小金牧・松戸・五香周辺の歴史    ホーム

 下総牧は、海抜20〜40メートルぐらいです。

 下総での馬牧は古い時代からだという。房総半島には、一千年以上前から広大な馬の放牧地があった。

 下総の国には、高津馬牧・大結馬牧・本島馬牧・長洲馬僕・浮島馬牧などがあった。

 承平5年(935)から5年にわたって下総国で平将門の乱では、下総牧の野馬が、将門の戦力となった。
旧相馬藩領(2市6町1村)挙げて行われる国の重要無形民俗文化財である相馬野馬追は、相馬藩の始祖である平将門が原野に放してあった野馬を捕らえる軍事訓練と、捕らえた馬を神前に奉納したことに由来します。
この、原野に放してあった野馬を捕た所が、下総牧の野馬だったのです。

 平安時代には、今の市川市国分付近に下総(しもうさ)国の国府が置かれ、ここから常陸へ向かう官道が松戸に通っていました。

 鎌倉時代の下総国は、源頼朝の挙兵に功績があった千葉常胤(ちばつねたね)が守護に任ぜられ、一族が各地に広まりました。

 戦国時代になると、千葉氏の一族から出た高城氏が大谷口に金城を築き、東葛飾地方一帯を支配していました。

 江戸時代になると幕府直轄の軍馬を養成する牧となり、小金五牧佐倉七牧、安房の嶺岡牧(安房)の三カ所に分布していた。

 幕府が水戸街道を整備すると、松戸と小金は宿場町として繁栄します。現在の松戸郵便局の辺りには、大名の宿泊施設である本陣や脇本陣、一般人の宿である旅篭(はたご)が軒を並べていました。

 片桐旦元が駿府へ赴いた、冬の陣の頃には、小金牧・佐倉牧・嶺岡牧の牧制が確立された。広大な牧野は、幕府の管理下となり一般の居住が排除されていました。

 小金牧は、上野牧20km×8km馬数300野馬の捕え場所 篠籠田(柏市)、お囲い場 高田台に馬450頭。中野牧12km×8km馬数300野馬の捕え場所 中沢(鎌ヶ谷市)、お囲い場 金ヶ作(常盤平)に馬300頭。下野牧20km×4km馬数300鎌ヶ谷、神保に30頭。大青田牧(高田牧)4km×4km馬数300大青田(柏市)。印西牧4km×4km馬数150平塚(白井町)。(下総旧事項より)

 江戸時代中期には、庄内牧(野田市)・高田台牧(柏市)・中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)・下総牧(鎌ヶ谷市・船橋市)・五本橋牧(鎌ヶ谷市)・印西牧(印西市)の6牧であった。中野牧は野馬捕りの他、将軍の鹿狩りや水戸家の鷹狩りの場にも供された。

  松飛台では、 八代将軍吉宗、十一代将軍家斎、 十二代将軍家慶 が鹿狩りをした所だそうです、鹿826頭、猪5頭、狼1頭を捕らえたと記録があります。(「21世紀の森」にある博物館に、その時の模様を描いた絵図が展示してあります。)

 中野牧は現在の常盤平団地を中心に五香、六実、松飛台、初富(鎌ケ谷市)、高塚新田に及んだ。

 幕末には、小金牧の総面積15,000ha、野馬土手の延長は150kmであった。小金牧全体で野馬は、およそ三千頭から五千頭ぐらいはいた。

 流山市教育委員会作成の説明文によると、野馬土手は、一般的には「野馬除土手」とも「野馬堀」ともいわれており、野馬が牧外に出ては、民家に侵入したため、田畑の作物を荒らすのを防ぐために作られたもので、土手の部分と堀の部分から成っている。
 土手の高さは約二メートルから三メートル位、堀はV字型に掘られ深さは二メートルないし三メートル、幅は上部で約三メートルほどあり、低い土手と高い土手の二重に作られたものが多く、低い土手は馬の脚を痛めないようになだらかになっている。下総台地一帯の牧は、船橋方面から野田方面にかけて広がり、土手は谷に沿い林を横切り、人家を囲うようにして走り、それはまるで小型の、万里の長城のようなものであった。
 今日、旧牧場の周りには、新田・木戸・駒形・突柵・馬込・馬渡・牧内などの地名が残っている。

 小金牧の中野牧は、全牧場とも整備されており、金ヶ作五香・六実・元山・常盤平・松飛台・八柱霊園・串崎新田・初富などの広大な地域で、常盤平地区は、谷地と野馬除土手とで囲った「お囲い場」といわれた地区で優良なめす馬を50頭ほど入れ、春には種馬お入れて馬匹の改良をはかった。

 小金牧では、野馬を定3才おすの優良馬は牧ごとに2頭を幕府へ、他は牧士や民間ヘ払い下げた。これを捕込(トッコメ)と呼び、画いた絵馬(上野牧捕込)が幸谷の福昌寺の観音堂にある(中野牧の捕込は鎌ヶ谷市初富)。

 「総常日記」という本には、小金原の馬の「捕込」の様子が出ている。

 小金牧の最北端は庄内牧(野田市域の牧)にあたります。中里愛宕神社の野馬除感恩塔には「石見守 寛政十一末(1799)十二月吉日 御野馬内入不仕民祝 中里惣村中」と刻まれています。

 「金ヶ作(かねがさく)」は江戸時代以降の村名である。作は柵や土手を意味し、御囲場(おかこいば)とも呼ばれて周囲を野馬除土手が囲んでいたという。

 牧の中には御囲(おかこい)、突柵(くぐりませ)、駒形、野見塚などの字名がある。五香十字路付近の立体交差点あたりは、昔は小金名主五助が支配した木戸跡で「五助木戸」と呼ばれた。昔も交通の要衝で、鮮魚(なま)街道も木戸を通過した。常盤平団地入口(ケヤキ通り)の「子和清水(こわしみず)」には、親が飲めば古酒(うまざけ)だが子が飲めばただの清水という養老伝説に似た話があるが、この湧水は鮮魚街道の水切場や野馬の水呑場でもあった。


 「元山(もとやま)」はくぬぎ山同様に小金牧特産物の木炭の植林地域であった。


 「大日本農史」によると、下総牧の開墾計画が立てられ、正式に決まったのは、明治2年3月10日に東京府への行政命令によってされました。それは、「このたび戸籍改正の命令が出、貧しい人々を居住させ開墾労働に用いる事とし、管轄は東京府で最も適当な処置をする様指示する。ただし場所については、葛飾県と打合せを行うこと」と言うものでした。この開墾に実際参加した人は、主に幕府の応援をした各藩の諸大名の家来たちや、その次男・三男たちであった。

 その年(明治2年)に下総国諸牧の開墾(今日の三井物産(旧三井財閥)の祖である三井組(三井八郎衛門)が新政府の要請により)を許し、
5年までに漸次成功したので地積を分けて村名を定めた。そこで葛飾郡に12ヶ村(初富・二和・三咲・豊四季・五香・六実・七栄・八街・十倉・十余一・十余二・十余三)を設けたとある。

 この開拓が直接的に戸籍法制定、そして明治5年の”壬申戸籍”作成の事をさしています。
そこで準備期間に、これまで無籍無産の者を職につけ、戸籍を得させようとした。明治2年10月15日開墾志望者募集要項が、交付されました。

 「利根川図志」には、小金とは、上野・中野・下野の3牧をいい、佐倉の7牧・印西牧とともに11牧の中に含まれる。3牧の長は、綿貫氏で、小金宿に住んでいたので、小金牧と総称した。

 この開墾は、二和・三咲=上牧 初富・五香・六実=中牧 豊四季・十余二=下牧 が村名になった。

 窮民や職を失った旧幕臣を救済すべく開墾された。開墾地は入植順に、

 初富(はつとみ)中野牧(鎌ヶ谷市)
 二和(ふたわ)中野牧(船橋市)
 三咲(みさき)中野牧(船橋市)
 豊四季(とよしき)上野牧(柏市)四季を通して豊かな実りを願望し
 五香ごこう中野牧(松戸市)香り高く、実り豊かな土地 明治2
 六実むつみ)中野牧(松戸市)
 七栄(ななえ)内野牧(富里村)
 八街(やちまた)の地名が明治5年11月2日 柳沢牧(八街町)
 九美上(くみあげ)油田牧(佐原市)
 十倉(とくら)高野牧(富里村)
 十余一(とよひと)印西牧(白井市)
 十余二(とよふた)高田台牧(柏市)十二分の発展を未来にかけて
 十余三(とよみつ)矢作牧(大栄町)

と名付けられた。


見所
旧花野井家     野馬除土手

秀覚寺     鎌ヶ谷市郷土資料館 

六実にある高お神社境内には、開墾百年記念碑と史跡香実会所跡の石碑が建っています。

●東深井古墳群(流山市)
 古墳時代の終末期(6〜7世紀)につくられた14基の群集墳であり、現在、前方後円墳1基、円墳13基が残っている。人物や馬、鶏、珍しい魚などの埴輪が出土。14の古墳をめぐる緑多い林の散歩道が魅力です。
 隣接している公園内には、北部市民プール・森の図書館などの公共施設もあり、憩いの場ともなっています。
◇交通:東武野田線運河駅徒歩22分
 ◇お問い合わせ◇  
  流山市観光協会 事務局 流山市商工課内  
  TEL 0471-50-6085  FAX 0471-58-5840





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