戻る ▲トップページ

12月15日 観光バス記念日、年賀郵便特別扱い開始、いちごの日、お菓子の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
オキザリス     輝く心              ○
カトレア(白)    魔力               ○
カトレア(黄)   魅了               ×
ジンチョウゲ  栄光・喜びを下さい・自然の美しさを失う
          不死・不滅            ○
ヤドリ木      困難の克服・征服・忍耐強い    ○

∞…∞12月15日・今日という日 ∞…∞

ラファイ・エディ   (1988)  タレント、☆☆I★N★G★進行形
長尾麻未   (1985)  タレント
和香   (1979)  女優、モデル
井出 薫   (1976)  タレント
大村加奈子   (1976)  バレーボール
佐々木みき   (1976)  バレーボール
植木 豪   (1975)  PaniCrew
池澤春菜   (1975)  声優
和也   (1974)  FANATIC◇CRISIS、G.
ウィル・ロビンソン・エミリオ・アンドラーデ   (1973)  サッカー
スルヤ・ボナリー   (1973)  フィギュアスケート
春野寿美礼   (?)  女優
椎名由香   (1971)  プロレス
茂森あゆみ   (1971)  歌手、女優
北桜英敏   (1971)  相撲
藤川賢一   (1969)  シンガーソングライター
敷島勝盛   (1968)  相撲
河合亜美   (1968)  タレント
茂木欣一   (1967)  東京スカパラダイスオーケストラ、元フィッシュマンズ、Dr.
亀井希生   (1967)  アナウンサー
チョコボール向井   (1966)  AV俳優、プロレス
高橋克典   (1964)  俳優、歌手
松尾スズキ   (1962)  劇団主宰、演出家
加藤明恵   (1962)  歌手、トライアングル
長島雄一   (1960)  声優
篠井英介   (1958)  俳優
高橋がなり   (1958)  ソフト・オン・デマンド社長
山村レイコ   (1957)  作家
小見幸隆   (1952)  サッカー
吉原すみれ   (1949)  打楽器演奏者
近藤等則   (1948)  ジャズトランペッター
早川義夫   (1947)  ミュージシャン、元ジャックス
立松和平   (1947)  作家
出門 英   (1942)  歌手、ヒデとロザンナ
細川俊之   (1940)  俳優
吉田六左エ門   (1939)  政治家
横沢 彪   (1937)  番組プロデューサー
ウィリアム・リンク   (1933)  作家
谷川俊太郎   (1931)  詩人
江幡高志   (1928)  俳優
ジェリー・ウォレス   (1928)  歌手
佐伯孚治   (1927)  映画監督
宝生あやこ   (1923)  女優
大下 弘   (1922)  野球
いわさきちひろ   (1918)  絵本作家、イラストレーター
片岡仁左衛門 (十三代目)   (1903)  歌舞伎役者
嘉村磯多   (1897)  作家
成田為三   (1893)  作曲家
ハンス・カロッサ   (1878)  詩人、作家
武田五一   (1872)  建築家
関野 貞   (1867)  建築家
ニコライ・ラッセル   (1850)  外交官
アレクサンドル・エッフェル   (1832)  建築家
小谷三志   (1766)  行者
白隠慧鶴   (1686)  僧侶
聞証   (1635)  僧侶
後陽成天皇   (1571)  天皇
ネロ   (37)  ローマ皇帝

 ○ 平将門、新皇を名乗る(939)
 ○ 榎本武揚らが蝦夷地を占領し、五稜郭を本営とする(1868)
 ○ 東京で遊覧乗合自動車(観光バス)登場。皇居前−銀座−上野のコース(1925)
 ○ 「風と共に去りぬ」ニューヨークなどで公開。日本公開は'52年(1939)
 ○ GHQが国家と神道の分離を指令(1945)
 ○ 上野地下道の浮浪者2500人一斉収容(1945)
 ○ 第1回レコード大賞。受賞曲には永六輔作詞・中村八大作曲「黒い花びら」(水原弘)が決定(1959)
 ○ 12/8刺された力道山、死亡。39歳(1963)
 ○ アメリカで人類初の宇宙ランデブーに成功(1965)
 ○ ウォルト・ディズニー死去。65歳(1966)
 ○ 衆院選で初の政見放送(1969)

権利章典の日
1689年のこの日、イギリス議会で権利章典が制定された。

年賀郵便特別扱い開始
全国の郵便局ではこの日から年賀はがきの特別扱いを開始する。
この日から受けつけた年賀はがきは25日までに投函された分について翌年の1月1日(元日)に配達される。

観光バス記念日
1925年(大正14年)に東京で初めて遊覧乗合自動車(観光バス)が登場し、皇居前〜銀座〜上野のコースを走行した。

同窓会の日
懐かしい再会と感動の場である同窓会により多くの人々に参加してもらおうと、Web同窓会「この指とまれ!」などを運営する「株式会社ゆびとま」が制定。
日付は連休になる確率の高いことから毎月第3土曜日とした。





伊勢神宮月次祭(12.15-17)
ほんとにいよいよ年末という感じです。

伊勢神宮では、6月と12月の15〜25日に、月次祭(つきなみさい)を実施します。

これは伊勢神宮では10月の神嘗祭(かんなめさい)とあわせて伊勢神宮の三大祭(三節祭という)となっている重要な儀式で、五穀豊穣、国民の平安などを祈願するものです。

一般の人は立入禁止の内院の中で、由貴大御饌(ゆきのおおみけ)という儀式が行われ、正殿前には白木の机(案という)が置かれて、神饌を供え祝詞が奏上されます。
また、皇室からの勅使による奉幣の儀が行われます。

この儀式は外宮では15日から、内宮では16日から始まり、関連行事が25日まで続きます。






観光バスの日(12.15)
12月15日は観光バスの日です。
1925年の今日、東京遊覧自動車会社が皇居前→銀座→上野のコースで定期観光バスを運行しはじめたのを記念するものです。
ただ定期運行でなくてもよければ、東京市街自動車会社という所が遊覧コースの運行はしていました。

東京の観光バスといえば「はとバス」ですが、はとバスは1948年8月に営業を開始しています。
最近は「お上りさん」的な人の減少からかはとバスの乗客も目減りしているようですが、この会社には頑張って欲しいものです。

そもそも全国的に観光バスの経営は厳しくなってきているようですが背景には価値観の多様化があるのでしょう。
特に価値観が多様化しがちな都会の観光は難しいものがあり、昭和40年代くらいまでは東京に出てきた人には、浅草寺,神田明神,東京タワー,上野動物園,代々木競技場,明治神宮などといった所を見せれば一様に喜んだものですが、今なら秋葉原に行きたい人もあれば大江戸温泉に入りたい人もあれば原宿の雑踏にもまれたい人もあるでしょうし、数種の価値観ではカバーできないようになっています。
それ故るるぶのように自分で旅をアレンジしたい人向けのムックが売れています。

これが田舎ですと見せるような所が限られているので、多様化のしようがないのですが。




暴君ネロ(AD37-68)
「暴君ネロ」と通称される第5代ローマ皇帝ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus)はAD37年12月15日、アンチオに生まれました。

   Marcus Vipsanius Agrippa
      ‖
  ○   ‖――――――――Aggippina
  ‖――Julia          ‖
(1)Augustus            ‖   +―(3)Caligula
   ‖              ‖   |
Livia Drusus           ‖―――+ Gnaeus Domitius Ahenobarbus
  ‖              ‖   |  ‖
  ‖ +(2)Tiberius       ‖   |  ‖―――(5)Nero
  ‖ |            ‖   +―Agrippina
  ‖―+           +Germanicus   ‖
  ‖ +Nero Claudius Drusus |        ‖
  ‖          ‖――+        ‖
Tiberius Claudis Nero  ‖  |        ‖
             ○  +―――――(4)Claudius

父はGnaeus Domitius Ahenobarbus、母は初代皇帝アウグスツス(オクタヴィアヌス)の曾孫で3代皇帝カリグラの妹アグリピーナ。
このアグリピーナは母と同名ですがみんなから尊敬された母とは違い、とんでもない人でした。

悪魔的な魅力を持っていたようで、クラウディス帝は姪にあたる彼女と結婚するために王妃メッサリナを処刑して、アグリピーナと結婚しました。
しかしアグリピーナは王妃の座に納まると自分の息子のネロを皇帝にしたくなり次々とライバルを殺害、最後は夫のクラウディス帝まで殺害して、ネロを皇帝の座に就けます(AD54)。

ネロは皇帝就任当初は自分の師匠でもある哲学者セネカを相談役にして、かなり善政をおこなっています。
しかしその母親譲りの凶暴性は次第に出てきました。
まずAD59に母アグリピーナを殺害、ついでAD62年には妃のオクタヴィアを殺害、AD65年には師匠のセネカも殺害して、自分の好きなように政治を行い、暴虐の限りを尽くしています。

中でも有名なAD64年のローマの大火は確証はありませんがネロ自身が部下に命じて都のあちこちに放火して回ったものと噂されています。
しかも彼はその火事をキリスト教徒による犯行であるとして、キリスト教徒の弾圧をおこなっています。

あまりの暴君ぶりにAD65年には一度皇帝降ろしの運動が起きますが挫折。
結局AD68年にローマ全土に皇帝打倒の声が広がり、全く味方がなくなってしまったところで同年6月9日自殺。
ローマにとって悪夢の10年は終わりました。

聖書の黙示録には「666」の数字を付けた獣が登場しますが、この666はヘブライの数秘学的に解釈するとネロを指していると読むことができることが知られています。

なお、ネロの後任の皇帝には初めてアウグスツスの血縁以外から Servius Sulpicius Galba が推されて就任しますが、政治能力無しと判断されて1年で降板、そのあとヴェスパシアヌス(Vespasianus)が軍の支持により就任して、そこからしばらくフラヴィウス家の皇帝の時代が続いてローマ帝国は第二期黄金時代を迎えます。




将門新皇宣言(939)
天慶2年(939)12月15日、平将門が『新皇』に就任したことを宣言しました。

この時代は朱雀天皇の治世。
平安時代の前半の終了をつげるのが、平将門・藤原純友の乱でした。

宇多天皇・醍醐天皇による安定した治世が菅原道真公の祟りと言われた清涼殿落雷で終了。
急死した醍醐天皇のあとを受けて朱雀天皇は即位しました。

その即位の前年、平将門は藤原氏以外出世できない都の状況に絶望し、郷里の下総に戻っていました。

ところが将門が都に上る前に伯父の平国香(平清盛や北条時政の先祖)に預けていた領地を、国香が返してくれません。
交渉はなかなか進展せず、更に別のもめごとも加わって、とうとう承平5年2月、両者は武力衝突。
国香が敗れて自刃しました。
ここから承平天慶の乱が始まります。

桓武天皇−葛原親王−高見王−平高望+−平国香−平貞盛……平清盛・北条時政など
                 |
                 +−平良兼
                 |
                 +−平良将−平将門

これに対して国香の子の貞盛は国香の弟の良兼と図って将門の軍をいったん破りますが、将門はまもなく再起。
再び貞盛たちを撃破します。

ここにおいて貞盛らは、将門の非道を都に訴えます。将門も反論しましたが、貞盛の方の言い分が認められ、将門側が非とされてしまいます。
この時は将門は朱雀天皇の元服に伴う恩赦、ということになり、すぐに関東に戻ることができます。

しかしその後も将門と貞盛との対立は続きます。
一方で将門は関東内での色々なもめごとの調停などをやる羽目になりますが、その流れの中で常陸国の国府と対立した興世王や藤原玄明をかくまったことから、常陸国府とも対立。
ついにこれも武力衝突に発展して、将門軍が国府軍を破ってしまいます。

その間にも貞盛は中央で政治工作を続け将門を捕らえる旨の命令を関東諸州、ついで駿河・伊豆・甲斐などの周辺国にまで発せさせることに成功します。

これに対して将門はこれまでの経緯を太政大臣・藤原忠平に書いて送りますが、この弁明は認められませんでした。
しかし都側の討伐軍もどうしても将門を捕らえることはできません。

困っている将門のもとを、ある日ひとりの不思議な巫女が訪れました。
巫女はお告げして、将門は天皇の血を引く者であるから、帝になる権利があるといったことを言います。

ここで天慶2年(939)12月15日の『新皇』宣言に至るのです。

すなわちこれは、関東の独立宣言でした。

将門はこれまでに、上野・下野・常陸を既に実質的に支配下においていました。
これに対して都では折から西海でも藤原純友が謀反を起こし、ドタバタする中、万策尽きて、老齢の藤原忠文を征夷大将軍に任命、将門討伐に向かわせます。
また、遍照寺の寛朝に命じて将門調伏の呪術を施させます。

寛朝は高雄山神護寺の不動明王像を借り受け、関東へ持っていって千葉の地で、調伏を行いました。

一方何度も将門にやられている平貞盛も、藤原忠文の軍が来る前になんとか決着を付けるべく、藤原秀郷(俵藤太の名前の方が有名か。大百足退治の伝説などを残す。奥州藤原氏や西行などの先祖)とともに、将門の行動を追跡します。

そしてついに天慶3年2月14日、将門が猿島北山(現茨城県岩井市)で、わずかの兵とともに移動しているところを急襲、これを破って将門を殺害しました。

新皇宣言ののち、わずか2ヶ月のことでした。

将門の活動は、中央の植民地的存在であった関東の人々に希望を与えました。
そこでこのあと関東では将門は英雄として祭り上げられていき、江戸幕府に至っては江戸および関東の守護神とみなされるようになりました。

将門の首は都に送られ獄門にさらされますが、その首は空を飛んで関東に戻ったとされます。
その首が落ちた場所が、現在の東京駅近くの「首塚」で、後には当時近くにあった神田明神に合祀され、人々は将門の霊を弔いました。

その後、江戸時代になってから神田明神は現在地に移転され、江戸城の鬼門封じと江戸の町の守護の役割が与えられます。

なお、将門調伏のために関東まで持ってきた不動明王像ですが、この像を京都に持って帰ろうとしたら「動いてくれなかった」ため、その場所に寺を建てて、この像をそのまま祀ることになりました。
これが現在の成田山新勝寺です。

一方、将門の新皇宣言の直後に西海で乱を起こした藤原純友のほうは、天慶4年6月に討ち取られ、これで承平天慶の乱は終結します。

この乱の間には、承平4年7月と天慶元年4月・8月の大地震、承平7年の富士山噴火なども起きています。
元々優しい性格の朱雀天皇には心労多いことばかりで、天慶9年、天皇は弟の成明親王に位を譲って(村上天皇)退位しました。

ここから平安時代後半が始まり、安倍晴明、藤原道長・頼通、らが活躍する時代がやってきます。



エッフェル(1832-1923)
1832年12月15日 エッフェル塔の設計者、Alexandre Gustave Eiffel生まれる。

エッフェル塔は1889年パリ万国博覧会のために建設されました。
高さは320m。
日本の東京タワーのお父さんのようなものです。

パリの万博は1855,1867,1878,1889,1900,1937と6回行われています。
日本が最初に参加したのは1867年のパリ万博。
これに刺激を受けて国内でも東京上野や京都で内国博覧会が開かれます。
1867年のパリ万博に展示された日本の浮世絵は当時のヨーロッパの画家にショックを与え、やがて印象派やキュビズムなどの運動を誘発します。

1900年のパリ万博は世紀の区切りとして新世紀で主役になるであろうと思われた技術「電気」がふんだんに使用されました。
初めて会場全体で電気による照明が使用されました。

エッフェル塔に使用されたエレベータはオーチス製のもの。
日本国内ではこのメーカー意外と知られていませんが、世界レベルではトップ企業。
初めて人間が乗れるエレベータを発明したエリーシャ・オーチスが作った会社です。
(それ以前のエレベータは物しか乗せられなかったし、万一、ワイヤーが切れたら落下するしかなかった。オーチスはワイヤーが切れた時の非常停止装置を発明した)

エッフェルは橋の設計を特に多く手がけていますが、最も有名なのがこのエッフェル塔とニューヨークの自由の女神(のフレームの鉄骨部分)です。
1923年に亡くなっています。


で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





▲このページの先頭へ戻る
 戻る ▲トップページ