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12月19日 日本初飛行の日、トークの日(毎月)、馬に親しむ日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
オモト       崇高な精神・葬儀・長寿・長命
          母性の愛・相続          ○
ゴボウ  いじめないで・しつこくせがむ・私にふれないで○
スノーフレーク 慈愛・純潔・純粋・汚れなき心・清純・美○

∞…∞12月19日・今日という日 ∞…∞

大村彩子   (1984)  女優
松下萌子   (1982)  タレント
佐藤江梨子   (1981)  タレント
河野明子   (1978)  アナウンサー
中澤寛規   (1978)  GOING UNDERG ROUND、G.
藤崎奈々子   (1977)  タレント
藤川京子   (1977)  タレント、競馬評論家
岩尾 望   (1975)  タレント、フットボールアワー
反町隆史   (1973)  俳優、歌手
森山開次   (1973)  ダンサー
エリック・ワイナイナ   (1973)  マラソン
国実百合   (1970)  タレント
YU-KI   (1966)  TRF、Vo.
本間昭光   (1964)  作曲家
寒空はだか   (1964)  タレント
安部 理   (1962)  野球
香川伸行   (1961)  野球
中村扇雀 (三代目)   (1960)  歌舞伎役者
山中秀樹   (1958)  アナウンサー
ゆうきまさみ   (1957)  漫画家 「機動警察パトレイバー」
小杉十郎太   (1957)  声優
吉本昌弘   (1957)  脚本家
吉田まゆみ   (1954)  漫画家 「アイドルを探せ」
渡辺宜嗣   (1954)  アナウンサー
久野 誠   (1952)  アナウンサー
岡本 麗   (1951)  女優
江越哲也   (?)  ラジオパーソナリティー
金子正次   (1949)  俳優、脚本家
福永洋一   (1948)  競馬騎手
平野次郎   (1940)  アナウンサー
鈴々舎馬風 (五代目)   (1939)  落語家
一峰大二   (1935)  漫画家
木元教子   (1932)  評論家、ジャーナリスト
中村鉱一   (1924)  日本肥満予防協会会長
エディット・ピアフ   (1915)  シャンソン歌手
ジャン・ジュネ   (1910)  劇作家、詩人
埴谷雄高   (1909)  作家
レオニード・ブレジネフ   (1906)  政治家
吉田五十八   (1894)  建築家
井上成美   (1889)  軍人
片山東熊   (1854)  建築家
富岡鉄斎   (1836)  日本画家

 ○ 羽柴秀吉が太政大臣に任じられ豊臣姓を朝廷から授与(1586)
 ○ 豊臣秀吉が6人の宣教師と20人の日本人のキリスト教徒26名を捕らえ長崎で初処刑(1596)
 ○ 世界最初の義務教育。マルティン・ルターが、小学教育の義務制を主張。6歳から12歳までの子供を対象にワイマールで実施(1619)
 ○ 大岡越前守忠相、没。75歳(1751)
 ○ 尋常小学校、6年制に(1906)
 ○ 代々木で徳川大尉、日本初の飛行実験。飛行時間4分、最高高度70m、距離3000m(1910)
 ○ 原子力基本法、公布(1955)
 ○ 公衆浴場が大人19円、小人8円に値上げ(1961)
 ○ 10ヶ国蔵相会議において1ドル=308円に変わる(1971)
 ○ 「少年ジャンプ」(集英社)が500万部を突破(1988)
 ○ 文部省、92年度2学期からの公立学校での月1回の土曜休校の実施決定(1991)
 ○ 韓国、大統領選挙に敗れた金大中が政界引退を表明(1992)

仏名会
774年、清涼殿に僧を召して行われたのが始まりで「御仏名」「仏名懺悔」ともいう。
仏の名前をとなえ罪を清めることを目的とした法要。
845年に宮中の恒例行事となった。すす払いは家の掃除、仏名会は心の掃除といわれる。

日本初飛行の日
1910年(明治43年)に、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初の飛行訓練を行ない、日本で初めて飛行に成功した日。




26聖人殉教(1596)
慶長元年(1596)12月19日、豊臣秀吉の命により、京都・大阪で捕らえられたキリスト教信者20人とバテレン6人が長崎で処刑されました。

この頃の国の宗教政策というのは微妙です。もともと信長などは仏教の勢力を削ぐためにキリスト教を利用するわけですが、あまりキリスト教が勢力を持ちすぎると第二の浄土宗にしてはたまらぬとして弾圧に転じます。
そしてやがて対立は島原の乱(1638)へと流れていくことになります。

この時代のキリスト教への弾圧に関しては遠藤周作の『沈黙』に詳しいです。
体に小さな傷を付け、逆さに吊すと、その傷からポタ、ポタ、ポタ、と血が落ちていきます。
いつまでも、いつまでも。

ムチを打つわけでもなく石を抱かせる訳でもない、こわい拷問です。

日本にキリスト教を伝道したのはフランシスコ・ザビエル(1506-1552)です。
彼は天文18年(1549)7月3日鹿児島に来訪。平戸、京都、山口で伝道して天文20年離日しました。
特に平戸と山口では暖かく迎えられました。

当時、日本のほとんどの人は彼がもたらした「カトリック」というのも仏教の新しい一派くらいに思っていたようです。
また実際多くの宣教師が各地のお寺を借りて説教をしたりしていたようです。
イエズス会の人たちはアメリカに渡った宣教師たちがしたように既存宗教を破壊しようとはしませんでした。
それに日本人の宗教に対する受容力の大きさが、この新来の宗教をスムーズに日本に浸透させたのでしょう。
大名の中にも、大友宗麟・細川忠興・伊達政宗らのようにキリスト教を手厚く保護する者も出てきました。

純粋に信仰としてキリスト教に関心を抱いたこれらの大名に対して、日本の為政者たちはもっと政治的な意図でキリスト教に接していきます。

織田信長は永禄12年(1569年)フロイスに布教を許す代わりに海外の情報を仕入れ参謀として使います。
そして信長はさんざん手を焼いている本願寺などの浄土仏教勢力をキリスト教の浸透によって弱体化させよう、という意図もありました。

元々、阿弥陀如来による他力本願の救済を説く浄土教と、神との契約による救済を説くキリスト教は構図的に近いものがあり、信者としては乗り換えやすい面がありました。
キリスト教は信長の思った以上に急速に普及します。
しかしあまり普及しすぎると、今度はこちらが浄土教同様にあぶない存在になってきます。

天正15年(1587)6月19日、信長の後継者豊臣秀吉はキリスト教の禁令を出し、宣教師の国外追放を命じました。

更に天正17年、京都のキリスト教寺院を焼き、宣教師を拘束して長崎に送り、文禄3年(1594)にはとうとう京都・大坂で捕らえたキリスト京都数人を長崎で処刑、そして更に慶長元年(1596)11月15日には26人のキリスト教徒を捕らえて、12月19日やはり長崎で処刑しました。

このあとキリスト教弾圧はどんどん過激になっていきます。

江戸幕府はカトリック国のポルトガルと断交。布教はせずに交易だけしたいと言ってきたプロテスタント国のオランダだけと交流するようにします。
そして特に激しい弾圧の行われた島原では「島原の乱」が勃発。
しかし、これを境にキリスト教徒は地下に潜伏するようになりました。

幕府はキリスト教徒を見つけだすために「踏み絵」などを行います。
当初は踏み絵を拒否していたキリスト教徒たちも、このままでは信仰の命脈が途絶えてしまうとして、踏み絵をやらされた時は、平静を装って聖画を踏み、そのあとで秘密の教会に行って懺悔をする、という作戦に変更します。
このため日本国内のキリスト教徒は完全に表面上は姿を消し、密かに、ほんとうに密かに信仰を続けます。

彼らは観音像に模したマリア像を崇敬し、墓のなかなか見つからない部分にこっそりと十字架を刻んだり、といったことをしていました。
これを「隠れキリシタン」と言います。

幕末、国がまた開かれ、外国のキリスト教関係者が入ってきた時、彼らは日本国内で最も激しい弾圧が行われた長崎の地に隠れキリシタンを発見し、驚きます。

開国になってもう大丈夫であろうと考え明らかにしたものでしたが、一応キリスト教の禁制は生きています。
彼らは即逮捕されてしまいました。この時に検挙されたキリスト教徒は3000人を越えます。

しかし彼らの処遇に関して、欧米諸国から猛烈な抗議が来ます。そして明治政府は方針を一転。
明治5年(1872)2月24日、キリスト教禁止の高札を撤去。
約300年振りの解禁でした。

そして明治政府では、この際日本でも欧米にならってキリスト教を国教にしよう、という話にまでなります。

これがもし実現していたら、天皇の即位の礼を枢機卿が主宰するようなことになっていたかも知れません。

しかし明治政府内部の話し合いはキリスト教ではなく、新たに設立する新形式の神道を国教にする方向に転換、国家神道の構築が進められ、天皇も仏教から神道に改宗させられることになりました。
この方針により、キリスト教は自由化されたとはいえあまり歓迎されない状態が継続し、また従来の仏教・神道ともにかなりの弾圧を受けることになります。

全国の多くの寺が襲撃されて仏像が破壊され、また多くの神社で御祭神の名前が、天照大神に関連の深い神様の名前に書き替えられたりしました。








大岡越前(1677-1751)
宝暦元年(1751)12月19日、テレビドラマでおなじみ大岡越前こと、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみ・ただすけ)が亡くなりました。
75歳でした。

大岡忠相は延宝5年(1677)江戸で生まれました。父は1700石の旗本大岡忠高、10歳の時に同族の旗本大岡忠真(奈良町奉行)の養子になります。

元禄6年(1693)に兄の忠品が将軍綱吉の怒りを買って遠島になり、同12年には従兄の忠英が上役を殺害する事件を起こして一族は肩身の狭い思いをすることになります。

同年養子先の娘・珠荘院と結婚して子供を2人もうけますが二人とも早死にし、宝永6年(1706)にはその妻も亡くなってしまいました。

幕府の職に就いたのは元禄15年(1702)5月、御書院番という役目でした。
その後、御徒頭・御使番・御目付と出世し、正徳2年(1712)伊勢山田奉行に就任しました。

しばしば大岡越前は紀州藩内で活動していたのを吉宗に認められて、吉宗が将軍になった時に一緒に連れて行ったと思っている人がいますが、そうではなく、大岡はお隣の山田の奉行でした。

この山田奉行時代に紀州と松坂の境界線問題を厳正に裁いたことで吉宗がこの人物に注目します。
そして享保元年(1716)に吉宗が将軍に就任すると、彼を江戸町奉行に抜擢(1717)したのです。

彼は江戸町奉行を19年間、その後寺社奉行を15年間務め、寛延元年閏10月には1万石に加封して三河国大平の大名に列しました。
この大平の大岡家はその後もずっと継続していきます。

寛延4年、病気により寺社奉行を辞し、その年6月に吉宗が亡くなると、その後を追うように同年12月19日死去。

忠相が江戸町奉行に任命された時、彼は北町奉行でしたが、2年後にその奉行所(数寄屋橋)が南町奉行所と改名されて、彼はその後南町奉行として活動しています。
その頃の奉行所の陣容は与力25騎、同心120人。これで御江戸八百八町の治安を守らなければならないので、かなりの激務であったようです。
だいたい事件の発生件数からすると1日平均30〜40件の判決が言い渡されており(ニューヨークの24時間営業の裁判所並み)、その関係者の取り調べにあたる与力たち、事件の捜査をする同心たちの負荷というのはすさまじく重たいものでした。

町奉行所は北と南が月交替でおこない、1月受付をしたら1月休みなのですが、その休みの月にも下調べや調書書きですさまじい忙しさ、実際には休みはほとんど無かったようです。

事件が多いので、ほとんどの事件は与力がほぼ全て決着を付けており奉行はその結果を承認するだけ。
あとは主として取り調べの様子を見て回ることに時間を割いたようです。
奉行が御白州で直接取り調べをおこなったのは余程の重大事件でしょう。

時代劇ではよく「不届きに付き、打首獄門を申しつける!」などとやっているケースもありますが、実際には相手が町人といえども、死罪を言い渡すには老中の許可が必要でしたので、死刑の場合その場で判決が言い渡されることはありませんでした。
老中は死刑認可の印を押すのに、印の入っている袋の紐を「今日は2回りほどこうかな」「今日は1回りだけにしておこう」と何日もかけてから取り出し、そして押印したといいます。
それだけ死刑というのは意味の重い刑罰として運用されていました。「人の命は地球より重い」という考え方は、何も戦後の裁判官が突然思いついたものではなく、日本という国の長い伝統なのでしょう。
これが平安時代になると、数百年にわたって、死刑という刑罰は一切おこなわれていません。

大岡忠相は町奉行所の構造の設計をおこない、その後奉行所が建て直される時は忠相の設計が基本的に踏襲されています。
また同心やその個人的な部下である岡っ引きたちに拷問の禁止を徹底させ、冤罪防止のための心得なども厳しく説いています。
その辺りが「名奉行」と呼ばれたゆえんなのでしょう。

また、吉宗の事績として知られる目安箱の設置、養生所の設置、町火消しの設置などにも忠相は吉宗のブレーンとして貢献しているようです。

(岡っ引き・下っ引きは同心が個人で雇っているものなので、十手などは 持たない。捕り物に参加するために必要な場合は臨時に奉行所が貸し与えたので、銭形平次のように自宅に十手を置いていて、いつも持ち歩く岡っ引きというのはいなかったハズ。同心は安月給なので一般に八丁堀に与えられている屋敷の一部を医者や学者などに貸して、その家賃で収入を得ていたらしい)

なお9代将軍徳川家重時代の将軍側近として悪名高い大岡忠光は同族ではありますが、別に忠相の息子ではありません。




で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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