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11月16日 幼稚園記念日

花ノ名前      花ことば            誕生花として
クリスマスローズ  スキャンダル・思い出を懐かしむ
     私を安心させて・中毒・悪評・誹謗・発狂・追憶○
サザンカ(赤)    謙譲・無垢            ○
ツワブキ     愛よよみがえれ・謙遜・先を見通す能力○
ハゼノキ      真心               ○

∞…∞11月16日・今日という日 ∞…∞

サエコ   (1986)  タレント
K   (1983)  歌手
上田愛美   (1982)  タレント、元 チェキッ娘
三浦哲郁   (1981)  俳優
井元由香   (1980)  タレント、女優
村上祐子   (1978)  アナウンサー
太田美帆   (1978)  歌手、元SUS4
松田樹里   (1977)  モデル、タレント
オクサナ・バイウル   (1977)  フィギュアスケート
西村博之   (1976)  2ちゃんねる管理人
内田有紀   (1975)  女優
田賀久美子   (1975)  女優
杉山マルコス   (1973)  バレーボール
アルちゃん   (?)  元フロウズン、Dr.
みつみ美里   (1972)  原画家、グラフィッカー
モブ・ノリオ   (1970)  作家
六道神士   (1970)  漫画家 「エクセルサーガ」
五十嵐いづみ   (1968)  女優
西脇 唯   (1968)  シンガーソングライター
比留間亮司   (1967)  アナウンサー
二谷友里恵   (1964)  女優
山野井仁   (1962)  声優
大泉実成   (1961)  作家
安西史孝   (1958)  作曲家
國村 隼   (1955)  俳優
和沙哲郎   (1954)  アナウンサー
宮本 茂   (1952)  ゲームクリエイター
オール巨人   (1951)  漫才師
折原 一   (1951)  作家
来生たかお   (1950)  シンガーソングライター
亜月 裕   (1948)  漫画家 「伊賀野カバ丸」
増位山大志郎 (二代目)   (1948)  相撲
岡本治子 (石田治子)   (1945)  フィギュアスケート
荒巻 淳   (1926)  野球
佐藤英夫   (1924)  俳優
人見 明   (1922)  俳優、コメディアン
ジョゼ・サラマーゴ   (1922)  作家
山口良忠   (1913)  裁判官
まどみちお   (1909)  詩人、童謡詩人
坂 静雄   (1896)  建築工学者
北村透谷   (1868)  詩人
中西悟堂   (1895)  歌人、詩人
後西天皇   (1637)  天皇

 ○ 日本最初の木製活字本(1593)
 ○ 玉川上水完成(1653)
 ○ 人形浄瑠璃の一つ、義経千本桜、初演(1747)
 ○ スエズ運河、開通(1869)
 ○ 初の官立幼稚園。東京女子師範学校付属幼稚園(現在のお茶の水女子大学付属)が東京・神田に開園(1876)
 ○ 日比谷図書館開館(1908)
 ○ 現代かなづかいと当用漢字表発表(1946)
 ○ 東京間借人協会発足(1966)
 ○ 横須賀の米空母ミッドウエーの母港化を政府が承認(1972)
 ○ 東海地震に備え、6県が初の総合防災訓練(1979)

幼稚園記念日
1876年(明治9年)に日本で最初の官立幼稚園である東京女子師範学校附属幼稚園が東京・神田に開園したことによる。

国際寛容デー
1996(平成8)年12月12日の国連総会で制定。国際デーの一つ。
1995(平成7)年、ユネスコ総会で「寛容原則宣言」と「国連寛容年のためのフォローアップ計画」が採択されました。
International Day for Tolerance

いいいろ塗装の日
日本塗装工業会が制定した日。
「いい(11)いろ(16)」の語呂合わせ。

いい色の日
愛知県の塗装と塗料に関係する業界の団体「愛知昭和会」が1991年に制定。

自然薯の日
自然薯の食事処「麦とろ童子」を静岡県熱海市で営む清水元春氏が制定。
日付は11月16日を「いいいも」(6=「も」の字に見立てて)と読む語呂合わせと、自然薯の最盛期である時期に合わせたもの。





幼稚園の日(11.16)
11月16日は「幼稚園の日」です。
これは1876年11月16日に、東京女子師範学校(現お茶の水女子大)に附属幼稚園が設置されたのを記念するものです。
これは日本で最初の官立(国立)幼稚園です。

幼稚園の始まりはイギリスのRobert Owen(1771-1858)が1800年頃に作った子供のための施設とされています。
オーエンは1799年にNew Lanarkの紡績工場を買い取りますが、その時労働者の中に5〜6歳の子供がかなり混じっているのに気付き、こんな小さな子供たちを働かせるのは可哀想だといって労働をさせる代わりに、教育施設を作って、そこで色々勉強することが彼らの仕事である、ということにしました。

続いてドイツのFriedrich Wilhelm August Froebel(1782-1852)がスイスの教育家ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi,1746-1827)との交流からその思想に触発され、1836年にKindergarten(子供達の庭という意味)という幼児の教育施設を作りました。
彼はこの施設で子供達に、お遊戯・積み木・鳥や小動物とのふれあい・花や野菜の栽培など、をさせており、これが現在の幼稚園のあり方のルーツであるとされます。
そのため現在でも幼稚園のことを一般名詞で kindergarten (英語でもこのスペル。kindergardenは本来誤字)と呼ぶ呼び方が定着しています。

現在日本の幼稚園は全国で約14,000個で、そのうち約6割が私立です。
また幼稚園と並ぶ保育施設として保育園や保育所が全国に30,000個ほどあります。
2系統に別れてしまっているのは、幼稚園は文部科学省/学校教育法の所管、保育園・保育所・託児所は厚生労働省/児童福祉法の所管だからです。
このためそこで働くにも幼稚園は幼稚園教諭、保育所は保育士(「保育師」ではなく「保育士」と書く。看護師・保健師・助産師は「師」だが、保育士・栄養士は「士」。全く紛らわしいので、あちこちで多数の誤字を見掛ける。)の資格が必要です(一般に両方の資格を取得する人が多い)。

基本的なコンセプトとしては、保育園・保育所・託児所は仕事や病気・出産などのために子供の世話をできない親から子供を預かる場所であるのに対して、幼稚園は小学校にあがる前の子供の教育をする場所(Pre-school)であるということになっています。
そのため、幼稚園は午後2時くらいまで、保育園は夕方まで子供を預かるのが原則ですが、幼稚園でも延長保育をしているところは多く、また保育園でも音楽や英語などの教育までするところもあり、両者の境はかなり曖昧になってきています。
そのため、両者を統一的に取り扱うべきだという議論も昔からあり、同じ場所に幼稚園と保育園も設置するなどの実験的な試み(鳥取市のこじか園など)も行われたりしています。

基本的には最近子供の数が減っているためこういう施設も総数では減る傾向があるようですが、保育所の数が絶対的に不足している地域もあり、都会では大量の「待機児童」が問題になっています。
またどうしても料金の安い「認可保育所」への入所ができないと、転勤などによる欠員を待ちながら「認可外保育所」に預ける場合も多いですが、その場合の負担はかなり大きく、家庭収入が少ないのでそれを補うために奥さんがパートに出ているケースで、保育料がパートの収入を上回るようなケースも多々あり、「何のためパートに出ているのか自分で分からなくなる」などという声もあったりします。
企業に託児所の設置を義務づけようという意見もかなり以前からありますが、企業側は長引く不況の中で費用のかかることをするのを渋る傾向があります。

幼稚園に通う子の場合、午後2時で終わってしまうので、その後、色々な習い事に行く子も多くいます。
英語教室・音楽教室・水泳教室・ダンス教室・小学校受験準備教室などは参加者が多いですが、最近は幼稚園の敷地内に、そういう教室を併設している幼稚園もあり、その場合幼稚園から教室までシームレスに利用できる(課外保育)のが喜ばれています。

幼稚園は学校とは言っても小学校以上の学校とは違い、園による雰囲気の差はかなり大きな物です。
大別して「お勉強」系の幼稚園と、「のびのび」系の幼稚園がありますが、最近の風潮としては後者の方が増えているのではないかと思われます。
またお寺や教会が敷地内に幼稚園を設置しているところも多いですが、教育内容は一般に宗教色の薄いところが多いように思われます。
またそもそも明確なコンセプトを持ってしっかりとした教育をする所と、コンセプトなどなく全て適当でアバウトな所がありますが、これもアバウトなところが好まれる傾向にあるようです。
学校に上がればいろいろ鍛えられるのだから、小さい内は思いっきり遊ばせてあげた方が、人格形成には良いと考える親が増えていると思われます。

これも長い不況の時代の中で大企業ほど熾烈なリストラがおこなわれていることや、子供の数の減少で大学全入時代がやってきて、高度経済成長期や受験戦争期の価値観が崩壊してしまったことも背景にあるものと思われます。






青山学院創始(1874)
明治7年(1874)11月16日、アメリカの教育家スクーンメーカー(Dora E.Schoonmaker, 1854-1934)が麻布新堀町に「女子小学校」を設立しました。
これが現在の青山学院のはじまりです。

この女子小学校は麻布本村町、築地居留地、そして明治21年に青山の地に移転。
名前も救世学校、海岸女学校、そして東京英和女学校と変わっていきました。
そして更に明治28年には更に青山女学院の名前になりました。

一方、明治11年にアメリカの宣教師ソーパー(Julius Soper, 1845-1937)が築地に耕教学舎を創立。
これが明治14年に東京英学校と改称しました。
また明治12年にはアメリカの宣教師マクレイ(Robert Samuel Maclay, 1824-1907)が横浜居留地に美會神学校を設立しました。

ここで明治15年美會神学校は東京英学校に合併され、明治16年青山の地に移って東京英和学校と改称しました。
そして更に明治27年には更に青山学院の名前になりました。

この青山女学院と青山学院は全く独立した学校でしたが、昭和2年に両者は合同。
ひとつの学校となりました。そして戦後の学制改革を経て、現在は、幼稚園・初等部・中等部・高等部・大学・女子短期大学・大学院を持つ総合学校法人となっています。

青山学院は戦前から東京を代表するミッションスクールの一つでした。
そしてその自由な雰囲気とセンスのいい制服なども含めて、「アオヤマ」の名前は非常におしゃれな学生のシンボル、一種のあこがれのように扱われていたようです。







警視庁廃止決議(1905)
1905年(明治38)11月16日、東京市会が警視庁の廃止を決議しました。
(9月22日と書いている文献もある)

これは同年9月5日の日比谷焼き打ち事件に関連するものです。
9月5日に日露戦争終結の講和条約が締結されましたが、その内容に不満を持つ群衆が抗議行動を取り日比谷公園で集会を開こうとしたのに対し、警視庁は公園を封鎖してそれを阻止しようとしました。

これに対して押し寄せた参加予定者らは警官と押し合いになり、一部が暴徒化、これに対して警官がサーベルを抜いて暴れる群衆に斬りつけたりした為騒ぎは更に大きくなりました。

この事件に対して新聞各紙は一斉に警察を批判。
すると政府はそれらの新聞を次々と発禁処分にします。
しかし新聞各社は政治家を巻き込んで10月8日に警視庁廃止期成同盟を結成し、とうとう11月16日には東京市会が満場一致で警視庁の廃止決議をするところまで発展してしまいました。

この問題は更に国会にも上程され、翌年2月、警視庁の廃止に関する議論が衆議院で行われました。
しかし衆議院は2月22日、警察側の改革案を了承する代わりに、警視庁廃止案は否決しました。
この改革案により、今後警察は著しく国家に不利益となるような会合をのぞいては基本的に不介入の方針をとることにし、どうしても警備が必要な場合も、私服警官を活用して不必要な刺激を与えないことなどが定められました。




で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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