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11月10日 技能の日(労働省など1970)、エレベータの日(日本エレベーター協会1979)、
トイレの日(日本トイレ協会1986)、肢体不自由児愛護の日
LPガス消費者保安デー(毎月)
花ノ名前 花ことば 誕生花として
セントポーリア 小さな愛・小さな心・深窓の美女 ○
ハイビスカス 私はあなたを信じます・新しい恋
常に新らしい美・繊細な美 ○
ブバリア(ピンク) 清楚・知性的な魅力 ○
フヨウ しとやかな恋人・繊細美・微妙な美しさ○
モミジ 遠慮・自制・大切な思い出・秘蔵の宝○
∞…∞11月10日・今日という日 ∞…∞
浜 千咲 (1988) タレント
たくや (1982) タレント、ザ・たっち
かずや (1982) タレント、ザ・たっち
浦田直也 (1982) AAA
五十嵐恵 (1981) タレント、元チェキッ娘
山口あゆみ (1981) タレント、女優
梶原もも子 (1981) ピコマコ、Vo. Key.
古木克明 (1980) 野球
神田朱未 (1978) 声優
雨宮陽平 (1978) タレント、ノンストップバス
美裕リュウ (1977) 歌手
舞坂ゆき子 (1976) 女優
大野泰広 (1976) タレント、ハレルヤ
十文字貴信 (1975) 競輪
尾辻 舞 (1975) アナウンサー
荒瀬詩織 (1975) アナウンサー
オユンナ (1975) シンガーソングライター
岩瀬仁紀 (1974) 野球
間宮くるみ (?) 声優
畠田理恵 (1970) タレント
長井満也 (1968) プロレス
伊藤一朗 (1967) Every Little Thing、G.
エディ・アーバイン (1965) レーサー
前田知洋 (1965) 手品師
清水宏次朗 (1964) 俳優
デーモン小暮 (1962) 歌手、聖飢魔 II
芦沢 誠 (1962) アナウンサー
川島なお美 (1960) 女優
芹沢信雄 (1959) ゴルフ
芹沢輝雄 (1959) ゴルフ
原日出子 (1959) 女優
菊池隆則 (1958) 俳優
及川ひとみ (1958) 声優
高橋三千丈 (1956) 野球
ラリー・パリッシュ (1953) 野球
中野裕通 (1951) ファッションデザイナー
真木洋子 (1948) 女優
糸井重里 (1948) コピーライター
基 満男 (1946) 野球
石川敏男 (1946) レポーター
河原さぶ (1945) 俳優
鈴木恵一 (1942) スピードスケート
ケン・月影 (1941) 漫画家
山城新伍 (1938) 俳優
春川ますみ (1935) 女優
ロイ・シャイダー (1932) 俳優
三橋美智也 (1930) 歌手
黒木和雄 (1930) 映画監督
入川保則 (1929) 俳優
エンニオ・モリコーネ (1928) 作曲家
福王子法林 (1920) 画家
平 参平 (1916) タレント、俳優
鶴田六郎 (1916) 歌手
滝野通則 (1916) プロ野球審判員
ハチ公 (1914) 忠犬
西村幸生 (1910) 野球
進藤英太郎 (1899) 俳優
唐人お吉 (斎藤きち) (1841) 芸伎
三野村利左衛門 (1821) 実業家
マルチン・ルター (1483) 宗教改革家
○ 江戸城本丸完成(1622)
○ アメリカ海兵隊創設(1775)
○ シーボルト事件(1828)
○ ランボー没(1891)]
○ 軍艦三笠の進水式(1900)
○ 昭和天皇、京都御所で即位大礼式(1928)
○ 琉球政府主席初の公選。即時無条件全面返還を揚げて屋良朝苗氏が当選(1968)
○ 日本武道館で昭和天皇在位50年式典(1976)
○ ベルリンの壁崩壊(1989)
エレベーターの日
1890年(明治23年)のこの日、東京・浅草の12階建ての凌雲閣で、日本初の電動エレベーターが公開された。
これを記念して日本エレベーター協会が1979年(昭和54年)に制定。
技能の日
1970年(昭和45年)の今日、アジアで初の技能オリンピックが東京で開幕したのを記念して、翌日の1971年(昭和46年)に設けられた日。
肢体不自由児愛護の日
1953年(昭和28年)に肢体不自由児協会の主唱で始められた。
12月10日までが「手足の不自由な子供を育てる運動」期間。
トイレの日
1986年(昭和61年)に日本トイレ協会が制定した日で、11月10日を「いいトイレ」と読む語呂合せによる。
公衆トイレを快適なものにしようなど、様々なキャンペーンが行われる。
8月10日の「トイレの日」とは別のものである。
ハンドクリームの日
ユースキン製薬が2000(平成12)年に制定。
「いい(11)手(ten=10)」の語呂合せと、平年の最低気温が10℃を割ってハンドクリームの需要が高まる頃であることから。
独立第一声記念日(パナマ)
トイレの日(11.10)
11月10日は「いいトイレ」の語呂合わせで「トイレの日」です。
日本トイレ協会が1986年に制定しました。
トイレの歴史というのは、だいたい人間が集団定住生活をはじめた頃から始まります。
一般に人が集団生活をしはじめた場所は水が豊かで、近くに川がある場合が多かったので、川の上に板などで張り出しを設け、そこに穴を開けて、そこで排便をしていました。
いわゆる「かわや(厠)」です。
後に村の回りに防衛と猛獣避けを兼ねて堀(環濠)を作るようになると、その環濠が厠を兼ねるようになりました。
こういう厠の系統のトイレは平安時代にも上級貴族がおこなっていて、自分の屋敷の中に川の流れを引き込み、その流れの上に厠を設置していました。
一方そこまでのお金のない中級以下の貴族の場合は、現在の簡易トイレのような構造のものを作り便の落ちる箱の中には砂や木の葉などを入れて便の処理がしやすいようにしていました。
ヨーロッパではローマ帝国は立派な下水道を持っていましたが、その後の中世の都市では必ずしも下水道は未整備で、これがのちのペスト大流行の原因のひとつになったとも考えられます。
中世のヨーロッパの都市では、人々は「おまる」のようなものに便をして、それを窓から外に捨てていましたので、道を歩いている最中にそんなものが飛んでくるのは日常茶飯事でした。
そのために発達した服装がマントやハイヒールです。
ヨーロッパの都市でしっかりした下水道が整備されるのはだいたい19世紀頃です。
トイレの処理方法としては厠のような水洗式、中世ヨーロッパや平安の中級以下の貴族などのような廃棄式のほか、もうひとつ重要な方式があります。
それは、農業文化圏の中で発達した、肥料として利用する方式です。
日本には中国で発達した処理方法が伝わり、中世以降代表的な屎尿処理方法となりました。
江戸時代の都市では、長屋などで溜められた屎尿を近隣の農家が回収していき肥料として使用していました。
一般に農家は畑で取れた作物を都市に売りに行って、帰りに屎尿を買って帰っていました。
この屎尿の売却代金というのは、長屋の大家にとって、大事な収入源でした。
日本では戦後、寄生虫の問題から屎尿を肥料に使うのを止めて化学肥料を使おうといったことが言われて「こやし」の消費量が減り、肥溜めも随分減って、一方で下水道と水洗トイレの普及ですっかり屎尿は「廃棄物」扱いされるようになってしまったのですが、ここ十数年の間に揺り戻しが起きて、化学肥料で作った作物より、有機栽培した作物の方がずっとおいしいことも知れ渡り、あらためて人糞についても、処理方法の見直しの声が上がるようになってきました。
しかしいろいろと問題は多く、前途は多難です。
なお、トイレの便器は基本的に、座り式・しゃがみ式・立ち式に分けられます。
歴史的に長いのは座り式としゃがみ式で、これは西洋が座り式・東洋がしゃがみ式でした。
いわゆる「金隠し」は日本だけのものだそうで、平安時代に服に尿がかからないように掛けておく「衣掛け」がルーツといわれます。
「きぬかけ」が訛って「きんかくし」になってしまったのだそうです。
日本でも戦後は団地などを中心に座り式のものが普及し、今では和式のしゃがみ式より、楽に使える洋式の座り式の方を好む人たちも増えてきました。
立ち式の小便器はかなり新しいもののようです。
20世紀初頭に世界的に普及したようですが、日本や欧米などでは男性用の立ち式だけが生き残り、中東などでは女性用の立ち式の方が生き残ったようです。
(それでも日米欧の男性用小便器ほどの数ではないらしい)
エレベータの日(11.10)
11月10日はエレベータの日です。
これは1890年(明治23年)のこの日、東京浅草に、日本初の電動式エレベータを装備した凌雲閣(通称「12階」)がオープンしたことを記念したものです。
1990年にその百周年を記念して、日本エレベータ協会が制定しました(1979年制定という説もある。どちらが本当でしょう)
この浅草12階は当時、文明開化の象徴として広く国民に親しまれ、連日見物客が訪れていました。
恐らくカルチャーショックとしては、昭和33年にみんなが東京タワーを見た時以上のショックがあったのではないかと思われます。
その時、見物客が上の階に行くのに、この電動エレベータに乗ったのです。
そして、ご存じのようにこの「12階」は関東大震災で崩壊し、その後再建はされませんでした。
「電動式でない」エレベータとしては、それ以前、江戸時代に手動式、つまり井戸の水を汲み上げるバケツのような方式のものが、上の階に荷物を運ぶために使用されていました。
現在食堂・旅館や病院などで、食事や医療器具などを運ぶのに使っているような小型エレベータです。
これは例えば、水戸の偕楽園などに当時の物が今も残っています。
この方式のものは最も古い記録としてはBC3世紀にローマで使用された例もあるそうです。
現代風のエレベータが発達したのは19世紀になってからです。
1835年
イギリスで蒸気機関を使用したエレベータが発明される。
1845年
ウィリアム・トンプソンが水圧式エレベータを発明。
1852年
エリーシャ・オーチスがワイヤが切れた時の非常停止装置を発明。
翌年オーチスはエレベータの製造会社 Otis Brothers & Company 設立 ( http://www.otis.com )
1853年
フロスト・ストラトがワイヤの相手側にカウンタバランスを付けることを考案。
大重量用エレベータの道が開かれる。
1857年
上記オーチスが初の人間用エレベータを開発。
1859年
シーバーガーがエスカレーターを発明。(1910年に権利をオーチスに売却)
1880年
ドイツのシーメンスハルスケ社が電動エレベータを開発。
1889年
オーチス社製のエレベータを装備したエッフェル塔が建設される。
上記の年表にも書きましたが、現代のエレベータには非常停止装置が付いていますので、万一エレベータを吊っているワイヤーが切れても安い怪奇小説みたいにそのままエレベータが落下してしまうようなことはありません。
エレベータはワイヤだけでぶらさがっているのではなく、レールに沿って動いていますので、レールとの相対速度が一定以上になると、レールがエレベータを止めてしまうようになっています。
更にはエレベータの通路の一番下にはクッションがありますので、下の地面に激突しても、衝撃はかなり小さいとのことです。
(とは言われても古いエレベータって、あまり乗りたくないですね。ビルが古くてもエレベータがしっかりメンテされていればもちろん問題無しですが。)
エレベータの父ともいうべきオーチスは当時みんなが見ている前で自ら自作のエレベータに乗り、ワイヤーをわざと切らせたそうです。
これは販売の為のデモンストレーションとしては、強烈なものであったと思われます。
オーチス社のエレベータ・エスカレータは現在でも世界の2割のシェアを持つとのことです。(日光の華厳の滝のエレベータはオーチス製)
忠犬ハチ公(1923-1935)
渋谷の駅前の銅像で知らない人はいない忠犬ハチ公は大正12年(1923)11月10日秋田県大館市の斎藤義一さん宅で生まれました。
母は胡麻号、父は大子内号といいました。
その頃東京帝大・農学部の上野英三郎教授が秋田犬の子犬を飼いたいと思って探していました。
その話が知り合いから知り合いへと伝わり、大正13年1月14日、世間瀬さんという人の手により斎藤さんの所で生まれた子犬が博士のもとに届けられました。
博士はこの子犬に「ハチ」という名前を付け、子供がいなかったこともあり、とても可愛いがりました。
上野博士は渋谷に住んでおり、渋谷駅まで歩いてそこから農学部の試験場なり駒場のキャンパスなりに電車で通勤していました。
ハチは、はじめは玄関から博士を見送っていたそうですが、その内駅まで一緒に付いていき、博士が帰るころの時刻になると、しばしば駅までお迎えに行くようになっていました。
ところが上野博士は大正14年5月21日に大学校内で急逝。
ハチ公と博士のわずか17ヶ月の付き合いは終わりました。
ハチ公は知り合いで三軒茶屋に住む小林氏の家に引き取られました。
しかしそれ以降、そのハチ公がちょうど上野博士が帰宅していたくらいの時間帯にまた渋谷駅に来て誰かを待っている風な様子がしばしば目撃されました。
三軒茶屋から渋谷でしたら犬にとっては十分行動範囲ですから、もしかしたら単に子犬の頃からよく来ていた界隈で遊んでいただけだったかも知れませんが、これを見た人たちは「可哀想に。ご主人が亡くなっても、ちゃんとお迎えに来てるんだ、忠義な犬だ」ということで騒ぎ始め、昭和7年には新聞にまで載り、昭和11年には小学校の修身の教科書に掲載され、昭和9年4月21日には、なんと銅像まで建ってしまいました。
銅像を制作したのは帝展審査委員の安藤照氏です。
この銅像の除幕式にはハチ公本人も出席しています。
そしてハチ公はこの翌年、昭和10年3月8日、亡くなりました。
享年11歳。
毛皮は剥製にされて上野科学博物館に保存され、遺骨は青山墓地の上野博士の墓のそばに葬られました。
このハチ公を記念してハチ公の出身地の大館でも昭和10年7月8日、渋谷のものと同じ型を使用した銅像がお目見えします。
ところがこの渋谷・大館ともに、戦時中の金属供出で取り壊されてしまいました。
一方では修身の教科書に載せておいて、わりとやることがムチャクチャです。
しかし戦後また有志の人たちが集まり、渋谷の銅像は昭和22年8月に再建、大館の銅像も昭和62年11月に再建されて現在に至っています。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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