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11月04日 ユネスコ憲章記念日
花ノ名前 花ことば 誕生花として
コタニワタリ あなたは私の喜び・真実の慰み ○
サフラン 楽しみ・ひかえめな美・歓喜
過度を慎め・濫用するな ○
ムラサキシキブ 愛され上手・聡明な女性 ○
ルピナス(ノボリフジ)
あなたは私の安らぎ・空想・母性愛・貪欲○
∞…∞11月04日・今日という日 ∞…∞
福田亮太 (1987) タレント
村上三奈 (1982) タレント
モハメド・サルミーン (1980) サッカー
阿部哲子 (1978) アナウンサー
小谷美紗子 (1976) 歌手
玉田 誠 (1976) バイクライダー
山本未来 (1974) 女優
岡田秀樹 (1974) 俳優
イシマルカズユキ (1973) SNAIL RAMP、Dr.
ルイス・フィーゴ (1972) サッカー
メルビン・バンチ (1971) 野球
松井 愛 (1970) アナウンサー
池津祥子 (1969) 女優
出山知樹 (1969) アナウンサー
名倉 潤 (1968) タレント、ネプチューン
後藤圭二 (1968) アニメーター
〆さばアタル (雨空トッポ) (1968) 漫才師
浅倉大介 (1967) 音楽プロデューサー、access
ジョン・B・チョッパー (黒田利博) (1967) ウルフルズ、Bass
中山裕章 (1967) 野球
PATA (1965) 元 X JAPAN、G.
Will (平山晃哉) (1965) Will Calll、元 野猿、装飾
水谷優子 (1964) 声優
高杉 亘 (1964) 俳優
NOKKO (1963) 歌手、レベッカ
菊田あや子 (1959) レポーター
永井龍雲 (1957) シンガーソングライター
アレクサンドル・トカチェフ (1957) 体操
荒川太郎 (1956) 声優
清水秀彦 (1954) サッカー
会田我路 (1949) 写真家
西田敏行 (1947) 俳優
横光克彦 (1943) 俳優、政治家
森 瑶子 (1940) 作家
宮田征典 (1939) 野球
池内淳子 (1933) 女優
志生野温夫 (1932) アナウンサー
二川幸夫 (1932) 写真家
小松方正 (1926) 俳優
武智文雄 (1926) 野球
岩本博行 (1913) 建築家
上村松篁 (1902) 画家
泉 鏡花 (1873) 作家
大石誠之助 (1867) 社会主義者、医師
有馬新七 (1825) 武士
鳥山芝軒 (1655) 儒学者
隠元 (1592) 僧侶
○ 「安政東海大地震発生(1854)
○ 明治の平民宰相、原敬が東京駅で刺殺される(1921)
○ 東大闘争で学部長軟禁(1968)
○ 日中国交回復の証、パンダの贈呈式(1972)
○ 米のスパイ活動を非難し、イラン学生が米大使館占拠(1979)
○ 米大統領選でレーガン当選(1980)
○ 巨人軍の王貞治選手、現役を引退(1980)
ユネスコ憲章記念日
1946(昭和21)年、国連の専門機関の一つユネスコ(国連教育科学文化機関=United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)が発足した。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」という言葉で始まる「ユネスコ憲章」が、この日から発効したことを記念して制定された日。
ユネスコ憲章が発効し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が発足。
日本は1951(昭和26)年7月2日に加盟。
聖徒の日(11月第1日曜日)
国旗の日(パナマ)
徳川家定将軍就任(1853)
世は幕末です。
アメリカのペリーが嘉永6年6月3日(1853.7.8)浦賀に来航し日本に開国を迫りました。
しかし将軍・徳川家慶は病床にあり何の判断も下せません。
全てを取り仕切ったのは若き筆頭老中・阿部正弘でした。
同9日とにかくアメリカ大統領の国書だけ受け取ってペリーを返します。
阿部はただちにアメリカ対策に奔走し始めますが、将軍は同22日死去しました。
幕府始まって以来の重大事に強力な将軍の就任が望まれ、その最有力候補として、水戸の徳川斉昭(なりあき)の七男で一橋家を継いでいた徳川慶喜が期待されました。
しかし家慶にも男の子がいます。
後嗣問題はもめにもめた末、結局水戸家を嫌う勢力の意見が通って、家慶の第4子・家定が11月4日将軍に就任することになりました。
この重大時に5ヶ月もの間将軍を空席にしたというのはとんでもないことです。
徳川家というのは事実上11代将軍の家斉で終わっています。
12代の家慶は人間としてはまともでも政治的な力はほとんどありませんでした。
政治は水野忠邦が行っています。
そしてこの家定は政治的に無能という段階を超越して、人間的にもかなり問題のある人だったようです。
家定が何の決断もできないまま、翌嘉永7年1月16日ペリーは横浜の金沢沖に再来航します。
阿部が(将軍は話にもならないので)徳川斉昭とも相談しながらペリー側と交渉を重ね、3月3日、日米和親条約が締結されました。
そして安政3年(1856)7月21日には初代日本総領事タウンゼント・ハリスが来日、下田の玉泉寺を総領事館として、幕府とねばり強い交渉を重ね、翌4年潤5月5日日米協約9ヶ条(下田条約)、その翌5年6月19日には日米修好通商条約に調印することになります。
そしてこの間先頭にたって各方面の調整をしていた阿部老中が安政4年6月17日江戸城内で執務中に急逝。
極度の過労から来た心不全ではないかと推測されます。
まだ39歳の若さでした。
阿部の後を引き継いだのは堀田正睦ですが、彼はここに来て突然発言力を持つようになった朝廷との交渉に苦労します。
結局朝廷が条約を結んではいけないという時代錯誤の勅をするのに反して日米修好通商条約締結を断行。
そして責任を取って6月23日辞任。
そしてその後を引き継いだのが大老・井伊直弼で、安政の大獄を始めます。
そして家定は将軍の責にはあったものの政治の表舞台には何の顔も足さないまま(ハリスとの謁見を行ったくらい)、安政5年7月4日34歳の若さで亡くなりました。
死因はコレラと伝えられています。
この家定には男の子がいなかったため、後継将軍として今度こそ徳川慶喜が有力視されていたのですが、大老井伊直弼は紀州の徳川慶福を強力に推し、結局慶福が家茂と名を改めて12月1日、14代将軍に就任します。
(ここでも長期間の将軍空位ができています)
なお、家定の正室は島津敬子(すみこ,天璋院,篤姫,島津忠剛の娘,島津斉彬の養女,近衛忠熙の養女)で、安政3年12月に結婚していますが、二人の間には子供は生まれていません。
薩摩藩は西郷隆盛が連絡役となって敬子を通して家定に徳川慶喜を後嗣に指名してくれるよう働きかけましたが、なにしろまともではない将軍なので努力は報われなかったようです。
家慶のあとにすぐ徳川慶喜が就任していれば、江戸幕府の寿命はあと30年くらいは伸びて、日本は孝明天皇・徳川慶喜の二頭体制により文明開化・富国強兵政策を採ることになっていたかも知れません。
どちらが良かったのかはなんとも言えないところです。
で〜〜〜す。よろしく(^ー゚)ノ
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