五香周辺の歴史 ホーム
房総とは
かつて麻が良く取れることから総(ふさ)の国と名づけられ、
都に近い所を上総国、
遠い所を下総国と呼ぶようになりました(昔は、船の方が陸路より発達しており、船の方が早く都(鎌倉や京都)に着く為、
上総の方が江戸に近いと考えられた)。
さらに南方には安房の国があり、この3つの国の総称として「房総」と呼ばれるようになりました。
(総国は、現在の千葉県
(市川市、船橋市、千葉市、柏市、八千代市、松戸市、野田市、成田市、銚子市など)、
茨城県南西部の一部、
埼玉県東部の一部と、
東京都西部の一部の地域です。
関東平野の東部、房総半島と利根川
下流(小貝川)の
流域、
江戸川(中川)の流域の地域で、
北は常陸国、
西は武蔵国
に接しています。
この地域は、古くは「総(ふさ)」といい、7世紀後半の令制国の建置にともなつて上総(かずさ)国と
下総(しもうさ)国が成立し、
のちに養老2(718)年に上総国から4郡が分かれて
安房国が成立しました(天平13(741)年から天平宝字1
(757)年まで上総国に併合)。)
関東ローム層
下総台地には、繰り返し爆発する箱根方面や富士山の、火山灰が堆積(関東ローム層=赤土)しています。
約3万年前から始まリ、この層の中から鹿などの、動物を狩猟する槍などが見つかっています。
房総に人類の営みが始められたのは、かなり古い時代からで、 松戸市子和清水 や市川市丸山には旧石器時代の遺跡があり、ナウマンゾウやオオツノジカ等を食料としていたようです。
この時代の遺跡は印旛沼・手賀沼周辺や房総の北西部に多くありますが、 これは大型獣が湿地の草原に住んでいたためと考えられています。
昭和59年に佐倉市の岩富遺跡から「船底型細石刃(狩猟の道具で槍の先につけるもの)」が出土しましたそうです。
この形は2種類に分けられ、 北海道、東北地方に多い「船底型」と千葉県以西に見られる「円錐型」です。
「船底型」は茨城県勝田市が南限とされていましたが、佐倉市で発見されたことにより、
房総が東西文化の接点であったことがわかります。
地形の変化
地殻の変動や気温の変化によって、東京湾も大きく変わリ、今から約2万年前は、
ヴュルム氷期の最後の最盛期に、各地で大規模な氷河が発達したため海水面は今より100m以上も低下し、
東京湾は陸化していました。
縄文時代がはじまる約1万年前を境に、気温は上昇し氷河が溶けると海面の上昇がはじまり、約5000年前になると海面が現在より3〜5mほど高くなり、東京湾はもっとも内陸に入り込みました。
現在の浦安市、江東区、江戸川区、墨田区、台東区あたりは完全に水没していました。
約3000年前になると、気象は現代に近くなり、 河川が運ぶ土砂によって海岸線は後退し、 東京湾は現在とほとんど変らなくります。
貝の宝庫
房総では、今から約30万年〜10万年前(洪積世)の貝化石が各地で発見されています(当時の貝が堆積した海底が、 長い間に隆起したもの)。
また約1万年前(沖積世)の海底にたまった貝も、田んぼの下などから発掘されて、人が住む以前から東京湾は貝の繁殖に適しており、貝の宝庫であったことがわかります。
この海の幸を求めて人が集まってきたと考えられます。
日本の夜明け
日本建国について何も(誰も)知らないのです。どこの国の人でも自分の国の建国についておおよその知識は持っています。
「日本が建国したのはいつですか?」という問いに答えられる人はいないと言っても良いのではないでしょうか。
縄文時代は日本という国家誕生以前の話しで、アメリカに例えれば先住インディアンの時代といったとこで、まだ「日本」という国はないので「日本の歴史」とは言えないかもしれません。
房総は「東国」に位置し、中央(大和朝廷)からは「蝦夷(エミシ)」と呼ばれ蔑まれていましたが、東国が「未開の野蛮人の国」だったわけではなく、中央に服従しない者は悪く言われ、「蝦夷」は中央側からの呼び名なのです。
東国は、弥生人による西からの圧力に抵抗し続けた縄文人が多く居住しており、近年、青森県の三内丸山遺跡の発掘でも縄文時代が高い文化を持った時代であったことがわかってきました。
東国や縄文時代を見直す気運が高まっています。
地理的位置付け
房総半島は南西諸島を除く日本列島のほぼ中心にあたり、地理的には3方を海に囲まれた半島であるために、袋小路的で閉鎖的な土地柄に思うかもしれませんが、陸上交通中心の見方によるもので、陸上の整備がされていない古代であればあるほど海流による外来文化渡来の玄関となり、
開かれた場所ということになります。
現在の利根川下流、霞ヶ浦、北浦、水郷、印旛沼、手賀沼など、多くの湖沼は中世頃までひとまとまりの広大な内海で、 「香取の海」と呼ばれており、『常陸国風土記』によると、太平洋など外海を「大海」と呼ぶのに対し、この水域を「流海(ながれうみ)」と表記しています。
房総は3方が海で、残る北方も多くが香取の海であり、むしろ「島」に近いと言えます。
また、利根川は現在のように我孫子、佐原、銚子を抜けるルートではなく、 関宿からまっすぐ南下する現在の江戸川のラインを通っており、古代利根川と香取の海から常陸川を上った場所が関宿で、古くから関宿は交通の要衝でした。
縄文時代
長い氷河期が終わった縄文時代は温暖な時代で、平均で現在より気温は2度ほど高く、植物や動物の楽園となり、人間にとっても楽園であり、豊富な食料(獣、魚、木の実等)が確保出来、安定した生活がおくれました。
特に東日本一帯(中部〜関東、東北)が縄文時代の中心地になり、東日本を覆っていた森林に関係があります。
平野こそ人口密度が高いように思われがちですが、この時代、川の氾濫は大きな問題で、 利根川をはじめとする大河流域は危険地帯で、利根川、手賀沼、印旛沼は一つの海で、周辺にも湿地帯が多くあり、しょっちゅう洪水となる大河の側は定住には向いていません。
広大な関東平野のあちこちが湿地帯でした(渡良瀬遊水地のように)。
しかし房総は全般的に湧き水が多く台地状になっているところが多いため、大変住みやすい土地柄で、人口密度はきわめて高く、日本列島でも有数の人口をほこっていました。
神崎町西之城貝塚では日本最古の土器が出土しています。
千葉市若葉区の 加曽利貝塚
には縄文時代の人々が捨てたたくさんの貝殻の塚が残っています。
当時はこの付近まで海岸がせまっていたと思われます。
現在より海岸線が内側に入っており、これを縄文海進と呼んでいます。
縄文時代の貝塚は全国に分布し、約1500か所を数えます。
おもに島原湾、伊勢湾、東京湾、松島湾などの太平洋沿岸に発達し、なぜか日本海沿岸には極めて少ないのです。
中でも関東地方には、約1000か所が集中し、特に東京湾沿岸には約600か所が密集しています。
しかも、この地方には大型貝塚を伴なう遺跡が最も数多く分布し、
当時いかに東京湾沿岸で貝が採られていたかよくわかります。
貝塚にみる縄文人の生活
千葉市稲毛区小仲台にある鳥込東遺跡からは約7000年前の小さな穴の中で焚火をした跡(炉穴)が 160個も発見され、時期ごとに何度も掘りなおしたものと思われ、おそらく季節ごとに獣を追いキャンプをした跡と思われます。
約4000〜3000年前(縄文後期)になると、遺跡の規模はかなり大きくなり、大型貝塚を伴う遺跡も縄文後期のものがもっとも大規模となり、この時期が貝塚文化の最盛期であったことを物語っています。
遺跡数の大多数を占めている貝塚を伴わない集落や小型貝塚を伴う集落は比較的短期間で移動しているのに、 大型貝塚を伴う遺跡は長期に存続するものが多く、市川市の姥山貝塚は他の大型貝塚と似たの馬蹄形をなすタイプで、中央には住居跡もなく、貝も捨てられていません。
この中央広場は貝塚の形成と直接関係があり、集落における大型貝塚の存在意義を解く重要な鍵となります。
千葉県には石材があまりありませんが、同じ「石なし県」にありながら一方では加曽利貝塚のように、 石鏃もその原石や破片も乏しいのに獣の骨が豊富に出土するむらがあり、他方、
船橋市高根木戸貝塚などのように獣の骨は少ないのに製品も石材も大量に出土する村もありました。
石材の乏しい地域だけに、原石をとり寄せて、もっぱら石器を加工する村と、
その製品をとり寄せて消費する村とが共存していたことを物語っています。
縄文中期の貯蔵用土器には、グロテスクな顔やヘビなどを内側に向けて彫刻したものが多く発見されていて、この土器の中には、村人たちにとって大事な食糧やトリカブトなどの毒汁が貯えてあって、
盗み食いをしたり手に触れたりするのを禁じていたものとされています。
貝塚には、偶然貝殻の下になった獣や鳥の骨だけが貝のカルシウムのため保存されて、骨の量は実際はもっと多かったと思われます。
食べられた肉の量は貝の身などよりはるかに多いと考えられて、捕らえられた獣の中ではイノシシとシカが最も多い。これはおもに陥し穴などの集団狩猟によって捕らえたと思われます。
土を焼いてつくった人形(土偶)は、中期から後・晩期にかけて次第に多くなり、全て女性をかたどり、腹部が大きく妊娠を表わして、当時の女性は、妊娠すると自分の身代りとしてこの人形を作り安産を祈り、無事に生まれると叩き割ります。
流産や死産の場合はこの人形をそのまま土の中に埋めて、再び子宝が授かるように祈ります。
稲作文化
弥生時代になっても東日本は大きな変化を見せませんが、西日本では稲作が盛んになり、大陸や朝鮮半島からの渡来人による新しい文化が浸透し、一気に弥生化が進んでいきました。
東日本がすぐに弥生化しなかった理由は、それだけ住みやすい土地だったのです。
南関東で弥生式の農耕社会が形成されたのは宮ノ台式土器の時期で、1世紀頃にあたり、房総の古代文化は俗に「黒潮文化」と呼ばれ、黒潮に乗って南西日本からの文化が流入するからです。
再葬墓
南関東には再葬墓の風習があり、遺体を仮埋葬し、白骨化した骨だけを納骨用の土器に収納した埋める風習で、稲作とともに方形周溝墓が普及し、再葬墓の風習はなくなります。
環濠集落
稲作の時代に入るとムラは大規模な環濠集落に変わり、佐賀の吉野ヶ里遺跡が有名ですが、房総では佐倉市の六崎大崎台遺跡があります。
直径140mに及ぶ濠で囲まれた集落には153軒の住居跡が見つかっていおり、谷を隔てた西側に43基の方形周溝墓(寺崎向原遺跡)があり、計画的にムラづくりが行われたことがわかります。
環濠集落や方形周溝墓は台地にありますが、周辺の低地には水田が広がっていたと思われます。
千葉のヒスイ
ヒスイの原産地といえば新潟県の姫川ですが、300km以上も離れた東葛飾地区にも原石が持ち込まれ、 玉づくりが行われ、ヒスイは硬く、加工が容易ではないためその技術がどのように伝えられたのでしょうか?
(流山市三輪野山遺跡)
安房と総の国
四国の阿波(大昔は伊予と阿波しかなかった)の宮から忌部氏を率いた天富命(アメノトミノミコト)が房総半島に移り、
この地で麻の栽培に成功、「総(ふさ)の国」とし、忌部氏の居住地に同じ「あわ」という名をつけました。
なお、安房神社は忌部氏の祖である天太玉命を祀っています。
総の国は後に上総と下総、さらには安房の3国に分かれますが、南部が上総、北部が下総であることからも、
西国からの移住や開拓が黒潮に乗って海岸部から始まり、都に近いと認識されていたことがわかります。
また「房」も「総」も、「麻」と「総」の関連を示す他の史料はありませんが、ともに花や実などが茎や枝にむらがりつき、 垂れ下がる状態を示す古語「ふさ」に当てる字で、麻や粟などの産物の豊かな地を示しているか、豊作を祈っての国名とも考えられ、
四国の「阿波」も元々は「粟」から来ているのかもしれません。
ヤマトタケル
『古事記』や『日本書紀』の神話にヤマトタケルノミコトの活躍の話しがありますが、ヤマトタケルは景行天皇の子で、大和に従わない九州のクマソタケルや出雲のイヅモタケルを討つ英雄伝で、このあと、ヤマトタケルは東国遠征に向かいます。
東国遠征の目的は、やはり大和に従わない蝦夷(エミシ)、土蜘蛛(ツチグモ)を従わせるためで、両者ともひどいネーミングですが、大和側には面白くない存在の縄文系種族でしょう。
九州のクマソ等はこの後比較的早く大和の傘下に入りますが、東国は10世紀になるまで完全に配下に入ったとは言えないでしょう。
走水の海
ヤマトタケルは駿河から相模に入り、三浦半島から船で房総半島に渡り、ルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国です。
房総半島への渡り道、走水の海は流れが早いことからつけられた名で今の浦賀水道です。
一向は走水の海で激しい嵐に見舞われ、海神の怒りをしずめるために、ヤマトタケル最愛の弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水して難を逃れます。
『古事記』では海に畳をひいたとあり、神聖視していたことが伺え、姫が入水するとそれまでの嵐が嘘のように静かにおさまり、海岸には姫のクシが流れついたといい、古代、クシには魂が宿ると言われています。
流れついた弟橘姫の衣を納めて建立した吾妻神社があります(木更津市)。
「吾妻」も、ヤマトタケルが蝦夷から帰る途中、懐かしい走水の海が見えた時に「あ(我が)妻はや」と言ったからとされています。
君さらず、袖しが浦に立つ波
「君さらず袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき」房総に渡ったヤマトタケルノミコトが弟橘姫を偲んでうたったもので、その場所は現在、太田山公園(右写真は2人の像が向かい合うきみさらずタワー)になっていて、「木更津」「袖ヶ浦」の地名はここから来ていると言われています。
タチバナは霊果とされる樹木で『日本書紀』の垂仁紀では永遠不変、 不老長寿の国とされる常世国にタヂマモリを遣わしその果実を探す伝承があり、そのタチバナを名前に持つ女性なので、巫女的性格が強かったと推定されます。
国造
5世紀頃には大和朝廷の勢力が地方に及ぶようになり、 その地域を治めていた豪族がその後あらためて正当な支配者として任命され、これが国造(くにのみやつこ)です。
房総には11の国造が置かれていたとされて、 『旧事本紀』によると、阿波、長挟、須恵、馬来田(まくた)、上海上(かみつうなかみ)、 菊間(くくま)、伊甚(いじみ)、武社(むさ)、下海上、印波、千葉です。この時期の古墳に埋葬された人はこのような身分の人が多かったと思われます。
上海上と下海上の間に武社があることから、武社は両海上のどちらかから独立したものと思われ、
少なくとも国造設置に2段階あったことが想像できます。
豪族
環濠集落の中に作られていた支配者の館は一般の集落からとび出して濠や柵をめぐらせた館、 すなわち豪族居館となり、一方、支配される人々の村は濠を巡らすことはなくなります。
これは自分たちで護っていた弥生時代と違い、古墳時代にはその必要がなくなったからです。
豪族は血のつながりのある一族とこれに従う人々でまとまって、これを「氏」と称し、その頭は「氏の上(かみ)」と呼ばれ、一族は「氏人(うじびと)」と言われていました。
氏の上に支配されている人々を「部民(べみん/べのたみ)」と呼び、
この中でも朝廷に直属する部民は「品部(ともべ)」と言います。
一方、豪族や神社に属する部民を「部曲(かきべ)」と言います。
品部は職業を専業化されており、その種類は非常に多く、例えば土師部(はじべ)、
玉造部(たまつくりべ)、矢作部(やはぎべ)、鍛冶部(かぬちべ)、
服部(はとりべ)、舟木部(ふなきべ)等がありました。
現在の千葉市の矢作町や矢作部の住んでいたところと伝えられ、
園生(そんのう)町は園部(そのべ)が住んでいたところと推定されます。
古墳から寺院へ
6世紀末になると前方後円墳は一斉に造られなくなり、何らかの体制の変化と思われます。
代わりに、千葉県駄ノ塚古墳等の大円墳が造られ、微妙な違いが見られ、これは関わりを持つ近畿の有力豪族との結びつきによるものでしょうか。
方墳、円墳も7世紀末には造られなくなり、 変わって仏教寺院が建立されるようになります。
龍角寺古墳群にある浅間山古墳は墳丘長が78mの前方後円墳で、全国的に見ても最後の大型前方後円墳で、 この直後に作られたのが岩屋古墳で、一辺78m、高さ13.2mの方墳です。7世紀前半の推古陵よりも大きく、
終末期の方墳としては全国最大級です。
大化の改新
大化の改新で中央集権が本格化すると11の国造は廃止されて、上総、下総の2国に分けられ国府が置かれ、 後に上総国から安房国が分離しまし、国使を派遣し、人口調査や校田を実施、房総にはミコトモチという使者が遣わされました。
670年、庚午年籍という戸籍が作成され、689年には浄御原令の戸令に基づき庚寅年籍が作られ、原史料は現存していませんが、浄御原令の時代の藤原京で「己亥年十月上挟(かずさ)国阿波評松里」という木簡が出土しています。
上総国安房郡で、己亥年は699年です。
古代から、東海道は相模-上総-下総-常陸のルートであったため、房総には中央からの文化活気がもたらされ、内湾に面した小糸川、小櫃川、養老川流域は中央文化移入の窓口として早くから開けていました。
この時代では、壬申の乱に敗れた近江朝の大友皇子の落去伝説が語り伝えられています。
大宝令が完成すると国郡里という地方行政組織が出来、国には国司が政務をとる国庁と国府、郡には郡家が設置され、上総国府は現在の市原市に、下総国府は市川市国府台に、安房国府は三芳村府中にありました。
国分寺・国分尼寺
白鳳時代には寺院の建設が全国的に広がり、奈良・平安時代へと受け継がれ、千葉の古代寺院跡は40数カ所確認され、伽藍配置、瓦の文様などから建設年代やその後の変遷を知ることが出来、下総・上総・安房でも系統の違いが見られ地域色があります。
8世紀には聖武天皇の勅により上総、下総に国分寺、国分尼寺が建てられ、遅れて安房国分寺も建立され、下総国分寺は市川市国分町、上総国分寺は市原市惣社、安房国分寺は館山市国分にありました。
龍角寺
岩屋古墳の近くにある龍角寺は東日本で最も古い寺院ですが、現在は金堂と塔の礎石跡等を残すだけになって、岩屋古墳を築いた印旛地方の豪族が畿内の有力者と結びつき、仏教をいち早く取り入れ、
その勢力を広げるために一族の寺を建てたものです。
塔跡の北西に瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字瓦が出土し、五斗蒔瓦窯跡でも文字瓦は大量に出土しており、「朝布」「赤加真」「玉作」などで、絵模様も含めると1800点を数えます。
龍角寺の創建時期は7世紀後半で、640年代〜670年代と思われ、大化の改新直後にあたり、 東国への寺院普及は早かったといえます。
龍角寺は、大化の改新後に右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂が建立した山田寺と関係し、山田寺式の瓦が葺かれており、 伽藍配置は法起寺式とされています。
印波国造
下総地方には下海上国造と印波国造がおり、古墳の分布を見ると、下海上国造代々の墓は小見川古墳群 にあり、印波国造代々の墓は龍角寺古墳群の浅間山古墳・岩屋古墳、公津原古墳群の瓢塚古墳・天王塚古墳・舟塚古墳などであったと推定され、これらの古墳の形態からみて古い順に並べると瓢塚、 天王塚、浅間山、舟塚、岩屋となり、印波国造の地位は公津原古墳群の勢力と龍角寺古墳群の勢力との間で交互に継承され、 世襲化されていなかったと考えられます。
印波国造を支えていたのは古墳を築造した 小豪族や有力農民たちですが、7世紀には豪族ばかりでなく、有力農民にも古墳を作る力がありました。
「千葉」の由来
「千葉」という地名の由来は、 「多くの葉が繁茂する」の意で、たくさんの草木が生い茂る原野だったからとも、繁栄を願っての地名だともいわれ、『古事記』『日本書紀』では応神天皇が大和から近江に向かう途中、
山城の宇治野の上から葛野をのぞんでの国見の歌に「千葉」という言葉が出てきます。
葛の葉がよく繁茂することから葛の枕詞として用いられたのではないかといわれ、『万葉集』では、天平勝宝7年(755年)、下総国千葉郡出身の防人・大田部足人の讀んだ、
「千葉の野の児(この)手柏の含(ほほ)まれどあやにかなしみ置きて高来ぬ」 (千葉の野の児手柏の葉が開ききっていないように、若くあどけない彼女が何とも痛々しく、
手もふれずはるばるやって来た)が最も古い「千葉」の名だと思われます。
真間と遊女
宮廷歌人の山部赤人が東国に旅に出て下総国府と駅家に寄った際、 伝説的な娘子「勝鹿(葛飾)の真間の娘子」の墓を見ようとしたことが『万葉集』にあり、「古にありけむ人の倭文機(しつはた)の帯解き交へて廬屋(ふせや)立て 妻問ひしけむ葛飾の真間の手児名(てごな)が奥つきを、
こことは聞けど真木の葉や茂りたるらむ松が根や遠く久しき言のみも名のみ我は忘らゆましじ」という歌です。
「帯解き交へて」とあるので、多くの男が手児名と性愛の機会を持ったと思われ、真間は崖を意味する「まま」のことで、国府台台地の崖線がこれだと思われます。
手児名という美女は赤人以外にも『高橋虫麻呂歌集』で出てき、複数の男が争った美貌の持ち主で『高橋虫麻呂歌集』によると、そのために入水したようです。
手児名は遊行女婦説もありますが、よくわかりませんが、遊行女婦は「うかれめ」とも呼び、国府周辺にいる職能的集団で、国司が開く宴等で歌舞を行ったりし、中には『万葉集』に歌を残した教養のある女性もいました。
宴の後、参加した官人と性的関係を持つことも少なくなく、 『高橋虫麻呂歌集』に出てくる上総の末(周淮郡)の珠名娘子も遊行女婦だと思われ、この遊行女婦が後の遊女に変化していくとされています。
駅と交通
8世紀には東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道が整備されて、30里(約16キロ)ごとに駅家が置かれ、駅鈴を所持した駅使と呼ばれる使者が駅馬を利用し地方との連絡をしました。
房総地方の駅家は、内房沿いに南から、
白浜駅-川上駅-大前駅-天羽駅-藤潴(ふじぬま)駅-嶋穴(しまな)駅-大倉駅-河曲(かわわ)駅-浮嶋駅-井上(いかみ)駅となっています。
河曲駅から常陸方面へ鳥取駅-荒海駅経由で石岡に至る本路、河曲駅-鳥取駅-山方駅-真敷駅から香取神宮に向かい、
霞ヶ浦の北側を通り石岡に至るルートがありました。
この他後に、茜津(あかねつ)駅、於賦(おう)駅が下総国に設置されています。
(参考までに簡単に現在の地名との比較予想を列挙します)
白浜(館山市)、川上(富山町)、大前(富津市岩瀬付近)、天羽(富津市湊付近)、藤潴(木更津市下望陀付近)、 嶋穴(市原市島野)、大倉(市原市八幡)、河曲(千葉市中央区本千葉)、浮嶋(千葉市花見川区幕張)、井上(市川市)、
鳥取(佐倉市神戸)、荒海(成田市荒海)、山方(成田市郷部付近)、真敷(大栄町南敷付近)、茜津(柏市)、 於賦(我孫子市新木)です。
遺跡として確認された例はありません。
当初は相模国から浦賀水道を横断し、安房国白浜から北上するルートが一般的な東海道でした。
太守
天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の3か国の守(かみ)に親王を任ずる制が始まり、正四位下相当の勅任の官とし、 太守と称され、淳和天皇の一代に限ることとされますが、実際はその後150年間も続いています。
なぜ上総なのかはわかりませんが、親王任国が親王に対する経済的擁護であったと思われ、国司の配分である公廨稲に際し、 出挙稲数の多い大国であったからだと推察出来ます。
配流の地・安房
神亀元年(724年)、配流地が定められ、伊豆、常陸、佐渡、隠岐、土佐とともに安房国が遠流の地に選ばれて、この他、中流の地に諏訪と伊予、近流の地に越前、安芸となっています。
流される者は犯罪者だけでなく、政治的敗者もいました。
防人
東国の武人の勇猛さは有名で、蘇我蝦夷、入鹿は城柵の防衛に東国の健人(ちからひと)の守衛させたり、 奈良時代の天皇側近の警衛にあたった中衛府(ちゅうえふ)の舎人は「東舎人」と呼ばれており、このような東国の武人の伝統から九州に赴く防人にも利用されま、房総からは一旦国司に部領されて難波津に集結し、海路筑紫に向かいます。
なお、難波までの食料は自費です。
日数的には、上総・下総から平安京までは上り30日、下り15日、安房からは上り34日、 下り17日となっています(『延喜式』による)上りの方が日数が多いのは、調傭物等の租税の運搬があるためだと思われ、太宰府と平安京は、海路で30日で、現地では兵部省防人司の指令に従って職務に従事しましたが、近くに空閑地を与えられ、
稲や雑穀を栽培し食料としていました。
蝦夷征伐
宝亀5年(774年)7月に陸奥国の蝦夷が桃生城を攻撃したのを契機に、 弘仁2年(811年)閏12月に文室綿麻呂の奏上により戦闘を収束させることが認められるまで、
いわゆる「三十八年戦争」があり、阿部比羅夫の遠征などで大和朝廷の勢力は北進していきますが、これと同時に房総他、 東国各国は蝦夷征伐の兵力の基盤となります。
天応元年(781年)9月、外従五位下勲五等を賜った安倍猿嶋臣墨縄は、猿嶋郡の豪族で、 前年3月に多賀城を陥落させた伊治(これはる)公アザ麻呂の反乱鎮圧の功によるものでした。
安倍墨縄は、延暦元年(782年)に鎮守将軍大伴家持のもと、 権副将軍に任命され、同3年には持節征東軍監、同7年には鎮守副将軍に任じられ、同8年、征討軍は蝦夷の長・アテルイの本拠地を目指し北上川を渡りますが、反撃にあい、
別将丈部(はせつかべ)善理ら25人が戦死、245人が負傷、 さらに1036人が北上川で溺死するという惨敗を喫しました。
安倍墨縄は敗北の責任を問われますが、これまでの功績により死罪は免れました。
弘仁2年(811年)閏12月に蝦夷との戦争が終結すると翌年に物部匝瑳連足継が鎮守副将軍から将軍に昇格。
この後も代々物部匝瑳氏一族が鎮守将軍になっていて、秋田城跡からは「上総国部領解〜」と記された木簡が出土しています。
兵を率いて秋田城に出征し、そのまま兵士を監督する任にあたっていた部領使が提出したこの木簡によれば、
秋田城内の重要な門の警備宿直を上総国の兵士が担当していたことがわかります。
また、房総の豪族や民衆は、兵力だけでなく経済的にも蝦夷との戦いを支えて、『続日本紀』の天応2年(782年)の記事に房総3国、相模、武蔵、常陸などの諸国に命じ、
穀10万石を陸奥の軍所に送ったとあります。
宝亀7年(776年)にも安房、上総、下総、常陸4国が船50隻を購入して陸奥国に集結させているので、
相当数の船を所有したいる豪族がこれらの諸国にいたことになります。また、当時、
利根川の内海面が軍需物資の輸送基地であったこともわかります。
蝦夷進出状況
平安時代の初めの797年、坂上田村麻呂は征夷大将軍となり、征夷大将軍とは蝦夷を討つための臨時の将軍です。
この時の官位は「征夷大将軍、近衛権中将、陸奥出羽按察使、従四位上兼行陸奥守鎮守府将軍」で、坂上田村麻呂は人気があり遠征に加わる希望者が多く用意した馬が足りなくなる事もありました。
蝦夷を討つために豪族の子に武芸を習わせ専門の兵とし、「健児(こんでい)」と言います。
坂上田村麻呂は千葉県にも立ち寄り各地にゆかりの地があります。
647年に越後の渟足柵(ぬたりのさく)、648年に磐船柵、724年に多賀城、750年に秋田城、758年に桃生城、780年に胆沢城、 803年に志波城まで進出し、国土を開拓していき、850年には津軽まで達しています。
征夷大将軍・坂上田村麻呂は房総にも来ており、現在でも各地に残っています。
俘囚の反乱
嘉祥元年(848年)2月、上総の俘囚(ふしゅう)丸子(まろこ)らが反乱を起こし、上総・下総等の5か国に対し征討の命令が下り、2日後には上総国が俘囚57人を惨殺しました。
俘囚とは、服属した蝦夷のことで、現住地から切り離し弱体化させる目的で諸国に移住させられて、公民として調庸を課したり、俘囚に対する財政支出を陸奥や出羽国以外にも負担させる狙いもあったと思われます。
俘囚の反乱はこの後も各地でしばしば起こり、上総国では貞観12年(870年)に再び事件が起こり、貞観17年には下総でも反乱が勃発、
武蔵、上総、常陸、下野などの諸国の兵士各300人を動員し下総国を支援させ俘囚を追討しています。
成田山新勝寺
平将門の反乱を憂えた朱雀天皇は、親族にあたる京遍照寺の寛朝僧正に天国の宝剣を授け、朝敵覆滅の護摩を修せしめ、寛朝は高野山に安置されていた不動明王像を奉持し海路・東国に下りました。
九十九里浜に上陸し、下総国の公津ヶ原に安置し、21日間調伏の護摩を修し、将門軍を平貞盛、藤原秀郷が包囲しており、満願の日の天慶3年(940年)2月14日、将門は討たれました。
戦勝は明王の神力によるものと、天皇が国司に命じて現地にお堂を建立させ、新勝寺と命名され、公津ヶ原の不動明王を、その後の戦乱で荒廃したため、永録年間に成田村一七軒党代表の名主が像を背負って、
現在の場所に遷座しました。
江戸湾
徳川家康が初めて江戸に入った時、江戸湾にはクジラが潮を吹いていたといい、江戸城周辺はかなりの田舎だったようです。それから100年もしないうちに江戸は世界でもトップクラスの大都市になります。
鷹場と御成街道
将軍のお膝元の関東では、旗本の支配地に鷹場が設定され、鷹場とは、鷹狩り(鷹を使った狩猟)をする場で、房総には早くから鷹場があり、中でも上総の東金鷹場は10万石余に及ぶ規模で家康が関東に入ってから最初の鷹場とされ、鷹狩りの拠点となる場所は「東金御殿(現東金高校)」と呼ばれました。
東金鷹場での最初の鷹狩りは慶長19年(1614年)で、土井利勝を頭に100人余りが3隊に編成され千葉、東金、 佐倉と広範囲に展開され、鷹狩りのために作られた街道が御成(おなり)街道で、船橋からほぼ一直線に東金に向かって(多くは現在も残っています)おり、その線上にある約90の村では分担して造成し、起点である船橋には船橋御殿が、東金御殿との中間点にあたる中田村(現千葉市若葉区御殿町)には御茶屋御殿がありました。
寛永7年(1630年)の秀忠の鷹狩りでは460人を超える規模で、軍事演習と言って良い規模で、御成街道周辺の村では道の保全や植樹、鶏、鴨、雉などの提供や人足の負担、
さらには一行のまかないのために高級魚を運んだりと大変なものでした。
3代将軍・家光は鷹狩りの計画はあったものの一度も行われず、寛永11年(1671年)に東金御殿は取り壊しとなりました。
5代将軍・綱吉の頃には生類憐れみの令から放鷹は廃止されました。
手賀沼
江戸時代の初期には我孫子布佐大森に川口と称する水路があり、ここから利根川に通じて、寛永10年(1633年)に竹袋(印西市)から木下に水路を作り、利根川に通じるようになり、現在でも弁天堀と呼ばれる遺構が残っています。
その後、江戸の商人・海野屋作平衛他17人が幕府の許可を得、寛永12年(1635年)に新田230余町歩が作られ、享保12年(1727年)、当時評判の伊沢弥惣兵衛為永の設計により再工事を行い、
長さ約1.8kmの堤を築いて沼を上下二つに分け排水路を設ける工事は享保14年に完成し、10年後の洪水で千間堤は崩れてしまい、翌年再び堤を作りますが、6年後の洪水で再び壊れ、老中・田沼意次の命でも作られますが、やはり洪水で流れ、田沼の失脚で計画は中止されました。
しかしそれまでに作られていた部分部分は以後もずっと利用され、千間堤は現在も残っています。
伊能忠敬
延享2年(1745年)上総国山辺郡小関村(九十九里町小関)に生また伊能忠敬は、 18歳の時に酒造家の養子となり、 50歳の寛政6年(1794年)、家督と長男に譲り翌年江戸の暦学者・高橋至時(よしとき)の門をたたき、
隠居後の56歳になってから始め日本で最初の詳密地図『大日本沿海輿地全図』を作り、天体観測によって諸地点の緯度を測定、緯度・経度の網の中に実地測量した地形を位置づけすることにより
驚異的正確さの地図を完成させました。
廃藩置県
徳川宗家の駿府移封に伴い、駿河の沼津など3藩、遠江の掛川、 浜松など4藩が、さらには曽我野藩も房総への転封を命じられ、廃藩となった請西藩を除いても16藩あった房総は24藩になり、
明治4年(1871年)7月の廃藩置県では葛飾県、宮谷県と合わせ、 26県が並立することになり、同年11月、全国的に県の統廃合が行われ、全国は3府302県から3府72県に整理され、房総でも安房・上総一円に木更津県(一次案の久留里県から変更)、
香取3郡を除く下総が印旛県(同じく一次案では佐倉県)、香取3郡と常陸6郡をあわせこれを新治県となりました。
明治6年(1873年)6月15日には、印旛県、木更津県が合併、千葉県が設置され、県庁所在地は、両県の県境付近であり、かつ東京湾に近く東京寄りであることから千葉町に定められ、千葉県権令には柴原和(やわら)が就任しました。
明治8年(1875年)5月7日には新治県が廃県となり、香取3郡が千葉県に編入、同時に旧印旛県域の利根川以北の猿島などの4郡と葛飾、 相馬郡の一部が茨城県へ編入し、利根川を県境とすることで治安の維持や治水対策の上で便利であると考えたことが理由です。
千葉県の誕生
明治2年1月13日葛飾県ができる。
明治4年(1871年)の廃藩置県で房総は館山県、佐倉県など23の県が置かれました。
明治4年11月14日、上総と安房の2つの国は合併し
木更津県となり、
下総国と、常陸国の南部は印旛県と、新治県になりました。
印旛県:葛飾郡 (県庁所在地 流山市加(野田市・
流山市・
柏市・ 松戸市・
浦安市・
鎌ヶ谷市・
市川市・
船橋市・八千代市 ))・千葉郡(千葉市・習志野市・八千代市)・印旛郡(佐倉市・成田市・印西市・白井市・
四街道市・酒々井・八街・富郷・印旛・ 本のう・栄)・埴生郡(現印旛郡)・相馬郡(柏市の一部・ 我孫子市)・猿嶋郡・結城郡・豊田郡・岡田郡
新治県:信太郡(県庁所在地 土浦)・河内郡・筑波郡・新治郡・行方郡・新治郡・
香取郡(佐原市・下総・神崎・大栄・小見川・山田・栗源・多古・干潟・東庄)・海上郡(銚子市・旭市・海上・飯岡)
・匝瑳郡(八日市場市・光・野栄)
木更津県:望陀郡(県庁所在地 貝淵)・市原郡(市原市)・武射郡(現山武郡)・
山辺郡(現山武郡(大網白里・九十九里・成東・山武・蓮沼・松尾・横芝・柴山))
・長柄郡(現長生郡(茂原市・一宮・睦沢・長生・白子・長柄・長南))・ 埴生郡(上埴郡より長生郡)・夷隅郡(勝浦市・大多喜・夷隅・御宿・大原・岬)・長狭郡(現安房郡)・朝狭郡(現安房郡)・
安房郡(館山市・鴨川市・富浦・富山・鋸南・三芳・白浜・千倉・丸山・和田・天津小湊)・平郡(現安房郡)・天羽郡
(現君津郡(木更津市・君津市・富津市・袖ヶ浦))・周准郡(現君津郡)・望陀郡(現君津郡)が、誕生した。
明治6年(1873年)6月15日(県民の日)
印旛県・木更津県を廃し、千葉県(県庁所在地
千葉町)が誕生しました。(ちなみに、
その日は千葉県誕生の記念日ということで県民の日になっています。)
千葉県の人口が、100万人。この年のトピックスは、それまで使われていた太陰太陽暦(旧暦)に代わって太陽暦が採用されたこと、
徴兵令が公布されたことなどです。
明治8年に、新治県の香取郡・海上郡・匝瑳郡を、千葉県に編入しました。 旧印旛県の、葛飾郡の一部(利根川より北)・
相馬郡の一部(利根川より北現 北相馬郡)・猿嶋郡・結城郡・豊田郡・岡田郡を、 茨城県に編入(葛飾郡の一部・
相馬郡の一部を現在北相馬郡と呼ぶ)し、
旧印旛県の葛飾郡の一部(利根川より東)を、埼玉県に編入して、 葛飾郡の一部(江戸川より東)を、東京府に編入しました。
東葛地域とは(平成8年7月発行/千葉県総務部地方課 より)
千葉県には、千葉地域・東葛地域 ・印旛地域・香取地域・海匝地域・山武地域・長生地域
・夷隅地域・安房地域・ 君津地域が有り、この地域を、昔(市制施行以前)は、郡と呼んでいたそうです。
このうち、東葛地域 の中には、次の各市町があります。
北より野田市・
流山市・
柏市・
我孫子市・
松戸市・
浦安市・
鎌ヶ谷市・
市川市・
船橋市 などです。
東葛飾とは、
葛の葉が生い茂るところ、とでもいうのでしょうか。万葉の時代から、かなりひらけていたところらしく、万葉集にも、
いくつか歌が残されています。
また、古代から交通の要所でもあり、この下総国の国府(国庁は、市川市の国府台に置かれ、
和洋学園国府台キャンパス内の遺跡調査で、
国衙の一部と思われる遺構が発掘された。道路跡や大型の掘立建物が検出され、
墨書土器や三彩小壺などが多数発掘され、律令祭祀の中の、
鬼気の進入を防ぐ境界祭祀に関わるものだろうと考えられている。)から北へ上ると、
常陸の国府へ、真間の継橋を渡って東へ行けば上総、
安房へ通じていました。
万葉の 時代には山部赤人や高橋虫麻呂がこの地を通り、くだって寛仁4年(1020)には、更級日記の作者が、
父の上総介菅原孝標に従って上総国府から、
ここを経て京へ上っています。
下総国と上総国の国境は、本来隅田川(八犬伝が書かれた時代、「荒川」といえば今の隅田川の事で、
今の荒川放水路は存在しない)のはずでありました。
国技館のある「両国」という地名は、武蔵と下総にまたがるからついたのです。
中世に入り江戸川を境として葛東郡、葛西郡に分割され、
戦国時代末期から江戸時代初期(寛永年間)に江戸川が開削され、江戸川の西(葛西郡の大部分を占める下河辺荘の一部)
は武蔵国に編入されました。
江戸時代〜明治初期に、葛飾郡の一部で、都(府)・県制施行により葛飾郡の内
東京都(府)に属した部分を、
旧葛飾区(東京府南葛飾郡〜東京府葛飾郡〜東京府東京市
葛飾区
あたり)と呼び、埼玉県に属した部分が北葛飾郡(栗橋(くりはし)町 ・
幸手(さって)市・
杉戸(すぎと)町・
>庄和(しょうわ)町・
松伏(まつぶし)町・
吉川(よしかわ)市・
鷲宮(わしみや)町・
草加市・
八潮市・
坂戸市・
春日部市であり(明治8年)、
葛飾郡の茨城県に属した部分(西葛飾郡)と相馬郡の茨城県に属した部分を併せて北相馬郡(
岩井(いわい)市・
水海道(みつかいどう)市・
守谷市・
取手市・
北相馬郡藤代町・
北相馬郡利根町)となった。
従って、千葉県に属した葛飾郡(東葛飾郡関宿町・野田市・流山市・柏市(東北部の一部を除く)・松戸市・鎌ヶ谷市・市川市・船橋市(東部の約半分の地域を除く)・八千代市の一部・浦安市)と
相馬郡(南相馬郡(柏市・我孫子市・東葛飾郡沼南町))が合併して東葛飾郡(一時 葛飾郡と呼んでいた)と呼ぶようになった。