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11月07日 知恵の日
     あられ・せんべいの日(毎年立冬・全国米菓工業会1985)、
     ウェルカムウィンターデー

花ノ名前      花ことば            誕生花として
フレンチ・マリーゴールド 嫉妬・大人びた配慮     ×
マリーゴールド
  可憐な愛情・健康・嫉妬・別れの悲しみ・友情・予言 ○
ムべ        愛嬌               ○
ユーカリ      記念・追憶・思い出        ○
ワレモコウ     感謝・変化            ○

∞…∞11月07日・今日という日 ∞…∞

内山理名   (1981)  タレント
片瀬那奈   (1981)  タレント
長瀬智也   (1978)  タレント、TOKIO
小林寛子   (1977)  女優
小比類巻貴之   (1977)  格闘家
佐藤重幸   (1973)  タレント
早川健一郎   (1973)  野球
キム・ユンジン   (1973)  女優
佐藤重幸   (1973)  タレント
前川久美子   (1972)  プロレス
イーサン・ホーク   (1970)  俳優
後藤宙美   (1969)  女優
井上貴子   (1968)  プロレス
山崎武司   (1968)  野球
伊集院光   (1967)  タレント
こんちはる   (1964)  タレント
藤田隆二   (1963)  Le Couple、G.
松村雄基   (1963)  俳優
種ともこ   (1961)  シンガーソングライター
松岡錠司   (1961)  映画監督
セルゲイ・アレイニコフ   (1961)  サッカー
小和田アキ子   (1959)  タレント
荻野アンナ   (1956)  作家
笑福亭笑瓶   (1956)  タレント、落語家
中尾明生   (1952)  野球
高千穂遥   (1951)  作家
ミッチー長岡   (1949)  SHOGUN、Bass、Vo.
信田かずお   (1949)  作曲家
福本 豊   (1947)  野球
金田留広   (1946)  野球
松平定知   (1944)  アナウンサー
チャーリー浜   (1942)  タレント
寺田 農   (1942)  俳優
貝塚ひろし   (1938)  漫画家
阪 脩   (1930)  声優、ナレーター
山内 溥   (1927)  任天堂社長
森山眞弓   (1927)  政治家
アルベール・カミュ   (1913)  作家
高田浩吉   (1911)  俳優
上原 謙   (1909)  俳優
山中貞雄   (1909)  映画監督
スターリング・ノース   (1906)  児童文学家
ハヤブサ・ヒデト   (1904)  俳優
コンラート・ローレンツ   (1903)   動物行動学者
北条秀司   (1902)  劇作家
難波大助   (1899)  無政府主義者
久保田万太郎   (1889)  作家
マリー・キュリー   (1867)  科学者
ルイ18世   (1755)  フランス国王
敦康親王   (999)  皇族

 ○ 立冬(二十四節気の一つ。初めて冬の気配が現れてくる)
 ○ 源頼朝入洛(1190)
 ○ 室町幕府興る(1336)
 ○ 江戸幕府、大老職設置(1638)
 ○ 東京国立博物館開館(1931)
 ○ 帝国議事堂(国会議事堂)落成式。18年の歳月と総事業費2579万円(当時、映画館入場料が30銭)(1936)
 ○ F・ルーズベルト大統領4期目に(1944)
 ○ コスタリカが常備軍保持を禁止する憲法公布(1949)
 ○ 現金自動支払機がどの銀行のカードでも使用可能に(1975)
 ○ 奈良県明日香村で玄武の絵発見(1983)

立冬
二十四節気の一つ 旧暦十月節気。

椿開き始む
七十二候の一つ(55候)。

ロシア革命記念日
1917年(大正6年)のこの日、レーニンが指導するボルシェビキ(後の共産党)が武装蜂起。
首都ペテログラードを占拠、ケレンスキー内閣を倒し、歴史上初めて社会主義政府を実現した。

ウェルカム・ウインターデー
1985年(昭和60年)に、全国米菓工業組合が制定した日。新米で作られたあられやせんべいをコタツに入りながら食べてもらおうと立冬の日を選んだ。
「あられ、おせんべいの日」でもある。

知恵の日
朝日新聞社が1988(昭和63)年、『朝日現代用語 知恵蔵』発刊の時に制定。

鍋の日
食品メーカー・ヤマキが制定。
この日が立冬になることが多いことから。

ロシア革命記念日(旧ソビエト連邦)
ロシア10月革命でソビエト政権が樹立されました。
2月革命でロマノフ王朝が倒され、ケレンスキーらの臨時政府が支配していましたが、ロシア暦10月25日に首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で労働者らで結成された赤衛軍が武装蜂起。
政府のある冬宮に突入した。





鍵屋の辻の決闘(1634)
寛永11年(1634)伊賀上野の「鍵屋の辻」で、荒木又右衛門の<36人斬り>で知られる、仇討ちが行われました。

発端は4年前に遡ります。

江戸時代の殿様というものは、その気になればいくらでも側室を抱えることができましたが、それで多数の子供ができてしまうと、その子供をあちこちに養子として押しつけるのに、非常に苦労するという問題がありました。

そのため、しばしば子供のできる心配のない相手、つまり美少年をセックスの処理のために侍らせていたと言われます。
こういう美少年はまだ髪上げをしておらず、一人前の男ではないということから、女性と同じ扱いという解釈になり、これは同性愛ではない、という意識が双方にあったとのことです。

そういう訳で、時の岡山藩主・池田忠雄(ただかつ)にも渡辺源太夫という寵童がいたのですが、この源太夫に、同藩の藩士・河合又五郎が横恋慕します。
そして源太夫に関係を迫ったものの源太夫は冷たく拒否。
それに逆上した又五郎はこれを殺害してしまいました。
寛永7年7月のことでした。

殺害してみると、これは大変なことをしたという思いがこみ上げてきます。
又五郎は藩を出奔。
江戸に逃れて、ある旗本家にかくまわれました。
そのことを知った藩主・池田忠雄は幕府を通して、河合又五郎の身柄の引き渡しを要請するのですが、この肝心の忠雄が突然亡くなってしまいました。

ここで困ったのが、源太夫の兄の渡辺数馬です。
当時の武士社会のルールとしては、弟の仇を討たない限り、岡山藩に出仕しつづけることができないことになってしまいました。
しかし数馬は武士とはいっても、剣に全く自信がありません。
そこで彼は姉の夫である剣豪・荒木又右衛門に助けを求めたのです。

荒木又右衛門は1598年あるいは1599年、伊賀上野の生まれ。
幼名は菊水丑之助で、成人後、郡山藩で250石を取って剣術を教えていました。
愛刀は来伊賀守金道という名刀ですが、この鍵屋の辻の決闘でそれを折ってしまっています。
又右衛門は数馬から助けを求められると郡山藩を辞して、河合又五郎の行方を探して一緒に江戸から東海道を訪ね歩きます。
そして、やがて彼らがこの日の朝上野に来るという情報をつかんだのです。

この時、河合又五郎は奈良の隠れ家から江戸方面に移動しようとしていました。
又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南(つまり又右衛門の元同僚)の河合甚左衛門、又五郎の妹婿であり槍の名人の桜井半兵衛など10人ほどの一行であるという情報が入っていました。
荒木又右衛門は弟子の岩本孫右衛門・河合武右衛門を連れ、渡辺数馬とあわせて4人でこの一行を待ち伏せしました。

荒木又右衛門も元郡山藩剣術指南として河合甚左衛門の腕のすごさは熟知しています。
そこで綿密に作戦を立てた上で、このような行動に出ます。

又右衛門はまず最大の強敵である河合甚左衛門めがけて突き進みます。
一方門弟の二人が、一人は桜井半兵衛に、もう一人がその槍持ちに当たり、槍持ちを斬って、槍が半兵衛の手に渡らないようにします。
そして渡辺数馬は、河合又五郎ただ一人に集中します。

作戦は見事成功しました。
荒木又右衛門は河合甚左衛門が馬の上にいるところを狙って足を切り、落馬した所を一発。
相手の機先を制して速攻で仕留めました。
門弟二人も無事槍持ちを倒し、桜井半兵衛と刀で勝負しているところに、又右衛門がかけつけて、これを倒しました。
なお、このとき河合武右衛門は斬られて命を落としています。

この頃には一行の他の面々は戦うどころか全員逃げ出しておりました。
つまり、荒木又右衛門が36人も斬りたくても、そこにはそんな人数はいなかったことになります。

最後は渡辺数馬と河合又五郎の勝負ですが、これは又右衛門も助ける訳にはいかないので、本人たちに任せておりました。
しかしどちらも真剣での勝負の経験がなく、ひたすら動き回るのみで、戦いは延々5時間にも及びました。

そして昼過ぎ、やっとのことで数馬の刀が又五郎の腕に当たり、傷を負わせました。
しかし二人とももう疲れ切って、ダウン寸前です。
そこでラチがあかないので、もうこの傷でいいことにし、又右衛門が数馬を抱きかかえて又五郎の胸に刀を突き刺しました。

最初の事件が起きてから、この鍵屋の辻で仇討ちで成就するまでの間に、池田藩は鳥取にお国変えになっていました。
そこで、渡辺数馬は荒木又右衛門ともども鳥取に行って新藩主に報告。
5年後に復職がかないました。

ところが、その復職のわずか16日後、寛永16年8月28日。
鳥取藩はなんと「荒木又右衛門の死亡を発表」しました。
これに関する詳細はいっさい明らかになっておらず、色々な憶測が飛んでいるようです。

一説では、又右衛門はどこか別の所、多分元の郡山に戻ったのだが、郡山に戻るための公式のうまい口実がないので、死んだことにして身柄を自由にしてあげたのではないか、ともいいます。

また、荒木又右衛門の死去は寛永20年9月24日という説があるようです。
それが本当なら、やはり寛永16年の「死亡」は鳥取藩からの除籍のようなものなのかも知れません。





キュリー夫人(1867-1934)
日本では「キュリー夫人」の名前で通っているマリー・キュリー(Marie Curie,ポーランド名マーニャ。
旧姓スクロドフスカ。
つまり誕生時はManya Sklodowska)は1867年11月7日20時44分、ポーランドのワルシャワに生まれました。
当時ワルシャワはロシアの支配下にありました。

マーニャはたいへん優秀な子供で中学時代には学業で金メダルをもらったりもしています。
しかし当時のロシアでは女性は大学に入学することを許されていなかったため、学校卒業後は家庭教師をしながら、若い人たちが集まって作った自主的な研究グループに所属して活動したりしていました。

1890年にパリに出た姉のボローニャが医師の資格を取得。
マーニャにもパリに出てくればよいと誘い、彼女は翌年24歳の時にパリに出てきて、1891年の11月彼女はパリ大学に入学することができました。
この頃から彼女はフランス風に「マリー」という名前を使い始めます。

1894頃研究上の問題で困っていた時に、そういうことならPierre Curieに聞いてみるといいと言われてピエールを訪問。
二人は急速に恋に落ちます。
この年実家の都合でマーニャはいったんワルシャワに戻るのですが、ピエールが早く戻ってきてと熱烈に要請、彼女はパリに戻って二人は結婚しました。
1897年には娘のイレーヌ(彼女も後にノーベル化学賞を受ける)が生まれました。

1894年に彼女がピエールに会いに行くきっかけとなった問題はその後の二人の研究により、放射性物質によるものであることが想像されてきました。
二人は共同でその物質の特定を進め、1898年その新しい放射性元素を特定することができました。
この年の7月18日にまずポロニウム(polonium)が発見され、次いで12月26日にラジウム(radium)が発見されました。
ポロニウムという名前は、マーニャの今は無き故国ポーランドにちなんで名付けられたものです。
二人はこの功績により、1903年一緒にノーベル物理学賞を受賞しました。

二人はこのポロニウムとラジウムについてもっとよく研究したいと思っていましたが、そのためにはそれらが含まれるピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)という物質が必要でした。
この時、オーストリアが二人の功績を祝福してこれを大量に提供してくれます。
おかげで二人は更に研究を続けることができました。

この時期二人は精力的にたくさんの論文を書いており、その中にはラジウム照射により腫瘍を殺すことができるという、現在のガンの放射線治療につながる論文などもあります。
1904年には次女のイブも生まれます。

フランス国内の頭の固いお偉方の学者の反発によりかなりいじめられていた二人も、さすがにノーベル賞の受賞以後は少しずつ矛先を収めてきます。
そして二人の研究は今後も順風満帆に進むかと思われていた1906年4月19日の午後。
ピエールが交通事故で急死するという事態が起きました。

しかし大学はマリーにピエールが就いていた幾つかのポジションの後任になって欲しいと要請します。
彼女はそれを承諾し、夫の死に涙をする暇もなく、小さな子供達の世話をしながら、更に精力的な研究を続けました。
そして1911年、彼女は二度目のノーベル賞(今度は化学賞)を受賞します。
前回受賞後のさまざまな放射性物質に関する研究が認められたわけですが一応名目的にはポロニウムとラジウムの分離に関することとされています。

ノーベル賞を複数回受賞した人は、何人かいますが彼女がその最初です。

彼女のこの大きな研究成果に感激した故郷ワルシャワの学会は彼女に適当なポジションを用意するので戻ってきてくれないかと打診します。
彼女も迷ったでしょうが、結局は夫が亡くなったこのパリの地を離れないことにしました。

彼女はその後も放射性物質を使った医療に関する研究、その他について研究を続けます。
その中で嬉しい報せもいくつかありました。
1918年にポーランドが独立を回復。
1921年にはアメリカが彼女に研究材料を提供するともにワシントンに招待。
マリーはその頃助手を務めるようになっていたイレーヌと共にアメリカに行きハーディング大統領から金の鍵をもらいました。
そのイレーヌは同じく助手を務めていたフレデリック・ジョリオットと1926年結婚します。

彼女は亡くなる直前まで研究を続けましたが、長い間放射性物質の研究をしていた故に避けられない長期間の被爆により白血病に犯されます。
そして1934年7月4日亡くなりました。

「自然科学を研究する人は自然の前で子供のような気持ちでいなければならない。目の前にある現象が自分の知っている様々なメカニズムの組み合わせに還元できると思うのは予断である」

彼女は生前そう語っています。






で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ





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