戻る ▲トップページ
11月17日 将棋の日(日本将棋連盟,1975)、ドラフト記念日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
ツタ 誠実・結婚・勤勉 ○
バンダ エレガント・身軽 ○
フキ 公平 ○
フキタンポポ 公平な裁き ×
ベゴニア(赤) 片思い・公平 ○
∞…∞11月17日・今日という日 ∞…∞
水谷さくら (1983) タレント
村田一弘 (1981) rice、元Raphael、Vo.
柴田勝頼 (1979) プロレス
里村明衣子 (1979) プロレス
堂珍嘉邦 (1978) CHEMISTRY
アレクセイ・ウルマノフ (1973) フィギュアスケート
徹 (1971) FANATIC◇CRISIS、Dr.
城島 茂 (1970) タレント、TOKIO
置鮎龍太郎 (1969) 声優
木村一八 (1969) 俳優
岡田圭右 (1968) 漫才師、ますだおかだ
大浦龍宇一 (1968) 俳優
高橋リナ (1968) タレント
安藤和博 (1967) タレント、デンジャラス
鈴木砂織 (1966) 声優
ソフィー・マルソー (1966) 女優
大若松好弘 (1966) 相撲
武野功雄 (1963) 俳優、元 一世風靡セピア
小野みゆき (1959) 女優
小原 礼 (1951) ミュージシャン
ひさうちみちお (1951) 漫画家、イラストレーター
星ルイス (1950) 漫才師、セントルイス
安原義人 (1949) 声優
金田留広 (1946) 野球
デイヴ平尾 (1945) 歌手、元ゴールデンカップス
マーティン・スコセッシ (1942) 映画監督
内田裕也 (1939) 歌手
酒井政利 (1938) 音楽プロデューサー
ジェリー・マギー (1937) ベンチャーズ、G.
井川比佐志 (1936) 俳優
山口 崇 (1936) 俳優
トニー・ザイラー (1935) スキー、俳優
井上ひさし (1934) 作家
納谷悟朗 (1929) 俳優、声優
五島 勉 (1929) ルポライター
ロック・ハドソン (1925) 俳優
鹿内信隆 (1911) フジテレビ創業者
外野村晋 (1911) 俳優
本田宗一郎 (1906) 本田技研創業
イサム・ノグチ (1904) 彫刻家
坂口謹一郎 (1897) 農学者
萬鉄五郎 (1885) 画家
○ スエズ運河開通(1869)
○ 第一回国際労働会議で8時間労働制を決議(1919)
○ アインシュタイン来日(1922)
○ 米がソ連邦を承認(1933)
○ 公明党結成大会。委員長は原島宏治(1964)
○ プロ野球第一回新人選択(ドラフト)会議(1965)
○ 電話料金1度数7円が10円に値上がり(1976)
ドラフト記念日
1965(昭和40)年、第1回プロ野球新人選択会議(ドラフト会議)が開かれた。
蓮根の日
茨城県土浦市で1994(平成6)年のこの日に全国の蓮根産地が集まって開催された「蓮根サミット」で制定。
将棋の日
八代将軍徳川吉宗がこの日を「お城将棋の日」と定め、御前対局を行わせたという史実に基づき、日本将棋連盟が1975年(昭和50年)に制定したもの。
いなりの日
日本の食文化の中で多くの人に親しまれているいなり寿司を食べる機会を増やすきっかけを作ろうと、いなり寿司の材料を製造販売している株式会社みすずコーポレーションが制定。
日付はいなりのい〜なで毎月17日に。
国産なす消費拡大の日
4月17日の「なすび記念日」の17日を、毎月なすの消費を増やす日にしようと、冬春なす主産県協議会が2004年2月9日に制定した。
同窓会の日
懐かしい再会と感動の場である同窓会により多くの人々に参加してもらおうと、Web同窓会「この指とまれ!」などを運営する「株式会社ゆびとま」が制定。
日付は連休になる確率の高いことから毎月第3土曜日とした。
将棋の日(11.17)
11月17日は将棋の日です。
江戸時代に歴代の将軍の中では家康と並んで最も将棋好きであった徳川吉宗がこの日を「お城将棋の日」として毎年御前対局を実施したということから日本将棋連盟が1975年に制定したとのことです。
但し今年の「将棋の日」のイベントは11月19日に行われるようです。
将棋はインド起源です。
双六系ゲームと将棋系ゲームというのが世界の2大ボードゲームの流れなのですが、インドで将棋のルーツのチャトランガが生まれ、エジプトで双六のルーツのセネトが生まれ、ある時期にその勢力範囲がクロスしたことが、神話で伺われます。
両方の文化圏の神様同士が「私もそちらのチャトランガをしますので、あなたもこちらのセネトをなさってください」のように会話する神話が残っています。
後にセネトは西方ではバックギャモンとなり東方では中国の双陸、日本の古双六(現代の絵双六とは別物)となって、チャトランガは西方ではチェス、東方では中国の象棋、日本の将棋などに進化しています。
チャトランガは最初4人制のゲームでしたが後に2人で遊ぶやり方が生まれこれが現在のチェスにかなり近いルールになっています。
中国の象棋、日本の将棋はそれぞれかなり特異な進化をしています。
象棋(シャンチー)は日本の将棋よりはむしろ軍人将棋に似ています。
恐らくは軍人将棋自体が日清戦争の頃、中国の象棋にヒントを得て生まれたのではないかという推測も成り立ちそうです。
象棋も将棋と同じ9列の盤を使用します。しかし駒の再利用ルールは将棋独特のもので、これが将棋を世界最高クラスの難しいゲームにしています。
日本の将棋も最初は8×8の盤のものがあったようですが、後に9×9の小将棋と13×13や15×15の大将棋(金将・銀将の下に銅将・鉄将まである)が生まれ、それを簡易化した12×12の中将棋などといったものも生まれています。
そしてやがて大将棋の駒の一部を小将棋に取り込んだ現在の形の将棋に進展したようですが、その時期はかなり新しいもののようにも思われます。
恐らくは室町時代の中期以降でしょう。
日本では囲碁・双六(古双六)・将棋(当時は大将棋??)を平安時代には「三盤」といって貴族のたしなみとされていましたが、江戸時代初期に徳川家康が将棋と囲碁を好み、この2つを保護したことから、このふたつは大いに隆盛したのに対し、もうひとつの双六は保護を受けなかったために埋没し、江戸時代末期ころまでにはルールを知る人まで少なくなってしまいました。
囲碁と将棋に関しては家康が重視したことから歴代の将軍が形だけでも、しばしば「お城碁・将棋」を催しています。
その際、将棋と囲碁は将軍の御座の前で並べて行われていますが、実際問題として将軍が出席することは家光と吉宗をのぞけば、かなり稀であったようで、代わりに老中や囲碁・将棋好きの幕閣が参列していたようです。
当時は現在のように持ち時間という考え方がないため、この城内における対局が時間内に終了しないこともしばしばありました。
そこでその内、事前に半分くらいまで対局者同士が別の場所で指して(打って)おき、お城将棋・碁では、そこまでは対局を再現したあと、続きを指す(打つ)ことが行われるようになりました。
ところがそれでも終了しないケースが続いたため、とうとう、完全に勝負がつくまで事前にやっておき!お城碁ではそれを全てそのまま再現するだけになってしまい、このイベントはほんとに形式的なものになってしまったようです。
それでもこのお城将棋・碁の対局者には大名を歓待する時並みの料理が用意されたようで、その地位の高さが伺えます。
その代わり、将棋にしても碁にしてもそれぞれの家元は血筋とは無関係に優秀な人材を発掘して、最も優秀な弟子に家督を譲るということを繰り返してレベルを維持しました。
そして、この養子縁組手続きにしても、武家の養子縁組同様の厳しい審査を経た手続きを要したようです。
囲碁・将棋において極めて卓越した実力を持つ人は「名人」の称号を受けていました。
最初の頃は名人というのは常に存在している必要はなく、それに値する人がいなければ空席になっていました。
後に将棋の世界ではこの名人というのが将棋界の最高位に君臨する人の称号とされ、名人になった人は引退するまで終世それを名乗ることができるようになりましたが、13世名人関根金次郎はこの制度を改革し、その時その時に最高の実力を持つ人が名人を名乗るという実力制名人の制度を導入しました。
その結果名人位に就いたのが14世木村義雄であり、その後名人への挑戦は「順位戦」でトップに立った棋士が毎年挑戦する方式になり、5期名人を務めた棋士は「永世名人」の資格を取得するということになりました。
現在永世名人の資格は「17世」まで発行されており、15世が大山康晴、16世が中原誠(但し彼は永世十段を名乗っている)、17世が谷川浩司(中原が現役の間はこれは名乗れない)です。
恐らくは18世は羽生善治が取るであろうと言われています。(現在はまだ3期)無論佐藤や藤井にもチャンスはある筈です。
ドラフト記念日(11.17)
1965年(昭和40年)11月17日、日本のプロ野球で、初めてのドラフト会議が開かれました。
このようなものが創立されたのは、それ以前選手の獲得は完全な自由競争であったため、大量の札束を抱えて有望選手の自宅を訪問し、親の頬を現ナマでなでるような真似をして半ば強引に契約を結んでしまうようなスカウトが横行しており、健全なスポーツとしての発展に弊害があると考えられたためです。
元々ドラフトというのは1935年にアメリカのフットボールリーグで創設されたのが最初です。
当時フットボール界では人気チームに入団希望選手が集中し、弱いチームにはあまり人が集まらないという現象が起き、人気チームはますます強くなり、弱いチームはますます弱くなるという状態になりつつありました。
これでは単に強いチームが勝つだけという話になり、スポーツとしての魅力が薄れてしまい、将来的にはファンも離れてしまうという危惧が出ていました。
そのため、このアメリカン・フットボールのドラフトでは、単純に前年の最下位の球団から順に希望選手を提出していくといういわゆるウェーバー方式で指名が行われました。
この方式が最も理想的な方法であるということは多くの人が主張する所です。
しかし1965年の第一回ドラフト会議はドラフト制度に最後まで反対していた巨人と阪神に配慮して、理想とはほど遠い方式で行われました。
各球団は指名希望選手30名以内の名簿(優先順位付き)を提出。同じ優先度で競合した場合は抽選が行われるということになりました。
この第一回のドラフト会議の目玉は堀内恒夫だったのですが、彼を抽選で引き当てたのは何と巨人でした。
そして「戦力の均衡化」という理想に反して巨人は1965年から9年連続の日本一に輝くのです。
ドラフト会議はリーグ全体の発展のために有望選手を分散させて各チームに入団させるためのものです。
しかしこの会議があることで、経営に不熱心な球団はあまり努力をせずにクジ運だけに頼って有望選手を得ようとする弊害も出てきました。
そのため本人が事前に「どこどこ以外は行かない」と明言しているにも関わらず強行指名して結果的に拒否されるという事態も多発しています。
制度発足以来の指名された選手の入団拒否率は平均すると20%にも及びます。
そのため1993年からは社会人・大学生に限って、選手の希望球団が調査され「逆指名」制度が導入されました。
しかし逆指名を利用した球団が有利になりすぎるということで、今年からはこの制度は「自由獲得枠」という名称に改められ、これを2人使用した球団は1〜3位の指名から外され、1人使用した球団は1,3位の指名から外されることになりました。
しかしこの制度は高校生には適用されていないため、今年2001年の目玉選手・寺原を獲得するには、自由獲得枠を一切使わないで1位のくじ引きに賭けるしかありません。
ドラフトで指名される人数は最初は30人まで、1967〜1973年は制限無しでしたが、さすがに下位の12位とか15位などで指名された選手はその評価を嫌がって入団しなかったため、1974年には6人までと制限されました(1978-1980は4人)。
しかしドラフト外での自由獲得は残っていました。しかし1991年には枠を10人までに拡大するとともにドラフト外での入団を禁止し、1995年以降は枠は8人に縮小されています。
阪神の掛布雅之はテスト生でしたが、万一他の球団に目を付けられていた場合に備えてドラフトの下位6位で指名されています。
実際にドラフト外で入団して活躍した選手には、巨人の西本聖、横浜の石井琢朗などがいます。
鹿取義隆の場合は江川騒動の余波でドラフト外になってしまいました。
他の球団が横取りも可能だったでしょうが、余計な混乱を恐れて遠慮してくれたのでしょう。
その江川騒動は日本ドラフト制度史上最大の事件でした。
作新学院の江川卓は1973年の阪急(現オリックス。当時はとても弱かった)の指名を蹴って法政大学二部に進学しました。
4年後彼を指名したのはクラウンライター(現西武。とても弱かった上に経営母体が不安定だった)ですが、彼はこれも拒否し、社会人に行くと2年間指名を受けられないため、船田中代議士の口利きによって作新学院の職員となり個人的に雇った元プロ野球選手にコーチを依頼して1年間トレーニングを続け、1978年のドラフトを待ちました。
ところが1978年のドラフト前日11月21日、巨人はドラフト会議に関する規約を強引に曲解し「ドラフト指名選手との交渉権はドラフト会議の前日で切れることになっているから、その日は球団はドラフトに拘束されずに任意の選手と契約可能である」という『空白の一日』説をぶちあげて強引に江川の入団発表を強行しました。
しかしリーグは当然ながら、このような無茶苦茶な論理は退け、江川の入団の届け出を拒否。
すると巨人は「重大な決意をもってドラフト会議を欠席する」と通告。マスコミは、巨人は、ライオンズを買収して誕生したばかりの西武を誘って新リーグを設立するのではないか。
その場合他にも2〜3の球団が追随して、球界再編になるのではと大騒動をしました。
そしてドラフト会議では阪神が江川を指名しました。
この問題に関して金子鋭コミッショナーは「江川君は阪神に入団して巨人にトレードで移籍するように」という裁定を下し、秋期キャンプのため宮崎に行く途中であった小林繁投手(当時の巨人のエース)が急遽呼び戻され、江川との交換トレードで阪神に行ってくれるよう巨人は要請しました。
このコミッショナーの裁定には本来の巨人ファンを含めて多くの人々から批判が集まり、金子コミッショナーは辞任。
江川については開幕から2ヶ月間の出場停止の処分が取られました。
もちろん小林に関しては被害者とみなされ何の処分も行われていません。
この時期、巨人の親会社である読売新聞はただ一社、一貫して巨人擁護の記事を書き続け、ファンおよび購読者の離反を招くことになります。
この江川騒動の被害者は小林以外にも数人います。
前述のように巨人にドラフト会議で指名されるはずだった鹿取ら数人は結局ドラフト外で巨人入団となりました。
(鹿取はもともと社会人に進むつもりだったとの説も)
小林が抜けて投の中心がいなくなってしまった巨人ではやむなく抑えのエースの新浦寿夫を急遽先発にコンバート。
しかし性の合わない先発を任された新浦はこれで調子を崩してしまい、絶不調に陥ってしまいます。
レンコンの日(11.17)
11月17日は「レンコン(蓮根)の日」です。これは1994年11月17日に、レンコンの一大産地である茨城県の、土浦市に全国の蓮根産地の代表が集まって、「蓮根サミット」を開いた時、サミットを記念してこの日を「蓮根の日」とすることが制定されたものです。
さて最初に少し言葉を整理しておきましょう。
まずいつも問題になるのが「ハス」と「レンコン」です。
両者はとても似た植物ですが、花が水面に咲くものがスイレン、花が水面から数cm〜数十cmほど浮かんだ場所に咲くのがハスです。
葉もスイレンの場合は浮葉のみですが、ハスは浮葉と立葉(水面より上に出る葉)があります。
学名はハスがNelumbo、スイレンがNymphaea。
英語ではどちらもLotus(ロータス)です。
スイレンは「水蓮」と書くこともありますが、現代では「睡蓮」と書くのが標準とされます。
以前は両者は種族的にも近いものと思われていましたがDNAの分析の結果、かなり離れた種であったことが明らかになっています。
ハスやスイレンの花は「レンゲ(蓮華)」と呼ばれます。中華料理で使用するレンゲは、蓮華の花弁と形が似ているとして、その名前があります。
日本語の「ハス」という名前は、花の中央にある花托に多数の穴が開いていて、蜂の巣を連想させるとして、ハチス→ハスと変化したものと言われています。
さて、レンコン(蓮根)は「ハス」の地下茎です。これに穴が開いているのは呼吸をするのに空気を取り込むためで、花托の穴からずっとつながっています。
蓮根は節で区切られていますが、この節の所から茎が伸びて水面に葉や花を出します。
なお、スイレンは地下茎を形成しません。
ハスの実(種)は「蓮の実(はすのみ)」と呼ばれて砂糖漬けなどにして食べますし「甘納豆」にも小豆(あずき)や空豆(そらまめ)などと共に使用されています。
漢方薬の材料(蓮肉という)にもなります。また仏教の数珠の材料にも使用されます。
これは蓮は花が咲いた時にはもう既に実が出来ているので「生死即涅槃」の象徴であるとされるためです。
蓮の実の表面はとても硬いので、とても長い間発芽能力を維持することができて、大賀一郎が1951年3月に千葉県の検見川遺跡の泥炭層から発見し、発芽に成功させたものは2000年前のものでした。
これは「縄文蓮」と呼ばれて、当時大きな話題となり小学生向けの科学の本などでも良く取り上げられていました。
最近では発見者の名を取って「大賀蓮」とも呼ばれています。東京都世田谷区の大宮八幡宮や大分県臼杵市の蓮園などでこの蓮を見ることができます。
↓は参考サイト
http://blog.goo.ne.jp/benzo_k/e/67f218e384fd89063cff96c9e93a0a07
http://www.ajkj.jp/ajkj/oita/usuki/kanko/usuki_hasu/usuki_hasu.html
蓮といえば、仏教文化圏ではお釈迦様との関連が深く、蓮華の上でお釈迦様が瞑想している絵などは良くあります。
お釈迦様が生まれた時に、蓮の花が受け止めてくれた、などという伝説もあるようです。
蓮の花の色には様々ありますが、仏教では、白蓮華をプンダリーカ、青蓮華をウトパラ、紅蓮華をパトマといいます。
仏典に出てくる蓮は大半が紅蓮華(パトマ)だそうです。もともとエジプトなどにも蓮を王権の象徴とする考え方などがあったようですので、お釈迦様と蓮の関係も、そういう古代思想とのつながりがあるのでしょう。
さて話をレンコンに戻して、レンコンの食べ方としては、天ぷらにするのもおいしいですし、煮物にするのも良いです。
ガメ煮(筑前煮)には必須の素材となっています。
またすり下ろして片栗粉等と混ぜ、そのままあるいは鶏挽肉や魚のすり身などとまぜて団子にし鍋物の材料にしたり、油で揚げて食べるのもふわっとした食感が最高です。
また熊本名物の「カラシ蓮根」は蓮根の穴にカラシをつめ、卵などを入れた衣を付けて揚げたものです。
カラシ蓮根は昔は結構な値段がしたので、話には聞いてもなかなか食べる機会がなかったのですが、1984年に食中毒事件が起きて死者まで出た時価格が暴落したので「今年はチャンス」と思って食べてみました。
基本的には珍味の類という気もします。
(日本酒などに合う気がしました)
1984年の食中毒の場合は「真空パック」に対する過信があったようです。
事件を起こしたボツリヌス菌は真空中でも増殖できるので、製造工程のどこかに甘い所があると、残存した菌が繁殖してしまいます。
作りたての芥子蓮根では、このような事故は起きないと考えられます。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
▲このページの先頭へ戻る
戻る ▲トップページ