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11月27日 ノーベル賞制定記念日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
キク(赤)     愛・愛しています・真の愛     ○
スキヌス      神がかり             ×
ヌルデ       信仰               ○
ハボタン(葉ボタン)祝福・利益            ×
リュウノヒゲ    変わらぬ想い           ○

∞…∞11月27日・今日という日 ∞…∞

芳賀優里亜   (1987)  女優
田中達也   (1982)  サッカー
江川有未   (1981)  タレント、女優、BONITA
永積タカシ   (1974)  SUPER BUTTER DOG、Vo.
浅野忠信   (1973)  俳優
片桐 仁   (1973)  タレント、ラーメンズ
セイン・カミュ   (1970)  タレント
FULL   (?)  NICOTINE、Bass
ERINA (村田恵里→橋本舞子)   (1968)  歌手
佐々木久行   (1964)  ゴルフ
杉田かおる   (1964)  女優
沢田和美   (1962)  女優
白石マル美 (白石まるみ)   (1962)  女優
秋山眞人   (1962)  国際気能法研究所所長
カン・ジェギュ   (1962)  映画監督
小室哲哉   (1958)  音楽プロデューサー
中井貴恵   (1957)  女優
佐山 聡    (1957)  プロレス、初代タイガーマスク
金沢 碧   (1953)  女優
グラン浜田   (1953)  プロレス
真木ひでと (野口ヒデト)   (1950)  元オックス
村田兆治   (1949)  野球
河西健司   (1949)  俳優
立原あゆみ   (1947)  漫画家 「本気」
天童大人   (1943)  詩人
白 仁天 (ペク・インチョン)   (1942)  野球
ジミ・ヘンドリクス   (1942)  ギタリスト
ブルース・リー   (1940)  俳優
本間雅晴   (1887)  軍人
ルーキー新一   (1935)  漫才師
藤田嗣治   (1886)  画家
真崎甚三郎   (1876)  軍人
松下幸之助   (1844)  松下電器創業
アンデルス・セルシウス   (1701)  科学者

 ○ シェークスピア、18歳で結婚(1582)
 ○ 東大名物の赤門、徳川家斉が嫁いだ娘の邸がすぐわかるよう建てさせる(1827)
 ○ 東海道四谷怪談の著者、鶴屋南北死去。75歳(1829)
 ○ ベスビオス火山噴火(1926)
 ○ 日本ヨット協会創立(1932)
 ○ 新聞の夕刊紙、5年9か月ぶりに復活(1956)
 ○ 皇太子と美智子さんの婚約決定(1958)
 ○ 日米安保改定阻止統一行動で、デモ隊が国会構内の突入(1959)
 ○ 福岡で第一回国際マラソン選手権。後に福岡国際マラソンとなる(1966)
 ○ 横綱千代の富士が千秋楽で大乃国に破れ、連勝記録は53でストップ(1988)
 ○ 英国首相にメージャー蔵相(47)が選ばれる(1990)

ノーベル賞制定記念日
1901(明治34)年、ノーベル賞の第1回授賞式が行われました。
ノーベル賞は、スウェーデンの化学者ノーベルが遺言で、自らの発明したダイナマイトで得た富を人類に貢献した人に与えたいと書いたことから創設されました。
ノーベルの遺産を元にした基金168万ポンドで、毎年その利子が、物理学・化学・生理学医学・文学・平和事業の5分野に貢献した人に贈られています。
1969(昭和44)年に経済学賞が追加されました。
毎年ノーベルの命日の12月10日に、平和賞はオスロで、その他の賞はストックホルムで授賞式が行われます。

更正保護記念日
1952年(昭和27年)のこの日、東京・日比谷で更正保護大会が開かれたことに由来する。
刑務所から出所してきた人達の更正の道を社会全体で開くことを目的として、様々な催し物が行われる。

いい鮒の日
茨城県の古河鮒甘露煮組合が制定。
「い(1)い(1)ふ(2)な(7)」(いい鮒)の語呂合せ。



ノーベル賞制定記念日(11.27)
1901年11月27日、ノーベル賞の第一回の授賞式が行われました。
これを記念して、11月27日はノーベル賞制定記念日になっています。
なお、現在では授賞式はノーベルの命日にあたる12月10日に行われることになっています。

ノーベル賞は、ダイナマイトの発明家として知られるアルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833.10.21-1896.12.10)が遺言で定めたものです。

ノーベルはベニヤ板の発明者イマニュエル・ノーベル(Immanuel Nobel, 1801-1872)の三男です。
ストックホルム生まれですが、父がロシアのペテルスブルグで機雷製造の仕事を始めたため、家族でそちらに住んでいましたが、やがて父が事業に失敗、帰国します。
そのころから彼は安全に取り扱える爆薬はないものかというのを一所懸命研究していました。

当時の主役は1847年にAscanio Sobrero (1812-1888) が発見したニトログリセリンなのですが、これは少しでも衝撃を与えると爆発してしまうので、誤爆事故が頻発しており、彼の弟のエミルも犠牲になっています。
ノーベルは色々な試行錯誤の結果、ニトログリセリンを珪藻土に染みこませることを考案しました。
そして導火線を付けて火で爆発させようとしたのですが、ニトログリセリンというのは、充分強い衝撃を与えれば珪藻土に染みこませた状態でも爆発する癖に、火を付けても爆発しない、こまった物質です。

そこで考えたのが雷管(primer)でした。

細い管の中で物質を急に燃やすと、ガスが物凄い勢いで膨張します。
この反応が激しければ一部の膨張は音速をも超え、衝撃波が発生します。
爆轟(ばくごう)という現象で、この揺れを使って珪藻土に染みこませたニトログリセリンに衝撃を与えて起爆するわけです。

(正確には雷管の発明の方が、珪藻土の利用を思いついたのより先らしい)

彼はこの新しい爆破システムにギリシャ語のデュナミス(力)からダイナマイトという名前を付け、そのあと、母国スウェーデンでは、いわゆるスウェーデン鋼の生産の現場などで、大いに役立つことになります。

また彼はこの技術を利用して武器の製造や油田開発などの事業に力をそそぎ、1896年に亡くなった時には、3100万クローネ(今のお金にすると100億円くらい?)もの資産が形成されていました。
遺言状が曖昧だったため親族の間で遺産争いが起きるのですが、最終的には遺言書の趣旨に従い、資産は財団化されて、毎年、物理、化学、医学生理学、文学、平和の分野で貢献のあった人に、賞金が贈られることになりました。

これがノーベル賞の始まりです。
なお財団はその後の運用や寄付などにより、現在約40億クローネ(600億円)ほどになっています。

ノーベル賞の選考は、スウェーデン王立科学アカデミーが物理・化学賞を、王立アカデミーが文学賞を、カロリンスカ大学が医学生理学賞を、そしてノルウェー国会が平和賞を担当しています。
そして平和賞以外はストックホルムで、平和賞だけはノルウェーのオスロで授賞式が行われます。

この平和賞だけがノルウェーになっているのは、ノーベルの遺言にそうあったからなのですが、なぜそうなっているのかは理由不明です。

ノーベル賞の中に不自然に数学賞が無いのは、ノーベルが若い頃、数学者に恋人を奪われたせいであるなどという説もありますが、俗説の域を出ないと思います。
またダイナマイトが軍事で使用されて人がたくさん死んだのを見て悲しんでこういう賞を制定したというのは、よくあちこちに書かれているのですが、彼はもともと子供の頃から父が軍事産業で働いてきたのを見ており、また自ら武器製造会社を経営していましたので、あり得ない気がします。
孤独な人であったようなので、ノーベル賞には色々謎があります。

なお、しばしば「ノーベル賞は後に経済学賞が追加された」と書かれているのですが、これはスウェーデン国立銀行が1968年に設立300周年を記念して創設し運用している「ノーベル記念経済学賞」のことで、ノーベル賞とは無関係です。
但し選考はノーベル賞と同じ、王立科学アカデミーが行い、授賞式も12月10日に行われています。

また数学の分野ではカナダのJohn Charles Fieldsが1936年に「フィールズ賞」を創設し、「数学のノーベル賞」と一般に言われています。
こちらはノーベル賞が、過去に大きな業績を残したもののかなり年配の研究者に贈られることが多いのがおかしいとして、受賞年齢を40歳以下に限定していて「大発見をして、これからも精力的に研究をしてくれそうな研究者」に贈られることになっていて、ノーベル賞よりも敷居が高いと言われています。

日本人でノーベル賞を受けたのは次の12人です。

湯川秀樹(1949物理)  朝永振一郎(1965物理) 川端康成(1968文学)
江崎玲於奈(1973物理) 佐藤栄作(1974平和)  福井謙一(1981化学)
利根川進(1987医学)  大江健三郎(1994文学) 白川英樹(2000化学)
野依良治(2001化学)  田中耕一(2002化学)  小柴昌俊(2002物理)

またフィールズ賞は小平邦彦(1954)と広中平祐(1970)と森重文(1990)が受賞しています。




松下幸之助(1894-1989)
1894年(明治27年)11月27日、和歌山県海草郡和佐村で、松下電器(ブランド名「ナショナル」「パナソニック」)の創業者となる、松下幸之助が生まれました。

8人兄弟の末っ子でした。松下という苗字は、家が樹齢数百年の大きな松の下にあったことから付けられたものだそうです。

小地主の家で本来家は豊かでしたが、やがて父が相場で失敗。幸之助は9歳で大阪の火鉢店に奉公に出ます。
そして、その後、自転車店、セメント工場等に勤めた後、電気にあこがれて大阪電灯に入社。ここに6年半あまり勤めました。

そして22歳の時、独立。妻と義弟との3人で、自宅の土間で作った電球ソケットの販売を始めます。
最初は商品が売れずに苦労したようですが、やがてやがて扇風機の碍盤を受注してなんとか回るようになり、翌年松下電気器具製作所を設立するに至りました。

この後、アタッチメントプラグ、二股ソケット、ランプ、アイロンと次々に商品を製作。
1930年にはラジオに手を染めます。当時のラジオは非常に故障が多くラジオ専門店のみが取り扱う商品でしたが、研究部の中尾哲二郎(後の松下電器副社長)がさんざん苦心の末、一般の電器店でも安心して販売できる、非常に故障の少ないラジオの開発に成功。
これが東京中央放送局(現NHK)のラジオセットコンクールで1等に選ばれ、松下の名前は一躍有名になりました。

その後1933年には日本で初めて事業部制を実施。1935年松下電器産業株式会社に改組し、その後、松下電器貿易、ナショナル電球、松下造船、松下飛行機などといった関連会社を次々と設立。
戦後は一時GHQによる軍需工業解体の余波で苦況に陥りますが、ひとつずつ生産再開の許可を勝ち取っていきました。
松下が完全に復調するのは昭和30年代に入ってからです。

国内での基盤を少しずつ固めていく一方、松下は海外にも目を向けていきます。
1952年には世界屈指の電器会社オランダのフィリップスと提携。
1959年にはアメリカ松下電器を設立。松下はやがて世界のパナソニックになっていきます。

松下幸之助氏は経営者としても一流ですが、経営に関する思想家としても一流でした。
事業部制を採用してそれぞれの部門が責任を持って事業を推進できるようにしたのもその一つですし、従業員との対話・企業の一体感の維持、などにも天才的な才能を発揮しました。

松下幸之助氏はソニーの井深大氏、ホンダの本田宗一郎氏、と並ぶ昭和の三大高志・創業者ということができると思います。

1980年には21世紀の日本を担う指導者の育成を目ざして松下政経塾を開塾。
ここに熱意あふれる若者が集まり、多くの有望な政治家が出てくることになります。

1989年4月27日逝去。





で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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