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11月22日 大工さんの日、ボタンの日(東京ボタン服飾手芸卸協同組合など)
     いい夫婦の日(通産省)

花ノ名前      花ことば            誕生花として
アロエ       健康・信頼・迷信         ○
サンショウ     健康・魅惑            ○
へビノボラズ    気むずかしさ           ○
ポインセチア    祝福・私は燃えている       ○
メギ        はげしい気性           ×

∞…∞11月22日・今日という日 ∞…∞

清水佐紀   (1991)  Berryz工房
椎名法子   (1982)  タレント
清貴   (1982)  歌手
遠野凪子   (1979)  女優
中田衛樹   (1979)  ジャパハリネット、G.
ROCO   (1979)  タレント
市橋有里   (1977)  マラソン
服部公太   (1977)  サッカー
武内絵美   (1976)  アナウンサー
aiko   (1975)  シンガーソングライター
田川寿美   (1975)  歌手
皆川純子   (1975)  声優
河田純子   (1974)  タレント
デビッド・ペルティエ   (1974)  フィギュアスケート
河合 秀   (1972)  俳優
奥貫 薫   (1970)  女優
出羽の郷秀之   (1970)  相撲
ボリス・ベッカー   (1967)  テニス
石垣純哉   (1967)  メカニックデザイナー
柊あおい   (1962)  漫画家 「星の瞳のシルエット」
レオス・カラックス   (1960)  映画監督
中田喜子   (1953)  女優
船田 元   (1953)  政治家
栗生 明   (1947)  建築家
倍賞美津子   (1946)  女優
尾藤イサオ   (1943)  歌手、俳優
菅谷 昭   (1943)  医師
いではく   (1941)  作詞家
ビリー・ジー・キング   (1937)  テニス
出井伸之   (1937)  ソニー会長
巴 里夫   (1932)  漫画家
神山卓三   (1931)  俳優
青田 昇   (1924)  野球
岸 朝子   (1923)  料理ジャーナリスト
丹羽文雄   (1904)  作家
ホアキン・ロドリ−ゴ   (1902)  作曲家
佐伯孝夫   (1902)  作曲家
大蔵 貢   (1899)  映画企業家
シャルル・ド・ゴール   (1890)  フランス大統領
アンドレ・ジード   (1869)  作家
武田惣角   (1860)  武道家
ジョージ・ギッシング   (1857)  作家

 ○ バスコ・ダ・ガマ、インド洋へ(1497)
 ○ 大島、波浮港誕生(1703)
 ○ 当時の日本海軍が国産の金ボタンの付いた軍服を採用(1870)
 ○ シーラカンス、インド洋の南アフリカ沖で発見(1938)
 ○ カイロ会議。米、英、中3国の首脳会談。対ドイツ・イタリア戦略、対日本戦略、ヨーロッパ大陸侵攻作戦などをめぐり3国の主張が対立(1943)
 ○ 初のプロ野球日本シリーズスタート(1950)
 ○ メルボルン・オリンピック開会(1956)
 ○ 米国ケネディ大統領暗殺。後任はジョンソン副大統領。容疑者のオズワルドは24日にJ・ルビーに射殺され、すべては謎(1963)
 ○ 日航機、サンフランシスコで事故、航空史上初めて全員無事(1968)

感謝祭 Thanksgiving Day (11月第4木曜日、米国)
米国の祝日。
イギリスからマサチューセッツ州プリマス植民地に移住した人々が最初の収穫を記念する行事であると考えられている。
現在は親族や友人が集まる大規模な食事会的な行事である。

和歌山県ふるさと誕生日
1871年(明治4年)のこの日に現在の和歌山県の地域が決まったことを記念して1989年(平成元年)に和歌山県が「ふるさと誕生日条例」を制定した。

長野県りんごの日
JA長野県経済連(現在のJA全農長野)等が1999(平成11)年に制定。
長野県産林檎の主力品種が「ふじ」であることから「いい(11)ふじ(22)」の語呂合せと、「いい(11)ふうふ(22)」(いい夫婦)→「アダムとイヴ」→「林檎」との連想から。

回転寿司記念日
回転寿司チェーン「廻る元禄寿司」の元禄産業が制定。
回転寿司を考案した同社元会長の白石義明氏の1913年の誕生日。

いい夫婦の日
通産省と余暇開発センターが1988年(昭和63年)に提唱したもので、勤労感謝の日と組み合わせ、秋の連休となるよう祝日化を目指している。
11月22日を「いいふうふ」と読ませる語呂合せが発端。

ボタンの日
1870年(明治3年)のこの日、金地に桜と錨のボタンの海軍の軍服が定められたのにちなんで全国ボタン興業連合会が1987年(昭和62年)に制定。

大工さんの日
日本建築大工技能士会が制定。
11月は「技能尊重月間」であることと、22日は大工の神様とされる聖徳太子の命日(622年2月22日)であることから。

夫婦の日
毎月の22日。
「22」を「フーフ」にかけた語呂合わせによる。
夫婦対話で明るいマイホーム作りをと1987年に毎日新聞が提唱し、制定。

近松忌,巣林忌
浄瑠璃・歌舞伎狂言作家・近松門左衞門の1724(享保9)年の忌日。




ボタンの日(11.22)
11月22日はボタンの日です。
一一二二がボタンの形だ、とでも言うのかな?
と思ったのですが、そうではなくて明治3年(1870)のこの日海軍の制服が制定され、その制服にボタンが採用されていたことによるものだそうです。

基本的に服の留め方には「体のでっぱりにひっかけて留める」「留め具で留める」「紐(ヒモ)で結ぶ」という3種類の留め方があります。
西洋では狩猟文化の影響で動物の骨を利用して留め具を作る方式が生まれ、これがボタンに発展したといわれています。
これに対して東洋では農耕文化の影響で植物繊維が充分にあり、紐で結んで留める方式が発達しました。
ですから日本の和服は紐で結んだり帯で巻いたりして服を留めているわけです。

しかし明治政府はこれからは洋服の時代と考え、海軍の制服に実用的な洋服を取り入れ、イギリス海軍の制服を参考にしてボタンのたくさん付いた制服を定めたのです。
なお陸軍の制服は明治4年にフランス陸軍の制服を参考に定められたそうです。

ボタンの語源はよく分からないのですが、ポルトガル語のbutao(花のつぼみ)などと同語源ではないかと言われています。
日本語では「釦」という字があるのですが、これは峠・鞄などと同様の日本製の漢字(国字)で、大村益次郎が考案したものです。

。。。と一般には聞いているのですが、それでは中国語では何というのだろうと思って調べてみました。
すると「扣」という字が使われているようなのですが「釦」も一緒に辞書に載っています。
また「紐」「鈕」もボタンの意味のようです。中国語でも「釦」が使えるのは偶然なのか、或いは??この付近の事情かも?。

さて、ボタンの材料としては初期の段階では動物の骨が使用されたもの思われますが、海に近い所では魚の骨や貝などを加工したものと思われます。
貝のボタンというのは現在でも使われていますし、中には美術品的な価値のあるものもあります。
豪華なものとしては、ボタンの表面に細かい色ガラスを多数埋め込んでモザイク絵にしたもの、陶磁器や七宝焼きで作ったもの、絵具で絵を描いたものなど、様々なものがあります。
現代日本でもこういうのが好きな人は1〜2万円程度のブラウスに1個5〜6万円のボタンを付けて歩いていたりするようです。
まさに隠し味的な趣味でしょう。

そのような高価なボタンではなく、普通の服に付いているボタンはだいたい1個数円〜数十円のボタン。
その多くがカゼイン樹脂で作られています。
この樹脂はよく安物の真珠イミテーションにも使用されていますが(ワゴンセールなどで売っている「真珠」風アクセサリーはだいたいガゼイン樹脂らしいです)、その原料はご存じのように牛乳です。

作り方は牛乳に今とても微妙な立場にある(^^;ゼラチンから作ったレンネットを加えて凝固させます。
これをレンネットカゼインというのですが、これにホルムアルデヒドを作用させると、硬くなって樹脂になります。
なお、レンネットカゼインをそのまま発酵させると何になるかというと、チーズですね。

さて、最後に「卒業式の第二ボタン」の話を。

近年、卒業式で女子生徒が男子生徒の制服の第二ボタンをねだるというのが、あります。
憧れていたけど卒業してしまい、もうこれっきり会えない人のせめてもの思い出に、ということだともいいますが「先輩、第二ボタンください」などと言ったら、それ自体がほとんど「好きです」という告白のような気もします。

さてこの「なぜ第二ボタンなのか?」なのですが、実に色々な説があるようです。

 ・学生服の第二ボタンというのは一番心臓に近い位置にあるから
 ・第二ボタンを外してもらえば、そこに手を突っ込んでハートがつかめる
 ・本人がいちばん触っているボタンだから
 ・一番上のボタンは本人を表し、二番目のボタンは一番大切な人を表す
 ・第一ボタンは親友に、第二ボタンは恋人に、第三ボタンは友達にあげる
 ・第一ボタンをもらいたいが、それを取ると襟がだらしなくなる

さて、この風習がいったいいつから始まったかなのですが、どうにもハッキリしません。
一説では柏原芳恵の「春なのに」(1983)で、歌詞の中にボタンをねだるくだりがあるから、ともいうのですが、この歌詞を調べてみたのですが確かにボタンを下さいとは言っていますが、第二ボタンとは言っていません。

また、柏原芳恵の歌は、そもそもこの「第二ボタンをもらう」という風習があったので、それを下敷きに書かれた物(ちなみに作詞は中島みゆき)ではないかという意見もあります。
この付近もよく分かりません。

なおこの「春なのに」ではもらったボタンは捨ててしまうことになっています。
恋しい人のものをいつまでも取っておくのはだいたい男の風習で、女はすっきり忘れるものですからね、一般に。





回転寿司記念日(11.22)
回転寿司というシステムを考案した大阪の「廻る元禄寿司」の元禄産業が制定したものですが、この日を選んだのは同社の創業者白石義明(1913-2001)の誕生日だからというのが、なんとも豪快ですが、まぁ良いでしょう。

回転寿司はよく知られているように工場のベルトコンベアをヒントに生まれました。
庶民向けの「立ち食い寿司屋」を営んでいた白石氏が昭和28年頃、アサヒピールの工場を見学した時に、ベルトコンベアの上をビール瓶が流れていき、そこにビールが注入されて封印される様子を見ていた時に、このように寿司を客の前に流していけないかというのを考えました。

コンベアの材質には耐久性があり錆びの来ないステンレスを使用、三日月型の板を組み合わせてカーブを克服。
苦節4年、「コンベヤー旋廻食事台」を装備した「元禄寿司」の1号店が昭和33年、近鉄布施駅北にオープンしました。

このシステムが広く知られるようになるきっかけは昭和45年の大阪万博です。
同博に出店した元禄寿司のスタイルは全国から来た万博の観客に注目され、このシステムを真似た寿司店も誕生するに至ります。
その中でも大きな役割を果たしたのが石川県に本部を置く石野製作所の「くるくる寿司チェーン」で、ここから「くるくる寿司」というのが回転式寿司屋の代名詞にもなります。

石野製作所(この部門は子会社の北日本カコー)は自己のチェーン店以外にも寿司コンベアを積極的に販売しており、ここと、同じ石川県の日本クレセントが寿司コンベアの二大メーカーとなっています。

回転寿司というのは「寿司屋」というのを私たちの身近なものにしてくれました。
それまでの寿司屋といえば、値段の書いてないメニューが並んでいて入ったら勘定のときに万札を何枚使うだろうか、というドキドキ感のある、庶民にとっては近寄りがたい雰囲気のあるお店でした。
しかし回転寿司では1皿100円(初期の元禄寿司は50円)という明朗会計(高い皿は色などを変えてある)なので、自分で懐具合を考えながら食べることができます。
千円札が1〜2枚しかなくても入れるので気軽に入れる店となったのです。




ケネディ暗殺(1963)
1963年11月22日12:30(日本時間23日5:30)アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスでパレード中、何者かによって射殺されました。

事件のわずか80分後、元海兵隊員のリー・オズワルドという男が犯人として逮捕されますが、そのオズワルドは2日後護送中にクラブ経営者のジャック・ルビーという男に射殺されます。
そしてそのルビーもその後まもなく死亡。
死因は「癌」とされていますが、詳しいことは分かっていません。

またオズワルドやルビーの周辺で幾人もの人が謎の死を遂げています。
ケネディと親交のあったマリリン・モンローの謎の死(前年)も何か関わりがあるのではないかとも言われています。

結局のところ、この事件の真相は闇に包まれています。
一般にオズワルドは犯人ではないと考えられているようです。
当時ケネディ大統領はベトナム戦争から撤退しようとしており、それに反対する勢力が暗殺を企てたのではないかという説が有力です。
この後副大統領から昇格したジョンソン、その後のニクソンはいづれも戦線を拡大させ、アメリカは泥沼に陥ります。

日本ではちょうどこの23日から日米の衛星放送回線が稼動。
その朝の記念すべき最初のアメリカからのリアルタイムのニュースが、この衝撃的なケネディ暗殺のニュースでした。

ケネディ夫人のジャクリーヌは暗殺の瞬間「オー・ノー!!」と悲鳴をあげました。
後、彼女は世界でも有数の大富豪オナシスと結婚しますが、このオナシス家もその後呪われたかのように一家が次々と死亡したことで知られます。





で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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