエル・L・ジャクソン   (1948)  俳優
若井小づえ   (1947)  漫才師
フランク・ザッパ   (1940)  歌手
夏樹静子   (1938)  作家
ジェーン・フォンダ   (1937)  女優
湯浅 実   (1934)  俳優
佐藤 慶   (1928)  俳優
池田弥三郎   (1914)  国文学者
ミス・マヌエラ (和田妙子)   (1911)  ダンサー
ジョッシュ・ギブソン   (1911)  野球
松本清張   (1909)  作家
ヨシフ・スターリン   (1879)  政治家、ソ連
大西良慶   (1875)  僧侶
徳川家重   (1711)  徳川幕府将軍

 ○ 紀貫之「土佐日記」書き始める(934)
 ○ メイ・フラワー号に乗ったイギリスの清教徒たちがアメリカ大陸のプリマス・ロックに上陸。アメリカ開拓はじまる(1620)
 ○ 伊能忠敬が蝦夷南東海岸と奥州街道の略測図を勘定所へ提出する。日本初の実地測量地図(1800)
 ○ 「赤城の山もこよい限り」国定忠治41歳で刑死(1850)
 ○ 江戸幕府、下田で日露和親条約に調印。国境をエトロフ島とウルップ島に決めた他、下田、函館、長崎を開港(1854)
 ○ 工部省と宮内庁との間でベルの電話機の実演(1877)
 ○ 三井呉服店が三越呉服店と改称、日本最初のデパート、三越呉服店開業(1904)
 ○ 首都高速1号完成(1963)
 ○ 結婚、離婚数とも史上最多に (1970)
 ○ 1000万円ジャンボ宝くじ購入に群衆殺到、松本と福岡で死者(1976)
 ○ ベルリンの壁取り壊し作業開始(1989)

クロスワード・パズルの日
1913年(大正2年)のこの日、世界で初めてクロスワードパズルが「ニューヨーク・ワールド」紙の日曜版に掲載された。

遠距離恋愛の日
遠くに離れている遠距離恋愛中の恋人同士がクリスマス前に会い愛を確かめあう日。






土佐日記書出し(934)
「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」

紀貫之は「土佐日記」の冒頭をこのように書き始めています。
時は「しはすあまりひとひのひのいぬのとき」つまり、12月21日の夜8時頃です。
承平4年(934)、紀貫之(きのつらゆき,869?-946)は4年間の土佐守としての任期を終えて京に戻るまでの約2ヶ月間の出来事を日記文学としてまとめました。

この時、貫之は漢文ではなく和文でこれを書くという新しい試みに挑戦します。
しかし当時は男性は漢文で文章を書くのが普通とされ、和文で書いてよいのは女性だけでした。
そこで、貫之はわざわざ冒頭の文章をこのように書いて、筆者を女性に仮託したわけです。

紀貫之は三十六歌仙の一人で、古今集の代表的編集者の一人です。
古今集には漢文の真名序(まなじょ)と和文の仮名序(かなじょ)という二つの序文が付けられていますが、この仮名序が紀貫之の手によるものです。
彼は和文を真に愛していたのでしょう。

なお、これは高校の古典でやってる内容ですが、「男もすなる」の「なり」は伝聞推定の助動詞で終止形につきますが、「するなり」の「なり」は断定の助動詞で連体形につきます。
二種類の「なり」が出てくるサンプルとして有名な文でもあります。この文章の意味は「男の人もするという日記というものを、女の私もしてみようと思ってするのです」ということになります。

蜻蛉日記の書き始めが、これより40年ほど後。紫式部らが活躍する平安女流文学の隆盛が来るのは、土佐日記より70年ほど後のことです。







スターリン(1879-1953)
20世紀最大の虐殺者といわれるソ連書記長スターリンは1879年12月21日コーカサスのゴーリで生まれました。
本名はヨシフ・ビサリオノビチ・ジュガシビリで「スターリン」は「鋼鉄の人」という意味。

ロシアの革命指導者たちは当局の追求を逃れるためお互いにコードネームで呼び合っていました。
レーニンも本名はウラジミル・イリイチ・ウリャーノフ。
レーニン」という言葉の意味は不明だそうです。
カーメネフは「石」(本名ローゼンフェルト)、モロトフは「金槌」(本名スクリアビン)。

靴職人の子で15歳の頃から革命に興味を持ち、1898年に社会主義の運動に参加、翌年学校を退学処分、何度も逮捕されて、1902年と1913年にはシベリア流刑をくらっています。

さてロシアの革命は1905年にロマノフ王朝が倒れた第一次革命とその後1917年にポリシェビキが実権を握った10月革命とに分かれますが、この10月革命でスターリンはレーニンらと共に中心的な役割を果たしました。

1922年には共産党中央委員会総書記に就任、1924年のレーニンの死後、党の実権を掌握します。
スターリンの中に潜む凶暴性を見抜いていたレーニンは「スターリンだけはトップに付けるな」と遺言しましたが、誰も彼を止めることはできませんでした。

最大のライバルとされたのがトロッキーですが、トロッキーが社会主義革命を全世界に広げようという方針であったのに対してスターリンは現在のソ連の領域で止めて外には広げないという方針を取り、この時点ではスターリンが勝ったのは周辺の国々にとっては幸福でした。
トロッキーは1929年には国外追放され、1940年にメキシコで暗殺されています。
(スターリンの部下の犯行と言われている)

1928年に農業の集団化に着手。多くのコルホーズ・ソホーズが誕生しますが、その強制的な体制移行に伴い約350万人の農民が死亡したといわれます。

国内の反対勢力も強くなり1934年には彼の右腕といわれたキーロフが暗殺され、これを契機に彼は大規模な粛正に取りかかります。
この数年間の粛正だけで100万人の共産党員を含む1000万人ほどの国民が処刑されたり収容所の強制労働で死亡したといわれています。

彼は密告を奨励し、誰もが隣人に密告されるのではないかと恐れおののきながら生活していました。
子供が親を密告した例もあり、スターリンはその密告した中学生くらいの子供を全国民の前で表彰しました。

(両親は処刑済。そのフィルムで笑顔で表彰されていた子供の顔が私の目にこびりついている。その子にとってその時点でその行為は勇気ある正義だったのでしょう。その子がその後どう成長したのか考えると悲しい)
こんなとんでもない指導者がすぐ退任に追い込まれなかったのは、近くで、もっととんでもない人が現れたからでした。
ドイツのヒットラーはソ連と不可侵条約を結んだ上で1939年ポーランドに侵入、第二次世界大戦を引き起こします。
ナチスドイツが終戦までに虐殺した人の数は600万人。
ポルポトがカンボジアで殺害した250万人を抜いて20世紀の虐殺者「暫定」2位です。
(毛沢東と四人組が文革で殺害した人数がまだ明らかになっていないので将来3位になる可能性も。ただ毛沢東らは何度も失脚し実権を握っていた期間が短いのでもしかしたら300万人以下かも)

そしてこの戦争が終わった後、今度はソ連は更にアメリカとの「冷戦」を開始。
これが逆にこの独裁政権の寿命をのばす結果になってしまいました。

1953年3月5日脳出血のため死亡。約30年間にも及ぶ長期政権の間に虐殺され
た人の数は論者によって違いますが、2000万〜5000万人といわれています。

その行動は後のフルシチョフやゴルバチョフらにより厳しく批判されています。





南海地震(1946)
1946年12月21日 南海地震。マグニチュード8.。死者1330、家屋全半壊35078、流失1451、焼失2598。

この地震は地震によって引き起こされた津波により西日本各地に被害がひろがっています。時々こういうタイプの地震があります。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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