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11月08日 世界都市計画の日(都市計画協会1949)、刃物の日、いい歯の日
     いいパックの日(1991)、金物の日、レントゲンの日、米の日(毎月)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
ウメモドキ     深い愛情・明朗          ○
センノウ   ウィット・機転・機智・恋のときめき・機知○
ヒイラギ      機智・剛直・先見・用心      ○

∞…∞11月08日・今日という日 ∞…∞

中野勇士   (1991)  タレント、俳優
田島穂奈美   (1988)  女優
三津谷葉子   (1984)  タレント
三好絵梨香   (1984)  美勇伝
岸田健作   (1978)  タレント、俳優
佐分千恵   (1977)  アナウンサー
磯山良司   (1977)  タレント、江戸むらさき
安藤亮司   (1976)  俳優
坂口憲二   (1975)  俳優、タレント
金子 誠   (1975)  野球
岸本斉史   (1974)  漫画家 「NARUTO−ナルト−」
岸本聖史   (1974)  漫画家 「666(サタン)」
時津海正博   (1973)  相撲
近藤名奈   (1973)  歌手
磯崎亜紀子   (1973)  タレント
A・O・I   (1972)  SHAZNA、G.
金 泰映 (キム・テヨン)   (1970)  サッカー
平松あゆみ   (1970)  アナウンサー
百々麻子   (1967)  声優
貴山侑哉   (1965)  俳優
雪野智世   (1964)  アナウンサー
平田オリザ   (1962)  演出家、劇作家
笠 浩二   (1962)  元C-C-B
鳥居睦子   (1961)  ラジオパーソナリティー
森田美由紀   (1959)  アナウンサー
ジェームス小野田   (1959)  元 米米CLUB
堺 正幸   (1952)  アナウンサー
伊藤栄子   (1951)  女優
フース・ヒディング   (1946)  サッカー
渚ゆう子   (1945)  歌手
井上竜夫   (1941)  タレント
アラン・ドロン   (1935)  俳優
谷 道夫   (1934)  デュークエイセス
若尾文子   (1933)  女優
喜早 哲   (1930)  ダークダックス
寺村輝夫   (1928)  作家
浅見敬三   (1921)  寄生虫学者
マーガレット・ミッチェル   (1900)  作家
塚越賢爾   (1900)  航空機関士
山下奉文   (1885)  軍人
ヘルマン・ロールシャッハ   (1884)  精神学者
馬場狐蝶   (1869)  英文学者
ブラム・ストーカー   (1847)  作家
ワシリエビッチ・プチャーチン   (1803)  ロシア海軍提督

 ○ 新京を平安京と名づける(794)
 ○ ドイツの学者レントゲン、偶然にX線を発見(1895)
 ○ 道路交通取締法公布(1947)
 ○ 南極予備観測隊、観測船「宋谷」で出発(1956)
 ○ 民主党のジョン・F・ケネディ、米35代大統領に(1960)
 ○ 岡本綾子、日本初の米女子プロゴルフの賞金王に(1987)
 ○ アジア杯サッカーで日本がサウジアラビアを破り初優勝(1992)

レントゲンの日
1895(明治28)年、ドイツの物理学者・レントゲンがX線を発見した。
レントゲンは、真空管に高電圧をかけて実験をしている時に、真空管の外に置かれた蛍光紙が明るく光ることに気づいた。
この光は真空管と蛍光紙の間に1000ページもの厚さの本を置いても透過した。
レントゲンは「正体不明」という意味でこの光を「X線」と名附けた。

ギネス世界記録の日
Guinness World Records Day.11月の第2木曜日。
この日に記録へ挑戦しようと、ギネスブック(正式には Guinness World Records)で知られるギネス・ワールド・レコーズ社が呼びかけ2005年から実施。

ボイラーデー
日本ボイラ協会が制定。

いい歯の日
日本歯科医師会(日歯)が制定。
「いい(11)は(8)」の語呂合せ。

八ヶ岳の日
八ヶ岳を愛する人々が結成した「八ヶ岳の日制定準備委員会」が制定。
「いい(11)やつ(8)」の語呂合せ。

いいパックの日
簡易包装を呼びかけるために通産省が1991年(平成3年)に「11」「8」「9」と「いい」「パッ」「ク」との語呂合わせから8日、9日に制定。

刃物の日
鋏や包丁を商う業界団体が「いい」「刃物」の語呂合わせから制定。

世界都市計画の日
1949年(昭和24年)にアルゼンチンの都市計画学者、パオレラ教授が世界都市計画機構の設立を目指し、毎年11月8日を世界都市計画の日と定めたことに由来する。





いいパックの日(11.8〜9)
簡易包装を進める日として、通産省(現・経産省)が1991年に制定しました。

昔は商品は買ったまま購入者が自分のバッグなどに入れて持ち帰っていたと思われますし、せいぜいそのままは持てないもの、たとえばおにぎりのようなものは竹皮につつんだり、クッキーや煎餅のようなものは薄い紙に包んだりしているくらいだったと思われます。

商品を全てその店のマークの入った包装紙で包むということをはじめたのは20世紀初頭のパリのデパートです。
当時パリではテロが相次いでおり、中でも政治家や企業トップなどの自宅に、お届け物を装って爆弾を届けたりする者がありました。
そこで信用を失っては大変とデパート側が防衛のために始めたのが、マーク入りの包装紙だったのです。
うちのデパートの商品は全部、この包装紙で包んでますよ、ということでテロリストを牽制したわけです。
これが見た目がきれいであることから、別にテロのおそれのない他の国にも次第に広がっていきました。

その後包装はどんどん発展し、美しいギフトラッピングの技術なども発達する訳ですが、中にはビニール袋に入れられ緩衝材と共に段ボールの箱に詰められその上を薄い紙で包んであるものを、更にお店の包装紙で包み、更にお店の紙袋に入れてくれて などといった具合に商品より包装の方がよほどかさばるようなものも、随分見られました。

そういう方向にストップが掛けられたのが1974年のオイルショックでした。
石油が限りある資源であることが改めて強く認識されるとともに、特に日本では1960年代以降顕著になっていた「使い捨て文化」に警鐘が鳴らされました。

世の中は節約ムードになり、今の時代から見ると笑うしかない「省エネルック」のようなおかしな服装まで飛び出しました。(今年流行ったクールビスなどはあれからみると、とても健全)
そんな中で包装に関してもオイルショックの頃にいったん過剰包装の見直しはあったのですが、現在のように「簡易包装」をよく見掛けるようになったのは1980年代半ば以降ではないかという気がします。

八重洲ブックセンターのような美しい包装紙を使っていた所まで簡易包装になってしまったのには、正直とても残念な思いをしたのですが、やむを得ない面もあるのでしょう。

(デパート関係ではいまだに過剰包装の所が多い気がしますが)





レントゲンがX線発見(1895)
1895年11月8日、レントゲンがX線を発見しました。
これにちなんで11月8日はレントゲンの日です。

一般にX線の発見者の名を取り「レントゲン」と呼ばれていますが、医療の現場で行われているのは、X線による体の内部の撮影です。
これには間接撮影と直接撮影があります。

X線は波長のたいへん短い電磁波ですが、波長が短いことから体を通り抜けます。
しかし体の部位や状態によって通り抜け方が違うことから、体の内部の撮影に使われるわけです。

ここで直接撮影というのは、この体を通り抜けたX線で直接フィルムを感光させるものです。
これは病院などで行います。間接撮影というのはX線の蛍光像を撮影するもので、X線が外にもれる量が少ないため、集団検診などで次から次にどんどん撮影したい時に使います。
むろん精度は直接撮影に比べると落ちます。

X線というのは、「正体不明の線」という意味です。

レントゲンは真空管に高電圧を掛けている時に、真空管を厚紙で覆っているにも関わらず、蛍光紙が明るく光ることに気づきました。
部屋を暗くしてやってみるとはっきり分かります。
厚紙から洩れているのではないことは、この光?が1000ページもの厚さの本を透過したことからはっきりしました。

そこで彼はこの正体不明の光にX線という名前を付けたものです。
X線によって最初に撮影されたのはレントゲンの奥さんの手の骨格でした。
この写真は現在も保管されているそうです。

この現象は実はレントゲン以前にクルックスも気づいていました。
しかし彼は蛍光紙の品質が悪いのだと思って、製造メーカーに文句を言ったそうです。

大発見というのは、案外日常のそばにあるのかも知れません。

なお、X線より更に波長の短い電磁波がγ線です。





アラン・ドロン(1935-)
1960年代から1970年代にかけて日本の女性にカリスマ的美男俳優として人気があったアラン・ドロン(Alain Delon)は1935年11月8日にフランスのパリ近郊ソー(Sceaux)で生まれました。
後世の映画でのイメージに反して彼は荒れた少年時代を送り暴力事件などを起こしてなんども学校を退学にさせられています。

彼が立ち直るきっかけになったのは海軍に入り落下傘部隊に配属されてインドシナ方面で戦役に従事してからのようですが、除隊後はウェイター、ドアボーイ、ポーター、セールスマン、肉屋さん、八百屋さんなど多くの職業を転々とした後、知人の紹介により1957年イブ・アレグレット監督の「Quand la femme s'en mele(御婦人が混ざる時)」で映画デビューしました。
これは端役でしたが何通かファンレターが届き、彼は自信を高めます。

次いで1958年「Christine(恋ひとすじに)」でRomy Schneiderと共演。
これを機会に二人は実生活でも交際を始めますが、結婚をロミーの親に反対されます。
しかし彼はこの大スターと困難な恋をしつつ、更にジュリエット・グレコ、ジャンヌ・モローなどとも浮き名を流しました(1964年婚約解消)。

華やかな女性たちとの交際により実力より先に名前が広まってしまった彼ですが、俳優としても一流であることを証明したのが1960年の「Plein Soleil(太陽がいっぱい)」でした。
この映画の前半で彼が演じている内気な青年をアラン・ドロンの実像に重ね合わせた人は多いと思います。
映画の後半では一転して大胆な完全犯罪者になりますが、どちらかというとこちらの方が本人の性格に近いのかも知れません。

これ以降は彼の出る作品・出る作品がヒットする感じでした。

1962 L'Eclisse 太陽はひとりぼっち
1963 Il Gattopardo 山猫 (英題=Leopard)
1963 Melodie en sous-sol 地下室のメロディー
1964 La Tulipe noire 黒いチューリップ
1965 Once a Thief 泥棒を消せ
1967 Les Aventuriers 冒険者たち
1967 Le Samurai サムライ
1967 Diaboliquement votre 悪魔のようなあなた
1968 Adieu l'ami さらば友よ
1968 La Motocyclette あの胸にもういちど (英題=Girl on a Motorcycle)
1969 La Piscine 太陽は知っている (英題=The Swimming Pool)
1969 Jeff ジェフ
1969 Le Clan des Siciliens シシリアン
1970 Borsalino ボルサリーノ
1970 Madly 栗色のマッドレー
1970 Le Cercle rouge 仁義
1971 Doucement les basses もう一度愛して
1971 Soleil rouge レッド・サン
1971 Le Veuve Couderc 帰らざる夜明け
1972 The Assassination of Trotsky 暗殺者のメロディー
1972 Un flic リスボン特急
1972 Prima notte di quiete 高校教師
1973 Scorpio スコルピオ
1973 Deux hommes dans la ville 暗黒街のふたり
1973 Traitement de choc ショック療法
1973 Race des seigneurs 個人生活
1973 Les Granges brulees 燃えつきた納屋
1974 Zorro ゾロ
1974 Les Seins de glace 愛人関係
1974 Le Gitan ル・ジタン
1974 Borsalino & Co. ボルサリーノ2
1975 Flic Story フリック・ストーリー
1976 Comme un boomerang ブーメランのように
1977 Le Gang 友よ静かに死ね
1976 Monsieur Klein パリの灯は遠く
1976 Armaguedon アルマゲドン
1977 Mort d'un pourri チェイサー
1979 The Concorde (Airport '79) エアポート80
1981 Pour la peau d'un flic 危険なささやき
1984 Un amour de Swann スワンの恋
1990 Nouvelle vague ヌーヴェルヴァーグ
1992 Le Retour de Casanova カサノヴァ最後の恋
1995 Les Cent et une nuits 百一夜
1998 Une chance sur deux ハーフ・ア・チャンス

恋多きドロンですが最初の結婚は1964年8月13日のFrancine Canovas (通称Nathalie)でした。
彼女は容貌がアランそっくりで、彼の妹兼秘書として1963年頃から彼のそばによく付き従っており、映画で共演したこともあります。
二人の間には結婚した年に子供が一人生まれています。
しかし彼が一人の女性で満足できる訳がなく1967年には離婚訴訟を起こし、1969年正式に離婚しました(1968説も)。

離婚が完成すると彼は早々にMireille Darcと同棲。
翌1970年に結婚します。
彼女との結婚生活は10年以上続いたようです。
実は現時点で彼女との離婚の時期がよく分かりません。
1980年にミレイユが大病をした時に健気に看病をしていたという情報がありますのでその時点では少なくとも夫婦であったようです(ちなみにミレイユはまだ生きています)。

彼には多分多数の子供がいると思うのですが、正式に認められているのは三人だけで、それがナタリーの子供のアンソニーと、あと二人Rosalie Van Bremenとの間に生まれたアヌーシュカとアラン・フェビアンです。
そのロザリーはオランダの歌手ですが、彼女とは1987年に結婚しており、子供が生まれたのは1990年と1994年。
現在もこの結婚生活は継続中と思われます。

数年前に引退宣言をしてファンにとっては寂しい限りなのですが、彼の出演作のほとんどは基本的に恋愛映画とギャング映画に大別できますが、彼には昔から黒い噂もささやかれ、口の悪い人に言わせると「俳優がギャングを演じているのではなくギャングが俳優になっただけだ」とのこと。

同じように美男俳優としてファンの多いジャン・ポール・ベルモンドとはデビュー前からの親友ですが、共演した映画で名前をどちらが先に出すかで大人げない喧嘩をした(これは実は裁判までやった)りしたこともあります。

彼は初期の段階で役者としての訓練を受けたわけではありませんでしたが、カメラを前にすると自然とその前で自分をアピールしつつ演技をすることができました。
そういう意味では天性の俳優であったのかも知れません。

彼は一時はアメリカのビバリー・ヒルズの豪邸に住んでいましたが、1985年からスイスのジュネーブに移住しており、現在スイスの市民権も取得しています。
彼はこのまま死ぬまでスイスで暮らすつもりとは思いますが、「映画から引退」しても、静かな暮らしをするつもりではないように思います。



で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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